このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2013/11/22

Vol.140 茶筅が教えてくれるもの



秋の終わり、
85歳になる義母が「これ、何かに使えない?」と古い茶筅を持ってきた。
義母は、いまも自宅で仲間の人たちとお茶を楽しんでいて、時々私もお茶のおすそ分けをもらったりする。
「もういらないんだけれど、みんなの絵筆代わりに使えないかと思って。」
義母は私がやっているフェースの仲間たちとのアート活動を陰ながら応援してくれていて、仲間たちが綿棒や竹ぼうきの穂先で絵を描いたりしているのを知っている。
今年の湘南アールブリュット展にも作品を出展してくれて、「自分の絵は、やっぱり弱い。もっと強く描きたい」なんて率直な感想を話してくれたりする。
で、私は「年齢なんて関係ないからね。中川一政なんて、80歳、90歳の絵の方がすごいよ。60、70代の絵なんてまだまだ青臭い。これからだよ」なんて妙な励まし方をする。
義母の持ってきた茶筅はもう何年くらい使ったのだろう?
茶の浸みこんだ橙色の茶筅は径2cmほど。それに細かい切れ込みを入れて薄く削り、輪状に筅を作っている。更に、その内側にも50枚ほどの筅がサークル状に削られている。
手の込んだ職人仕事だ。
これで手首を素早く動かし、茶を切り、泡立てる。
茶碗の中に風を呼び込むような仕草だ。
余分な装飾を排し、自然以外のものを潔く切り捨てた茶にはすがすがしさがある。
それが時間を越え、生き残ってきた茶道の美しさなんだろうと思ったりする。
フェースの活動はそんなものとは無縁な日常の上に成り立っているものだが、茶筅を見ていると、これで絵の具を溶いたらどんな色になるんだろう、どんな線が生まれるのだろう?と、ついつい考えてしまう。
柔らかで腰のある弾力が茶筅筆の特徴だろうが、それを仲間たちの手が活かすことができるかどうかは疑問だ。
一回使っただけで、ボロボロに折られてしまうかもしれない。
でもやってみたい!っというわけで、Hさんに渡して描いてもらった。
すると、やっぱり面白い。
使い古した竹ぼうきの筆よりも、もっと繊細で柔らかな、煙るような線が生まれる。
丁寧に竹を削った茶筅のしなり具合が、線の中に感じられる。
人の手が入った道具のすごさというものを教えられたような気になる。
それは機械やITでは生まれない、なにかなんだろう。
もしかしたら、人と人の関係や人と自然の関係も、そういうもので成り立っているのかもしれない。
そんなことを考えながら茶筅を弄んでいると、無性に茶が欲しくなってきた(笑)。






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2013/11/19

Vol.139 寝台列車の夢



11月11日、横浜22時24分発のサンライズ瀬戸という寝台列車に乗った。
寝台列車に乗るのは45年ぶり。
三段の蚕棚のようなベッドで眠れぬ夜を送った記憶がある。
当時、禁煙という社会通念はなくて、車内には紫煙や食べ物の匂いが流れ、果てることのない会話が耳につき、私は自閉するように目を閉じ長い夜を耐えていた。
考えてみれば、それが若い頃の私の生きる姿勢だったようにも思える。
(日本は全共闘という熱い波に揺れていた・・・)
そんな私の感傷をあざ笑うようにサンライズ瀬戸は定刻通り、美しいパールピンクの車体を輝かせ、横浜駅の6番線ホームに滑り込んできた。
これが45年という歳月なのだ。
車内に入ると、通路の両サイドに飴色をした木製扉が続いている。
ソロ、つまり個室タイプの車両なのだ。
指定された番号を探し、部屋に入る。広さは一畳ほど、どうにか寝返りができる。
きれいに畳まれた浴衣と清潔な枕カバーは、ちょっとしたホテル感覚。
横になり、灯りを消す。
遮光カーテン越しの夜の街の明かりが過ぎていく。
列車の揺れが、身体の中を流れていく。
暗闇で時間感覚が奪われていく。
浅い眠りを繰り返し、目覚めるたびにどこかの岸辺に打ち上げられた腐木のような気持になっていった。
息苦しい。
いろいろな想いが脈絡なく、浮かんで消えていく。
もしかしたら、棺桶に横たわった死者は、こんな風に自分の生を振り返るのだろうかと思ったりする。
その時、自分はどんなことを思い出すのだろう?
低い天井を見ていると、列車が走る夜空が見えてくる。
天気輪の柱が立つ丘に横たわったジョバンニもこんな風に夜空を見上げたのだろうか?
くすんだ列車の窓を仲間たちが通り過ぎていく。
震える声や小刻みにタップする指先、能面のように凍りついた表情・・・
一瞬、闇の中に浮き上がる思い出、後悔・・・
それらに追いつけない淋しさを抱えながら、揺れに身を任せていると一つの道が見えてくる。
選択するのではなく、それしかない道。
あるがままの道。
ドコマデモ、ドコマデモ一緒ニ行コウ
そんなジョバンニの言葉が聞えたような気がする。
夜があけ、
列車は終着駅の海辺の町にとまった。
私は、海風の吹く道を歩き出す。






