このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2013/08/27

Vol.115 辻堂海岸に暴風警報が出ました!



今年は、ちょっと気になる言葉が天気予報に流れた。
「経験のない豪雨の怖れがあります」という言葉だ。
空前絶後の土砂降り、天変地異・・・そんな光景が浮かんでくる。
そして、テレビは実際そんな映像を流し続けた。
「想定外の集中豪雨だった」とか「千年に一度の異常気象」なんて言葉もあった。
地球が怒りの声をあげているのだ。
それは最期の声かもしれない。
もう後戻りできないところまで来ているという不安は、日々、濃くなってきている。
それでも、世界規模の取り組みは遅々として進まない。
優先的に英知を結集できない人類の愚かさや国家のエゴイズムに苛立つ日々が続いている。
自分は何をすべきなのだろうという問いは、いつも胸の中にある。
しかし、何をしたらいいのだろう?
そんなボクの焦りを笑いとばす賢人?がフェースにいる。
Sさんだ。
彼は特別、絵を描きたいと思ってフェースに来ているわけじゃなく、仲間たちと一緒に夕飯を食べたり、音楽を聴きながら過ごす時間を楽しむために来ているところがある。
その日も、コンビニの寿司をつまみながら、「おひとつどうですか?きょうは何を描きましょうか?」と人ごとのように聞いてきた。
「んー、何でもいいけれど、きょうも雨がすごかったねえ。」ボクはあまり絵に関係のないことを言う。すると、「辻堂はどうでした?暴風警報が出ましたよ。湘南、藤沢市に暴風警報が出ました」と彼は嬉しそうに答えを返してきた。彼は気象予報が大好きなのだ。
「じゃあさ、それ描いてみたら?暴風警報」すると「はい!」軽い答え。
カレンダーの裏に、ボールペンでさらさらと描きだした。大きな顔のまわりをぐるぐる線やぐにゃぐにゃ線で描きなぐり、「金子センセーです。ご注意ください!ご注意ください!辻堂地域に暴風警報発令、海浜公園を歩いている金子センセーは、ブロックにご注意ください。石も飛びます。」
「なによ、それ?」「えー、暴風警報です。金子センセーのまわりで暴風警報です。ヘルメットをつけましょう!あぶないです!危ないです!」
そんな彼の言葉に、ボクは海辺で一昔前に出会ったダンボールハウスの老人を思い出した。
半ズボンで髪ぼうぼう。昼は防砂林のどこかで眠り、夜、河口に捨てられた自転車やテレビなどをせっせと片づけていた。生活のためかどうかは知らないけれど、ボクはそんな彼を心のどこかで尊敬していたのだ。
Sさんとその老人がダブり、「人類の愚かさに悩むより目の前にやるべきことをやりましょう。目を開けていなければブロックが飛んできますよ。」といっているように聞こえた。
Sさん、ああ確かにそうだね。
目の前のやるべきこと、それはとりあえずフェースの活動を続けることでしょうか?






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2013/08/20

Vol.114 水の中で



先日、伊豆の海で泳いだ。
そこは伊豆高原の駅から歩いて15分くらいの磯で、
急な崖の道を降りると柱状節理の岩を波が洗っている。
そこに二つの大きな潮だまりがある。
浅瀬ではない。深いところは3m位。
岩を越えて波が入り、水は澄んでいる。
知る人ぞ知るという場所で、泳ぎに来る人は少ないのだけれど、今年は人が多かった。
ゴーグルをつけた子どもたちが水中を覗きこんでは歓声をあげている。
何という魚だろう?黒いゴムのような魚が鰭を揺らして遊んでいる。
ウニや亀の手も小さいけれどごろごろしている。
海草も豊富だ。
ボクは磯伝いに人の少ない潮だまりの奥までいくと、ゆっくり水に入った。
冷たい海水が体を包む。
閉じ込めていたものが一気に水に溶けだしていくような解放感に浸される。
それから、波の動きに合わせ、ゆっくり沈んでいく。
微生物だった頃の記憶のようなものが手足から流れ出していく。
いろいろな音が、身体の皮膚を通して伝わってくる。
海の中は決して沈黙の世界ではない。
ボクは補聴器を使った生活をしているので、日常の情報に満ちた世界の方が孤独で静かな世界であることを知っている。
水の中で音は耳ではなく、身体や動きを通して何かを伝えてくるのだ。
身体の力を抜いて漂っていると、
地上では遍在する陽射しも、水の中では光のゼリーのようになって、潮の動きに合わせ漂っていることを発見したりする。(ポニョの世界だね?)
変な言い方だけれど、
海に入るとボクは、耳が聴こえないことの不自由感こそがボクを生かしている大切な核心じゃないかと思ったりする。
だって、誰が水の中の豊穣な音を見ることができるだろう?
海の中で、ボクは障がいがあるという仲間たちの存在を身近に感じる。
彼らの世界は、遠くにあるのではなく、すぐそこにあるのだと思う。
水の中で波に揺られながら、ボクは仲間たちのところに泳ぎだそうと思う。






