このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2013/12/10

Vol.145 偉大な芸術家の思い出のために



このタイトル、耳にした方は多いのではないだろうか?
そう、ロシアのピアニスト、ニコライ・ルービンシュタインへの追悼曲として有名な
チャイコフスキーのピアノ三重奏曲イ短調の別名だ。
冬、体調を崩し横になっていると、哀惜のあるピアノとチェロの絡み合った第一主題が聴きたくなる。
130年も前の曲なのに、窓辺の葉を落とした木々の影や澄んだ青空の向こうに、つぎつぎと死者や生者、取り返しのできない思い出、夢のように過ぎた時間が浮かび、消えていく。微熱のある身体に、人生の感傷のような痛みや激情が湧いてくる。
病んだ身には危険な曲だ(笑)。
先日、
眠れない夜を過ごした未明、身体に震えが来た。
目の奥や後頭部、背骨に微熱が生まれている。
で、その日の予定はすべてキャンセルして、一日ベッドに横になり、この曲を聴いていた。
白いシーツの影にくるまり、潮のように満ちてくる熱に震えながら、主旋律の繰り返しに身体を任せていると、手が浮かんできた。
タクトを持った指揮者の手なのかと思ったが、そうではない。
妙にせわしなく、何かを切っている。
まさかと思うが、その繊細な指の動きは、橋本のアートに来る巨匠Yのそれに似ている。
「あ、あ、あ、あああ」いらだたしそうなつぶやきとハサミの動きが重なる。
やわらかな色彩が降るように指先から落ち、机の上に堆積している。
その断片に焦点を合わせると、切り抜かれた犬やゴリラやダルマ、コーヒーゼリーのひょうきんな画像が見えてくる。
まちがいない巨匠のYだ。
思わず「こんな時に、どうして現われてくるんだよ!」と巨匠に文句を言おうとするのだが、巨匠は手を休めず「あ、ああ、あああ、ダメダメ!」と言いながら、画像を切り続けている。
巨匠はフェースの活動時間だけ気分のままに制作し、次回にそれを継続することは決してしない。だから作品は未完のまま巨匠から放逐される。 そんな悲しい運命の作品がワタシを埋めてつくそうとしている。
で、浅い息の中でワタシは思ったのだ。
悪夢ではあるが、これもワタシなりの追悼曲なのではあるまいかと。
曲名をつけるとしたら、「永遠に未完の巨匠作品の思い出のために」だろうか?
空が冬の茜色に染まるころ、
巨匠Yは、やっとどこかに消えていった。
そして、ワタシの中にはポーチをぶら下げた、目がぱちくりの豚のような未完作品が残った。
コイツが夜、ワタシの安眠を妨害するのではないかと不安に思うのだった(笑)。






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2013/12/06

Vol.144 すき・きらいと共感



前回の「きょうのまねきねこvol.143」で湘南アールブリュット展の作品の選考について、作品の優劣をつけるものではなく、選考委員のすき・きらいを反映したもの、どれだけ選考委員の心を刺激し、感動させたかでしかない・・・ということを書いた。
で、いくつかの意見をいただいた。
例えば、作家は賞があれば、入賞を目指して制作に励む。その入選基準が選考委員個人のすき・きらいで決まるというのはいかがなものか? それから、すき・きらいという感情は、その時々の心身の状態によっても変わる。それを基準にするというのでは、入選作にも選考委員にも失礼ではないか?
湘南アールブリュットという名前で公募し、賞を設け、選考するなら、少なくとも呼びかけ趣旨に沿った作品を選考すべきであり、大枠でも選考委員の中に湘南アールブリュットとしての基準を確認し、共有化しておくことが必要ではないか?
大体、以上のような三つの意見に集約されると思う。
それらに通底しているのは、賞を設ける限り湘南アールブリュット展としての選考基準の確立化をめざすべきであり、すき・きらいという感情は基準にそぐわないというものだろう。
選考基準の確立化ということに対しては、湘南アールブリュットは、日展のようなアートビジネスまでからめた上意下達の権威化を目指す公募展の対極に位置するものであり、賞をいかなる権威にも寄与させないためにも「選考基準はない」という姿勢を、私個人は貫きたいと思っている。 すき・きらい基準という言葉を持ち出したのは、作品の前では選考委員であろうと、何に縛られることなく自己の感性によって選考すべきであり、選考作品に責任をもつのはまさしく自分の眼差し、感動以外にはないということを伝えたかったためだ。
前回も紹介したが、「アールブリュット アート 日本」という本の中で、中村政人はポコラート全国公募展での作品選考にたいして、アールブリュットやアウトサイダーアートなどと表現をジャンル分けするのではなく、作品の「純粋」で「切実」な表現を丁寧に感じることであり、そこから生まれる「逸脱」した作品を世界に解き放つことであると述べている。(それら三つのキーワードの中村の定義は本をお読みください)
また精神科医の斉藤環は、アールブリュット作品の向き合い方として、1.「批評」の禁止、2.「鑑賞」の禁止、3.「診断」の禁止、4.目撃し、関係せよ、という4つの自己の「倫理綱領」なるものを掲げている。
同じように、湘南アールブリュットでも選考委員、運営委員が作品に対する自己の姿勢を明確にして、選考に臨むべきなのだ。そこには客観的な選考基準はないし、馴れ合いも許されない。作品に向かい合う自己の孤独なまなざししかないのだ。
すき・きらい基準は、そうした作品に向かう真摯な姿勢を戯画化しすぎたかもしれないが、作品に共感しようとする私にとっては、最も誠実な入り口の一つだろうと思う。
「ワタシはこの作品のどこが好きなんだろう?」
「なぜこの作品に、こんなに嫌悪を感じるのだろう?」
「見たくないのに、見つめ続けずにはいられない」
そんな問いを繰り返していくことで、共感は広がっていくのだろうと思う。
小さくても、そんな共感の波を湘南の海辺から世界に発信していきたい。
入賞者展は12月8日(11時~16時)、幕を閉じる。
8日には授賞式(13:00~)のために入賞作家がギャラリーに来る。
話をするいい機会です。
ぜひ足をお運びください。