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2013/11/15

Vol.138 ここがすべての入り口



青空が広がった朝、
海辺に出て水平線を見ていると、
不意に、一つの想いがこみあげてきた。
心にまとっていたものが剥がれ落ちている。
見るもの、きくものが新鮮で、呼吸していることさえ、うれしく感じられるのだ。
何ものかであろうとした頑なな心情や行動。
長い年月、鎧のようにまとっていた、それらがいつの間にかなくなっているのだ。
守るべきもの、
ずっと守っていきたいと思っていたものさえ、剥がれ落ちる衣の一つだった。
こうあらねばならないと、若い頃から構えてきたものを否定するつもりはないが、それが今の自分の生きる形ではなくなった。
剥がれていくものは、意を決して離れていくことをしない。
脱皮するように、気がつくといなくなっている。
死者のようなものかもしれない。
まとっているものが何もなくなったとき、
剥がれていくものも絶えたとき、
ボクも死者のようにここから離れていくのかもしれない。 年をとったせいなのだろうか、軽くなった身体はどこにも行けるような気がする。
夜、頭上に広がる星空から、見おろしている自分がいる。
闇に浮かんだ半島や島々の灯りが足もとを通り過ぎていく。
死者や生者も通り過ぎていく。
山肌を駆けあがる風の中に自分がいる。
深い森の木の洞で眠る獣の夢の中にいる。
ひび割れた石の割れ目を通り、
微生物の光る言葉に導かれながら、
どこまでも進んでいくねっこの物語を聞くこともできる。
秋の朝、
海を見ていると、
年をとることはあるがままにここにいることなんだと、すんなり納得できる。
何もかもがあるようにここにある。
ここがすべての入り口なのだ。
そんな想いが静かに訪れる。






