このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
とんでもないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2017/12/01

Vol.425「小さな挑戦/フェースofワンダーの壁」



日本橋の三越本店近くにあるアートショップ&ギャラリー「アートモール」から嬉しい申し出があった。
12月12日から17日まで二階のギャラリーで、フェースofワンダーの仲間たちの作品展をやらないかというお誘いである。
「アートモール」は銀座に画廊を持つ6人の店主が、生活の中にアート作品(コピーではない本物の)を飾る若者文化を日本にも根付かせようと展開しているプロジェクトの一環で、それぞれの画廊店主お薦めの小作品をお手頃価格で販売するアンテナショップ。
いま文化は大きく変わろうとしている。
既成の価値観で芸術という言葉のもとに人々の表現を階層化してきた時代は、若者たちの中ではすでに崩壊している。このプロジェクトはそんな若者たちが求める文化の方向を探り、創造していくためのひとつの試みなのだと思う。
そこから声をかけていただいたのも何かの巡りあわせなのだろう。
喜んで受けることにした。
「アートモール」はいま人気のスポットCOREDO室町の裏にあり、とてもとても小さなお店だけれど、パリの路地裏のギャラリーを思わせるおしゃれな路面店。
ボクの大好きな仏映画「シェルブールの雨傘」を思わせる店、ミシェル・ルグランの甘い音楽と若いカトリーヌドヌーブが「アートモール」から出てきても不思議はないような気がする。
あの映画は1964年の制作だから、実に54年も前の映画だけれど、ボクの中ではクレーの絵画を同じように年月を超えて心の中に新鮮な力を与えてくれる作品なのだ。
「シェルブールの雨傘」がこれからの若者文化に結び付くかどうかはわからないけれど、表面的な技法や評価を超え、どんな時代にもあふれてやまない人の愛(哀しみも含め)こそが文化の核なのだろうと思ってるから、その想いはきっと伝わるだろう。(ゴヤやゴッホ、クレーの作品がそうであったように・・・)
申し出があってから開催まで一ヶ月しかないから、作品選び、DM/チラシつくり、口コミのお願いなどを一気にこなさなくてはならずてんやわんやの日々が始まった。
多くの仲間がボクの呼びかけに答えてくれて、チラシデザインやYouTubeに掲載する予告動画まで制作してくれた。作品選びでは新鮮なアート感覚を刺激する作品に絞り、ボクの知り合いの作家12人+フェースの仲間たち13人が参加してくれることになった。
すべての仲間に感謝!感謝!である。
ギャラリーの壁面は、そんな仲間たちの作品や想いで埋め尽くされるだろう。
多くの言語、色彩、表現が広がる個性満載の壁だ。
で、作品展のタイトルを「フェースofワンダーの壁」とした。
この壁がいつかベルリンの壁のように、若者たちやフェースの仲間たちによって壊される日がくればいいと思ってる。
その時こそ、一人ひとりの表現が当たり前のように世の中を行き来するようになるだろう。
そんな世界の街かどを口笛でも吹きながら歩いてみたいというのがボクの夢である。


<YouTube予告動画>
Face of Wonderの壁
https://www.youtube.com/watch?v=sAJef3VGIo0
「フェースofワンダー」で検索しても開きます。


2017/11/24

Vol.424「いろんな線が集まると・・・」



前回は一本の線をバトンタッチして描いていくアートを紹介した。
今回は、バトンタッチなんて嫌だという人たちが作り出す線の世界を紹介したい。
机の上に2mくらいの紙を敷くと、紙の上に点を打っていく。
およそ、30cmくらいの間隔。
その点と点の間を結ぶように、マジックで線をひいていく。
まっすぐに線を引く人はほとんどいない。
グーと一気に上昇したかと思うと、行く先を見失いウロウロ・・・
「ココだ、コこ!」と声をかけながら着地点を指さしてあげると、安心したようにゆっくり線は降りてくる。
次の人は腕を振り払うように、手に持ったマジックでサッと一閃、
鋭い線が生まれる。
えっ!それでお終い?
点なんか関係ないのだ。
それでおそるおそる「もう一回、お願い」と声をかけてみる。
すると、サッ!
次の人は、身体全体で描く。
マジックを点の上に置くと、ゆっくりゆっくり・・・ああ、身体が彫像のように硬くなって動かない。
線も動かない。
「あっちだよ」と力に入った肘をそっと押してあげる。
すると1㎝くらい線が描かれる・・・それからまた一休み。
「ほら、あっちね」、そっと肘に触れる。
すると、また1cm、線が伸びる。
そんな風にして10cmの線が完成する。
10㎝だけれど、偉大な線だ。
次は楽々、線を引いていく仲間。
その人の線は止まらない。
紙の端から端まで一気に駆けていくと、Uターン。
緩やかな凹凸のある線が何本も紙の上にあらわれる。