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2013/12/03

Vol.143 湘南アールブリュット受賞者展、始まる



きのうから蔵まえギャラリーにおいて、第一回湘南アールブリュット展の受賞者作品展が開かれている。
9人の作家の作品が二点ずつ展示されている。受賞者の中には、美大を出て個展を続けているアート教師の方もいれば、イタリアで絵画造形に取り組み、すでに画集も出している海外のアーティストもいる。もちろん、フェースの仲間や作業所でアートに取り組んでいる方も受賞している。 そういった意味では、当初の目的である障がいの有無や美術教育の有無、プロ、アマの違いを越えてアートを楽しむという課題をクリアすることができたと、企画・運営に携わる者としては、ホッとしている。(ホッとしているなんて変だけれど、それが実感だ。)
でも、やはり大きな問題が残っている。
作品の評価についてだ。
一つひとつの作品は、それを表現した作家にとってはかけがえのないものであり、他者の評価によって作品の優劣はつけないという私たちの観点は、各賞の設置という在り方と矛盾している。
アンデパンダン(無審査)によるすべての作品の展示ということで一応の建前は保っているものの、やはり受賞者作品がほかの作品よりも優遇されている事実は否めない。
このことについては、選考委員の方々とも問題意識を共有していて、選考基準はあくまで委員一人ひとりの「好き嫌い」に基づくものであり、作品の評価ではないということを確認して選考を行った。
このすき・きらい基準は、一人ひとりの来館者が作品に向かい合う時の楽しさや面白さという評価基準の原点で、とても人間的。私自身は気に入っているが、賞の設置が作品の優劣や権威づけに関与するという、一般社会の常識を覆すことにはならない。
で、声を大にして言いたいのだ。
「湘南アールブリュットの各賞の選考基準は、どれだけ選考委員を面白く、楽しく、感動させたかということだけです!作品の優劣ではありません!選考委員もそのようなことを理解していただける方だけにお願いしています!」
第二回の湘南アールブリュット展の呼びかけチラシの中にも、このことを明記した方がいいのかもしれない(笑)。
いま私が楽しく読んでる「アールブリュット アート 日本」(平凡社)の中でも、作品の評価基準の喪失やアールブリュットという定義の困難さ、世界状況とアート概念の変化などが様々な観点で展開されている。湘南アールブリュット展が抱えている課題・困難さと重なり合うところも多い。
なかでも中沢新一と保坂健二朗の対談は面白い。ある種アールブリュットの権威?にまつりあげられている保坂の発言よりも門外漢?で思い込みの強い中沢の斬新で大胆な発言の方がインパクトを持っている。いかにもアールブリュットの現在という対談・・・ぜひ、ご一読を)
というわけで、そんないろいろわけありの受賞者展ですが、蔵まえギャラリーで12月2日~8日まで開かれております。(平日11:00~18:00、最終8日は16:00まで)
ゼヒ、ゼヒ、冬ノ湘南ノ風ニ吹カレニオイデ下サイ。
ワタクシ、8日ハ必ズ会場ニオリマス。
           マネキネコ拝






