このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2013/04/19
Vol.80 この果実はいつ熟するのか
Hさんに会ったのは、彼が特別支援学校の高等部に入学するための
面接会場だった。
おじいさんとお母さんと一緒に学校に現れた彼は、極端に緊張し、
直立不動のような硬い姿勢でボクに挨拶をしてくれた。
難聴のボクにはほとんど聞き取れない小さな声だった。
その声と丁寧な言葉使いが、ボクの印象に残った。
入学して、最初の美術の授業にボクは決まって新入生に聞くことがあった。
「絵を描くことが好きな人は手をあげてください」
誰も手を上げない。
理由を聞くと、下手だから、面倒だから、つまんないから・・・
毎年、入学してくる新入生の大半は美術が嫌いなのだ。
どうしてそうなったかは、おおよそ察しが付く。
Hさんもそうだった。
で、ボクは最初の授業に、生徒の一人をモデルにして人物画を描いてもらう。
椅子に座って正面を向いた人。
紙の上におそるおそる人の形が描かれていく。
でも、彼らの手の動きは重い。
頃合いを見て、
ボクはモデルさんの頭にトーモロコシと玉ねぎの模型を載せる。
みんなびっくり。
次に片手にモップを持たせる。
みんなの表情が和らいでくる。
「はい、どんどん描いていってね。似てなくていいんだよ」
「面白くね、楽しくね」
30分ほどでストップし、次のモデルさんに交代。
「君たちの好きなものを持ってきて、モデルさんを飾ってあげてね」
生徒たちは、黒板ふきやピアニカ、長靴なんかを持ってくる。
みんなの目が輝きながら手が動きはじめる。
2時間の授業の終わりにはいろんなポーズの人物画がいっぱい生まれていた。
放課後、そんな絵を一枚一枚見ていると、
紙の隅にとても小さく描かれた絵が目にとまった。
Hさんの絵だった。
とても細かく丁寧に描かれた
トーモロコシのつぶつぶ、たまねぎの細い根・・・
でも、そこに人は描かれていなかった。
そんな彼がアートクラブに入り、
私と絵を描きはじめて5年が流れた。
彼は就職し、今も絵を描きに来ている。
彼の描いている絵は、いまもボクの心を打つ。
それにしても、
この果実はいつ熟するのだろう?
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2013/04/16
Vol.79 ワンダーな夜の画商
金曜日の夜、東京の町田市にあるプラスアルファという
生活介護施設をお借りして仲間たちと絵を描いている。
駅からバスで20分ほど、仲間たちは、コンビニで買った
カップラーメンやおにぎりを食べながら、絵を描く。
ミートソースや味噌ラーメンの匂いが、絵に混じるのは、そのせいかもしれない。
今は、ゴールデンウィークに開催する般若心経展の作品に取り組んでいる。
彼らに自分たちの作品に値段をつけて販売してみようという話をしたら、
蕎麦屋で働いているRさん、俄然はりきりだし、
自分の絵を片手に「これ、一千万円で売れますかね?」と聞いてきた。
「どうだろう?私は買わないけれど、買う人がいるかもしれないね」
「じゃあ、これは?」隣で描いているKさんの赤い抽象画を示すと、
「んんんー、25万円ですかね。」
「どうしてよ?」
「だって、こんな大きなリンゴは売ってないからね。
毒りんごじゃないし・・・毒りんごは眠くなっちゃうからね」
「じゃあ、Gさんの絵は?」
「これは、いい絵だねえ。タバコのパイプみたい。うん、50万円!
タバコがいっぱいだから、やっぱり高いよ。吸ったら癌になっちゃうよ」
Gさんの絵は、とても繊細な細かいレース模様のような抽象画だ。
んんん、これをタバコと見るのかと、私はひそかにRさんの審美眼に舌を巻く。
毒りんごじゃないから25万、タバコは50万・・・
Rさんの画商としての明快な評価基準?にも、思わず納得してしまう。
「じゃあ、Mさんの絵は?」
「あれ?あれは1万円。ただの瓶じゃ話になんないよ。
メーカーを描いてほしいよ。メーカーがないと誰も買わないよ。」
私は印象派風のMさんの瓶の絵を気に入っていたので、
ばっさり切り捨てられた気になる。
「じゃあ、Rさんの絵はどうして、1000万円なの?」
「だって、ほら、これは国宝の絵でしょう?」
彼は、模写している新聞の切り抜き(国宝絵巻の写真)を指さす。
「1億円でもいいんだけれど、でも800万円でいいや」
おお、一気にものすごいダンピング!
「どうして?すごく安くなっちゃったね?」
聞くと、また明快な答えが返ってきた。
「だって、俺の絵はカレンダーの裏に書いているでしょう」
思わずのけぞる私であった。
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2013/04/12
Vol.78 まる・さんかく・しかく
まるをかくのはむずかしい
ときみはいう。
じゃあ、さんかくは?