1時間も過ぎると、紙はそんな仲間たちの線で埋め尽くされる。
やったあ、やったあ、うん、うん、うん・・・仲間たちは片手にマジックを持ち、紙の周りをうなずきながら歩いたり、ジャンプしたり・・・。
線と仲間たちは響きあっている。
線は自由に伸びた気持ちの良い草はらのようにみえる。
仲間たちが裸足になって、その上を歩いたり、踊ったりしているようにみえる。
ワタシも、そこに入っていきたい気持ちになる。
でも、つまらないものに囚われているから、輪の中に入っていけない自分がいる。
みんなで描いた線を壁に貼ると、それは不思議な交響曲を描いた楽譜に見える。
あるがままのスタイルで描く表現者たちの自由な歌声がそこから聞こえてくる。




2017/11/17

Vol.423「一本の線からひろがっていく世界」



私のやっているアートワークショップについてよく質問を受けるのは、いろいろな素材を使って作るモノづくりワークショップとはどこが違うのかということだ。
違いを簡単に言えば、完成品を作るのが目的ではなく、作る過程の楽しさをみんなで作ることが目的だという点だ。
だから私のやっているワークショップでは、虫を作ろうというテーマでワークショップを始めても、途中で虫ではなくて奇妙な森になっても全然問題ない。むしろ、みんなのアイデアや想いが混じりあって全く別のものが生まれたとしたら、それは一人ひとりの個性やエネルギーが交錯し増幅した結果なのだから大成功だということになる。
予定された完成品を決められた工程で作るワークショップではそうはいかない。予定したものとは違うものになったとしたら、ファシリテーター(案内人)の失敗ということになるのだろう。
そんな私のワークショップでは手や口を動かすことが活動の基本。自由なおしゃべりや関わり合いから生まれる開放感、楽しさがすべてに優先するのだ。
わいわい・がやがや・ぴょんぴょん、ごろごろ、うろうろ・・・みんなOK。
それぞれのスタイルで取り組んでいく。
仲間たちは遊んでいたり、踊ったりしているように見える。
やがて、そこに思いもしないものが立ち上がる。
決して一人では表現できない何か、
その時にしか生まれない表現の姿、
既成の概念をこえたかけがえのない何か。
そのことさえ押さえておけば誰にでもできるワークショップなのだ。



例えば、みんなで大きな紙に一本の線を描く。
紙の周りに集まり、端から一本の線を描き始める。
少し描いたら次の人にペンを手渡す。
また少し描いたら次の人に手渡す。
そんな風にして端から端へ一本の線が描かれる。
ぎざぎざ、ゆらゆら、のんべんだらり・・・
一本調子に硬く、かすかにかすかに細く・・・
突然、走り出し、立ち止まり・・・
あくまで太く、のびやかな・・・たった一本の幾つもの豊かな感情が揺れている。
その線は生きている。
その線にみんなでマス目を入れて、色を塗っていく。
線は色の帯になる。
それを細く切って紐にする。
その紐を絡み合わせて、AMIDAKUJIを作る。
そんな風にして、線はとどまることを知らず、どこまでも広がっていく。
そんなワークショップを私は目指している。