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2013/11/12

Vol.137 おじぎ草におじぎする



この写真は、エリック・カールの「はらぺこあおむし」じゃない。
おじぎ草の種だ。
「はらぺこあおむし」よりずっと前から、この地球にいる。
もしかしたら人間よりも長く、地球の物語を見ているかもしれない。
でも、これに目を描くとボクは「はらぺこあおむしだ!」って思ってしまう。
りんごやチーズを食べながら、進んでいくあおむしを想ってしまう。
それからあのカラフルな蝶への変身!なんかもね。
そんなことを想うのは、ボクが人間の作る物語でしか、地球の仲間たちを見ていないからだ。
ボクが地球に住んで、何十年だけれど、こんなにまじまじと彼らを見たことはない。
おじぎ草についてボクが知っているのは、鳥の羽のような葉をすぐに閉じてしまう植物界のはずかしがり屋というくらいだ。
ちょっと声をかけても、葉を閉じて自分の殻に閉じこもってしまう。夜ははやばやと一人で眠ってしまうし、身体にはトゲトゲもあるので、友だちになるにはちょっとためらってしまう。
ボクがそんな彼らの存在に気づいたのは秋の初め。
石につまづいて、立ち止まった足もとになにやら騒がしい緑の草の実がいたのだ。
手足を振り上げ、叫んだり、歌いだしたり・・・やたら元気がいい。中には、もうこげ茶に変身しているのもいて、ジンジャーボーイ(しょうが小僧)のように両手をあげて演説したりしている。
で、膝まづいて聞き耳を立てていると、ボクの存在に気づいたのか、不意に静かになって、いっせいに葉を閉じた。
いつまた、葉を開くのだろうと、じっと待っていると、なかなか開かない。もしかしたら、薄目を開けて、こちらをうかがっているのかもしれない。
我慢できずに、茶色になった実をつまみあげると、
「こらあ、やめろおー」、手足をバタバタ、怒っている。
ちいさなトゲトゲを逆立てて、ボクの指に突き立ててくる。
そんな風にして、おじぎ草とボクの付き合いは始まったのだ。
彼らはものしりだ。
時々、とんでもないホラ話しをしてくれたりする。
「ほら、俺たちの種は4つ、緩い曲線を描いて並んでいるだろう?どうして4つかというと、4つが一番遠くに飛んでいく曲線を作れるからなんだ。そのカーブは、地球と同じ弧を描いてる。そこから飛び出す実はまた地球のような星になるってわけさ。」
彼らの話は、はらぺこあおむしより、ほんのちょっと深遠だ。
で、そんな話を聞いた時は、ボクは彼らにおじぎをすることにした(笑)。






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2013/11/08

Vol.136 金曜の夜のオノマトペ



井上ひさしは、賢治の歩いた岩手の山に入ると、「森はいろいろなオノマトペでできている」と言った。賢治が遺したオノマトペは、すべて、そんな森から拾ってきたものかもしれない。
星野道夫は、アラスカの森に聞こえる乾いた小枝の落ちる音を、木が脱皮する音のように聞いていた。
そんな風にオノマトペの音を追って夜の森に入ると、暗がりの奥から、いろいろな形をした音たちが立ち上がったり、震えたり、流れたり、去っていったり・・・・行き来している。
この音にとり憑かれた者は、そんな彼らをもののけと言ったのかもしれない。
ボクがとり憑かれているのは、仲間たちの森だ。
もう二十年、さまよいながら、そこから出ることができない。
いずれ森のどこかで倒れ、ひっそり腐敗し、朽ちていくのだろう。
それでも、賢治のように音を言葉にしてみたいし、星野のように視覚化してみたいという想いはある。
金曜日の夜、
ボクはロシナンテトと名付けた自転車で坂を駆け下り、町田市にある作業所に行く。
すっかり、陽も暮れたころ、仲間たちが集まってくる。
カッププラーメンや焼きそば、稲荷ずし・・その日の夕食が無造作に詰められたビニール袋をぶら下げ、肩先を揺らし、独自の声を発しながら、気配が濃くなってくる。
夜の作業所のやかんやまな板やグラス、いろいろなものが共鳴し、音をたてはじめる。
シュラ、シュラ、シュラ・・・これは白いビニール袋の歌。
うっっつ、ううっつ、ドン!・・・これは、胸をドラム代わりに叩いてテンションを上げていくIさんのビート音。
ティン、ティン、ホラ、まだ、まだ!・・・これは沸騰するやかんとM君の相聞歌。
Wi!Wi!・・・R君がI君を挑発する言葉
もーもーもー、これは描くことに飽きたM君がボクを挑発する言葉。
こうなると、もう金曜の夜の活動室は、不思議な音の交錯するオノマトペの森になる。
天井にぶら下がった段ボールの鳥たちが飛び、
蛍光灯の灯りやBOSEのスピーカーからあふれる大音響の曲、味噌ラーメンの匂いが混じりあい、窓の向こうの夜道を、ルパン三世や探偵物語の松田勇作が疾走する。
その森は生命のオノマトペに満ちている。






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