さんかくはまるになる
ときみはいう。
しかくはどう?
しかくはおもちになるよ
ときみはいう。
きみのまるは、
めのけんさのように
どこかきれている。
きれて、
そこからきみがにげだしている。
とじこめられない、
とじこめられない、
きみはとじたせかいから
にげだしている。
きみのさんかくは
どこかまるくて、かどがない。
なにかをいおうとして
あけたきみのくちもとのよう、
そこからこぼれることばのように
とがっていない。
きみのしかくは
へんげんじざい
ぷっとふくらんでみたり、
べろーとのびてみたり、
やわらかくて
あたたかい。
ちょっとさわりたくなる
きみのこころのよう。
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2013/04/9
Vol.77 雨ニモ負ケ、風ニモ負ケ
4月に入って、雨が続いた。
一度、暖かくなって陽射しに踊る花々を見てしまうと、
どうしても冷たい雨を恨めしく思ってしまう。
海辺の辻堂海浜公園を歩いた。
人も鳥も姿を消し、
傘を打つ雨音だけがやたら聞こえる。
どこにいけばよいのか?
先導者の猫も姿を隠している。
砂浜にも人影はない。
海と空は暗く溶け合い、姿の見えない大きな風が渡っている。
空っぽな体はふらふらし、
そのまま空に持っていかれそうな気になる。
未明まで、
「タネリはたしかにいちにち噛んでいたやうだった」を読んでいたのだ。
不覚にも、山野のイキモノと交流する賢治の魂の在り処を
見つけられそうな気がして部屋を出たのだが、
暗い砂浜で一人、震えているだけだ。
暗い防砂林の中で、
「あいつ、いったい何してる?」
「何してるか、自分もわかんないんだべ」
ひそひそ話をしている連中の目が見えるようだ。
「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズをきどってんのか?」
「デクノボウと呼ばれてるのは確かだがね」
「ま、あいつは、いいとこ辻堂のフラフラ爺っさだな」
「きょうは相手にしないっさ、いい気になっから」
「んだ、んだ・・・」
波や雨の音に混じって、そんな会話が聞こえる。
強い雨風が体にまといつき、歯の根もあわなくなる。
そうだよなあ、
暑さの夏は、パンツ一丁で木陰を求め、
寒さの冬は、ネコの寝床に潜り込み、
自分一人も持て余す・・・
そんな爺さんだ。
でも・・・
でも、やっぱり仲間たちがいる・・・
そう思うと、急に部屋に帰りたくなった。
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2013/04/5
Vol.76 般若心経展のチラシを作る
4月29日から5月7日まで、藤沢の蔵まえギャリ―で、
「フェースofワンダーのわんだーな般若心経展」という作品展をやる。
3月末、遅すぎるかもしれないけれど、チラシを作った。
言いたいことは一杯あるのに、文字数は限られている。
何を一番、伝えられればいいのだろう?
いろいろフレーズは浮かんできたけれど、
結局、最も分かりやすい言葉
「障がいのある人もない人も、アート文字を楽しむ般若心経」に
落ち着いた。
一緒にアートを楽しむことに障がいの有無なんて関係ない。
当たり前のことだ。
それでも、チラシで一人でも多くの人に、
フェースの活動を知ってもらおうとすると、
「障がいをこえて」とか「共に」とか、
「障がい」を強調した言葉を使ってしまう。
できれば「障がい」なんて言葉を一言も使わず、
作品展をやってみたいのだけれど、いつも妥協してしまう。
結局、今回もダメだった。
これが、現在のボクの限界だ。
いくら「障がいのある仲間たちを分断する社会状況が壁になっているから、
仕方ないよ」と言われても、
もっと違ったやり方があるんじゃないかと思う。
今回は、仲間たちがあまり得意とは思われない文字に取り組んだ。
彼らの持っている感性と難解な文字をどう作品に仕上げていくのか?
一つの挑戦だった。
いろいろ試行錯誤を繰り返して、見えてきたのは、
仲間たちと協力者のあるがままの自然な表現のコラボレーションだった。
要は、一切のきまりを設けず、
フェースの世界に行き来する仲間や協力者と、あるがままに文字を描く。
読めなくてもいいし、思いっきり小さくても大きくてもいい、
切っても、貼っても、盛り上げても自由。
なんでもありの文字を楽しむだけ。
それを4m×6mの巨大な紙に貼っていく。
仲間たちの読めない走り描きの文字や散乱する色彩は
般若心経の言葉と融合し、
新しい自由な宇宙が生まれているような感動が
表現の場を包み始めた。
深まっていく仲間たちと協力者の活動に
ボクは新たなアートの可能性を感じた。
何らかの形で作品作りにかかわった人数は200名を超えた。
ボクは般若心経を取り上げてよかったと思った。
ボクは迷わず、チラシのメインコピーは
「自由の極致!」だなと確信した。
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