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2013/08/16

Vol.113 第一回湘南アールブリュット展からのお願い



いよいよ手づくりの公募展「湘南アールブリュット展」がスタートした!
公募の締め切りが9月15日~25日と、もう一カ月くらいしかない。
第一回目なんだから、もっと周知期間をしっかり取ってじっくりやりたいところだけれど、会場の関係で展示期間(9月27日~10月3日)が動かせず、こんなあわただしい日程になった。
でも、体裁や失敗を気にせず、やれる形で一気にやっちゃおうというところが、いかにも私たちらしい(笑)。
もしかしたら手づくりっぽくてかえっていいかもかもしれない。
なにせ、アールブリュットなんだから、既存の形式や体裁にとらわれない(笑)。
それでも締め切りまでに一カ月しかないと、チラシを手にした人が、「おっ、参加してみようかな?」と思っても、さすがにひいちゃうよねえと少々不安でもある。

で、本当に申し訳ないのですが、これをお読みの方に幾つかのお願いがあります。
1. この手づくり公募展に興味を持ち、少し力を貸してあげようかなと思われる方は、
「くすくすミュージアム」のよこはちさんや蔵まえギャラリーに連絡をください。(電話でもツイッターでもフェースブックでも結構です)
2. 自分も作品を出展してみようかなと思われる方は、蔵まえギャラリーに連絡して応募要項を手に入れてください。データーをお送りします。
3. 作品は出せないけれど、知り合いの「あの人」に声をかけてみようかなと思う人は、今すぐ、「あの人」に連絡してください。
4. 紹介してみたい人もいないけれど、ちょっと面白そうだなあと思う人は、ぜひ展示会場にお越しください。お茶とせんべいでもいただきながら、ゆっくり話をしましょう(笑)。

とにかく、スポンサーや人脈、金脈もない、小さなちいさな公募展作りの始まりです。
規則に縛られない自由な公募展を試行錯誤しながら作っていきたいと思っています。
いろいろな形で、みなさんのアドバイス、ご支援をよろしくお願いします。
(なんだか大政党に立ち向かう小さな草の根の選挙運動みたいですね?笑)
ではでは、よろしくお願いします。







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2013/08/13

Vol.112 公募展を創ろう!