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2013/11/29

Vol.142 冬の午後、小さな絵本を作る



冷え込んだ11月の日曜日、
指導者講座に参加している仲間たちが藤沢のビーンズハウスに集まってきた。
「冬の日」というテーマで描いた絵をつなげて、一つの絵本を作るためだ。
3週間前、それまで講座で取り組んできたマスキングテープや型紙を使った技法で仲間たちは冬をイメージした絵を描いた。
15cm四方の厚紙に、灰色のぐるぐるや北風が舞う銀の斜線や森の奥の灯り、21人の雪だるまの行進・・・いろんな絵が生まれてきた。
全部で18枚。
それをつなげ、小さな言葉も添えて、じゃばら絵本にしてみようと思ったのだけれど、なんだか話がつながらない。
日本には連歌という表現形式があるから、つながりがなくてもいいんじゃないのという気もしたけれど、どうにもバラバラ・・・これでいいの?って感じ。
それで、1枚いちまいの絵に指先ほどの小さなドングリとミミズを加えてみる事にした。
みんな、黙々とドングリに色をつけていく。
窓越しにそんな私たちを覗きながらいろんな人が通り過ぎていく。
静かな冬の午後。
夕暮れの光が鴇色に机を照らす頃、作業終了!
絵を並べる。
これをどう並べ替えてストーリーを作っていくの?
んんん、難しいね。
それでもいろいろ話していると、古い毛糸玉のようにいくつかのお話しの糸口が現われてくる。
それを引っぱったり、結んだり・・・
なんだかものがたりが呼吸をし始めた感じ。
吹雪の日に生まれたどんぐり君、
友だちを見つけ、冬の遊び、
クリスマスが近づくとモミの木が歌い、
雪だるまの行進、
森の奥には暖かい家の灯り、
やがて、春の足音が近づく、
林の中に明るい陽射し
土はゆっくり暖かくなる・・・・。
そんな感じのお話し。
小さなドングリ君の冬が部屋の中に広がった。
これで今年の指導者講座はおしまい。
外はいつのまにか夜。
ここで生まれた小さなお話しは、
いつか、くすくすミュージアムの本棚に並ぶかも。
こんな風に絵本が少しずつ増えていくといいね。






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2013/11/26

Vol.141 音楽と仲間たち



今年は何十年ぶりという感じの懐かしい人との出会いがあった。
その人は当時、新採で町田の特別支援学校に来たばかりの音楽の先生で、私と組んでいくつもの面白い授業をやった。
例えば秋になり、学校近くの神学校に生えていた二本の大きなゆりの木が黄葉すると、生徒たちと木を囲んで車座になり、歌を歌った。
生徒たちの言葉をちりばめた作詞に彼女が曲をつけた歌だ。
落葉する黄色の葉は、ふりそそぐ光のようで、木の幹に耳をつけ、樹幹を流れる水の音を聞いたりした。
コメの収穫期には、アジアの祈り歌のような「コメコメの歌」を歌い、踊った。
自然と音楽と踊りと言葉が一体となった授業だった。
いまでは、そんな授業は考えられない。
管理、報告、評価、事務作業が増え、システムの効率化と厳格化が優先される学校の中に、人が育つ本当の豊かさを求める試みは姿を消した。
神話のような授業・・・。
久しぶりに会った彼女は、湘南アールブリュット展も見に来てくれて、こんな感想を私に言った。
「絵はあるがままの表現で十分に人の心を打つけれど、音楽はそれができない。楽器を美しく奏でる技術や知識が必要。声を美しく出すトレーニングが必要・・・私もフェースの仲間たちのように、技術に関係なく自由に音楽を楽しみたいけれど、それができない。」
現在の学校の授業に求められていることを考えると、その悩みはよく分かる。
音楽室で、自由に太鼓をたたき、鍵盤をかき鳴らし、笛を吹き、声をあげれば、その不協和音にまゆをひそめる管理職や保護者の顔が浮かんでくる。
でもやはり、そんな時間も大切なんだと思う。
あるがままに音を楽しむ時間、仲間と響きあい共感する時間・・・そんな時間が音楽の中にも大切にされなくてはいけないんだと思う。
それが否定されれば、人が育つ豊か試みも否定されていく。
楽器は美しい音を生み出すために作られてきた道具だけれど、美しい音ってなんなのだろう?
障がいのある仲間たちが自由に奏でる音や歌に、人間の美しさはないのだろうか?
絵でも同じなのだ。
権威や技術を追い求める人には仲間たちの絵はとるに足らないものかもしれないが、彼らと共に生きようとする人にとって、仲間たちの表現に人間として生きる美しさを感じることは珍しくない。
生きる喜び。
それに共感し、共振する音や色彩。
身の回りにいくつも存在する、それら。
せめて、それらの断片を拾い集め、その小さな輝きをみんなで共有したい。
それは、私たちの生きるもう一つの世界を映しだす。
もしかしたら、既成の権威や価値を超えたそれらの存在に共感する時代に、私たちは足を踏み入れ始めているのかもしれない。






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