2017/11/10

Vol.422「ぷかぷか村の山猫料理店」



ぷかぷか村の演劇ワークショップがスタートした。
今年は賢治さんの「注文の多い料理店」を取り上げるらしい。
月一回の土曜ワークショップを積み重ねてセリフや劇の動きをみんなで作っていく。
だから、来年1月の開演時には、集まった人たちの凸凹なイメージや思いつきでとんでもない料理店が舞台に登場することになる。
賢治さんの老舗料理店とは違うぷかぷか料理店だ。UWA!って感じで、どんな料理があらわれるのか、いまから楽しみだ。
ボクは土日が忙しい人なので、土曜ワークショップには残念ながら参加できない。
で、劇の背景や小道具作りをぷかぷか村の仲間たちと一緒に制作することにしている。
落ち葉の降るこの季節、ぷかぷか村に向かうアップダウンの続く道を、歯を食いしばりながら自転車のペダルを踏んでいると、風の中に光のつぶつぶが見えたりする。
葉っぱの匂いも柔らかくて、暖かい透明セーターのように身体を包んでくれる。
賢治の森の物語が水のように身体にしみこんでくる。
いい季節、賢治も仲間たちも透きとおった時間を思いきり楽しんでいる。
HOORA、HOORA、手足が風にまきついて踊っている。
この前なんか、ぷかぷか村の運動会で描いた仲間たちの似顔絵が猫に変身した。
ぷかぷか村料理店で働く山猫たちだ。
「この子の顔、どうしたら猫になる?」
「んー、ひげつける」「何色のひげにする?」「空色!」
「耳がとんがってるよ」「どこに描く?」「んー、頭の上。猫のひげと耳はアンテナなんだよ」
アートな会話が飛び交い始める。
「わあ、青い目が可愛いね!」「まつげをつけちゃう」「ピンクの蝶ネクタイもいいわ」
「メイドカフェのお姉さんにしちゃおう!」
「いったことあるの?」「ないよお!」「でも、お帰りなさいませ、ご主人様っていうんだって」「ふううん」
不意に空気が変わる。
ちょっと怖くて、ちょっと行ってみたくて・・・でも誰もひとりでは行けないのだ。

もう一匹の猫は白い帽子とエプロンをつけたシェフに変身している。
「何を作るの?」「フランス料理?」「BOOO!ジャージャー麺!」
「その壜にはお酒が入ってるの?」「ワイン?」「BOOO!違う、イイチコ!」
かくて、賢治の「山猫料理店」はにぎやかでアナーキーな無国籍料理店に変わっていくのである。




2017/11/03

Vol.421「雨の日、運慶さんに会い行く」



10月に入って二度目の台風22号の近づく雨の朝、上野に運慶展を観に行った。
史上最大の運慶展と銘打った展覧会は入口のチケット売り場で30分待ちという混雑情報も流れ、雨ならば少しでも人出は少ないかもと雨の日を選んだのである。
国立博物館に行く道も混雑が予想される上野口を避け、根津から芸大裏の坂を上る道を選んだ。途中にある鴎外旧居の古池をのぞくのも一興かと戦火にも焼け残った家々を眺めながら歩いた。
静かな雨の降る道だった。
しかし、運慶展は予想通り混み合っていた。
ゆっくり仏たちと対座するということは望むべきもない。人々の背越しに、あれが阿弥陀仏、不動明王、あれが目玉の八大童子立像、無著菩薩・世親菩薩と視線を漂わせていると、流行のものを一目見ておこうという自分のあさましさにうんざりしてくるのだった。
しかし、仏たちは流石(さすが)である。
我々、庶民の芥(あくた)に動じることは微塵もないのである。そんなことは百も承知の助風に泰然自若、得意のポーズで怒髪天の見得を切ったり、静かな微笑みをたたえている。その姿を見ていると、彼岸にいる仏たちと我々庶民の距離を痛感する。
しかしである。千両役者のように、われわれ庶民の期待に応えている姿をみていると、いや待てよという気持ちにもなってくるのである。
何かが違う。仏がいないのだ。
八百年を超える栄枯盛衰の時間や人々の祈りなどが伝わってこないのだ。
運慶さんも姿を見せない。
なぜだろう?考えているうちに得心がいった。
彼らは今回の展示のために魂抜きの法要を授けられ、ここに搬入されたという。魂を抜くということは仏からモノ(鑿を入れられた木片)、オブジェに還すことなのだ。
目の前にある仏像はオブジェに変わっているのだ。
木片に魂を入れようとして、鑿を入れた運慶さんは当然、そこにはいない。
運慶さんに会おうとして、博物館に来たことがとんだ間違いであることにやっと気づいた。仏たちが本来おられるべき御堂の薄暗い光の中で心静かに対座することでしか運慶さんは訪れてこないことに今更ながら気づいたのである。
で、オブジェを見ることにして観点を絞り、足早に回ることにした。
手だけを見るのである。薬壷を持つ手、剣を持つ手、印を結んだ手・・・次々と手だけを目蓋に綴じていった。
外に出ると、雨足は一段と強くなっていた。
しぶきの上がる舗道を下りながら、仏たちの手とは違う美しい手を最近見たことを思い出した。
床に敷いた紙に長い指を伸ばしたYさんの手だ。
筋萎縮の掌をわずかに開き、筆を指の間に挟むようにして、震えながら紙に緑の線を引こうとする手、それはオブジェではない。
一心に線を描こうとする生きた手だ。
その手を運慶さんなら、どのように鑿を入れていくのだろうと思いながら鶯谷に向かった。