ここ何か月か、仲間たちと議論をしてきたことがある。
それは、「アールブリュットの公募展」を起ち上げるかどうかということだ。
7年ほど、湘南地域でやってきたハーモニー展という活動が、地域の作業所や学校、アートサークルといった「障がい者アート」作品展の枠組みを超えることができず、このまま続けていっても展望は見えてこないという壁にぶつかっていた。
「もういい加減、アートに『障がい』というレッテルを貼るのはやめたいよ。」
「色眼鏡なしに、生きている喜びや悲しみを表現する仲間たちの作品に出会う場を作っていこうよ。」
そんな声はあがるものの、「じゃあそれはどんな場なの?」というと、「んんん・・・」一気に声はしぼむのだった。
で、いろいろ議論。
「『障がい者アート展』をこえる場というのは、ボクらも含めた『みんなが参加できるアート展』ということじゃない?」
「『仲間たち』っていうのは、ワタシたちも含めてそうだっていうことだよね。アートを通して、一緒に生きているワタシたち『みんな』なんだ!」
「まだ出会わないいろいろな仲間ともつながっていく作品展にしたいね」
「障がいや言葉や国も超えて、出会いたい!」
そんな議論の末に、現れたのが「自前の公募展」というアイデア。
公募展っていうと、どうしても既成の権威に自分の作品を評価してもらうという、上下関係や受け身のイメージになりがちだ。そんな公募展にしないためにどうしたらいいのか?
議論は続いた。
「『私は、プロだから』とか『どこそこの美大で勉強してきました』とか、そんなエリート意識がアートの世界にもあるからねえ」
「それはイヤだね。上手いとか下手っていうのも勝手に決めてほしくない!」
「他者の評価なんて関係ないね。自分が面白い、自分はこれだ!って本人が思うものならなんだってありだよ」
「確かに、なにかの基準で、アートが線引きされるのはおかしい・・」
「それって、いま流行のアールブリュットだよね?」
「そう!フランスやスイス、日本でも広がっている『生の芸術』っていうやつ。画壇の権威や既存のモードに影響されない、自発的な作品の素晴らしさを見直そうってやつ。でも、もう画商の手が伸びているらしいけれど・・・。」
「じゃあ、アールブリュットでアンデパンダン!無審査。どんな作品もOK。賞だっていらないんじゃない?」
「協賛してくれるところがあれば、賞もありじゃないかなあ。権威づけしなければいいんだよ。」
そんな議論をして、どうやら手作りの「湘南アールブリュット展」が生まれそうなのであります。
なんでもありの自由感と解放感、人間臭さといい加減さ(やわらかな感性?)、地域性と独自性を持ち味にした公募展になるか、どうか・・・・それはみなさんの叱咤激励にかかっております(笑)。
ぜひ、ご参加ください!






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2013/08/06

Vol.111 Sさんの線



はっきりした夏の姿が見えないまま、8月を迎えてしまった。
地球の気候変動のせいなんだろうが、見えない不安のようなものが夏の底にたまっている気がする。
戻り梅雨による集中豪雨のニュースが連日流れていた7月の終わり、
Sさんが久しぶりに姿を見せた。
以前にも紹介したが、Sさんは地震波に敏感に反応する人で、偏頭痛や体調に苦しめられている。
「フェースに行く?って聞いたら、ウンって言うので連れてきました。じつはずっと学校にも行けなくて、きょうも家にいたんですよ」
自分から机の上に色鉛筆を取出し、紙に線描を始めたSさんを見ながら、ほっとしたようにお母さんは話し始めた。
「はやく地震がおさまってくれなくちゃ、Sが可愛そうで。もう、私もどうしようもなくて」
「本当に地球がおかしくなっちゃって、Sちゃん、分かるんでしょうね。私たちもなんだか落ち着かないもの・・・」
そんなお母さんたちの会話を聞きながら、Sさんは手首を自動書記のように一心に動かし、独特な線を描いていく。
それは、Sさんが偏頭痛に苦しめられるようになって現われた線だ。
つまむようにして持った鉛筆を紙の上を走らせるようにして現われてくる繊細な淡い線。
10cmほどの直線がゆるやかに曲がり、草の束のように風に吹かれている。
その日、Sさんは珍しく紅い線を描いた。
紅い線はいくつも重なり、見えない風や磁力の波動のようにうねっていた。
それは何かを描こうとする意志のチカラというよりも、もっと別のところから押し寄せてくる自然のチカラのようなものを感じさせる。
その線を見ていると、地球がきしみ、発散する、制御不能なエネルギーの波を、Sさんは一心に身体と心で受け止め、苦しみながら線にして、手首から紙に流している、そんな姿が見えてくる。
ところどころ、苛立ったように描きなぐられた異質の線は、Sさんの叫びのようにも思える。
で、ボクは思うのだ。
Sさんの線は捨てられてはいけないのだ。
誰かが、Sさんの線を受け止めてあげなければいけないのだ、と。
そして、
でも本当は、・・・と、Sさんの苦しみに何もできない無力感に囚われながら、ボクは思う。
本当ハ、僕ラノ方ガSサンニ励マサレテイルノカモシレナイ・・と・。







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