このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2013/12/27

Vol.150 馬を描く



よこはち編集長から、今年も来年の干支を描いてもらえないかという依頼が来た。
で、ああ、もうそんな時期なんだとあらためて思った。
去年はヘビだった。
年末だったので、じっくり取り組む時間もなかったので、描ける仲間たちに頼んで10分くらいでサッサと描いてもらった。
その時思ったのは、ヘビは奥が深いぞっていうこと。
なぜかっていうと、ヘビって形があまりにもシンプル。ヘビのイメージもほぼ均一化されていて、仲間たちのユニークで多様な表現を引き出すには至難のテーマなのだ。
ワタシとしては、「星の王子様」に出てくる象を飲み込んだヘビのような、とぴょうしもないヤツを期待してたんだけれど、出てきた作品は案の定、一般的なヘビさんばかり。
なんだか仲間たちやよこはちさんやへびさんにも申し訳ない気がした。
対象がシンプルでイメージが限られていればいるほど、仲間たちと仕込みに時間をかけ、仲間たちでなければというイメージを爆発させるべきだったのだ。
ところが、そんな反省をすっかり忘れ、今年も時間がないまま馬の絵を描くことになってしまった。
で、今年は描く時間を1時間だけ取って、仲間たちに描いてもらった。
それだけでも、なんとなく仲間達らしい作品がいくつか生まれた。
例えば、競馬の雑誌をいつも持ってきているUさんが描いたのは、ディープインパクト。
彼はオルフェーブルが大好きで、その親を描いたのだ。明るいマス目絵画風のロバ顔で精悍な競走馬には程遠いけれど、彼にとっては深い思い入れがあるに違いない。
癒し系のAさんが描いたのは、ユニークな馬。
これは競走馬とは対照的でのんびり、草原で一日を過ごす馬。首がなかったり、短足でドングリまなこのたぬき顔だけれど、なんだか吹き出してしまういい味の馬だ。
埴輪風の馬なんかも時間を越えて面白い。
カエルの画家のO君が描いた疾走する馬は相変わらず格好いい。
なんとなく競馬風の馬が多いのは、やはり馬が日常生活の中ではテレビの競馬中継にしかいないからかもしれない。
今年の馬たちを見てると、フェースの仲間だったら、もう少しいけるんじゃないかとついつい思ってしまう。
既成の年賀状の馬(午)を超える、突拍子もなく跳ねる馬が生まれてもいいんじゃないかと思ってしまうのだ。
「これじゃピカソの馬にかなわないよ、もっと、もっといこうぜ!」
そんな風に仲間たちに呼びかけたくなる。
その情熱を仲間たちの届けられなかったワタシがすべての原因ではありますが・・・。
これが今年の馬の絵の反省。
みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。
(この常套句も何だかつまらないね・・・ブツブツ)






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2013/12/24

Vol.149 おしゃべりも名作の回路



フェースofワンダーは「絵を描く」のを楽しむスペースなので、いろいろな仲間が集まってくる。
「さあ、やるぞ!」とはりきって絵を描きに来る仲間は少数派。
仲間やワタシとちょっとだけアートやおしゃべりをしたり、誰にもとがめられない気楽な時間を過ごすために来ている仲間が大半なのかもしれない。
フェースでは、絵を描くことは活動の基本スタイルだけれど、描かなくたって問題にはならない。その日の気もちしだいで、声をあらげたり、走ったり、寝転がったり、音楽を聴いたり・・・それからやおら立ち上がって絵を描きだしたり。そんな風にして、みんながお互いを受け止め、一緒の時間が過ぎていく。
そんな時間、全部が彼らのアートスタイルなんだといつの間にか思うようになった。
だからユニークな作品が生まれるときも、その時々の会話の流れや突然の思いつきから生まれることが多い。
例えば、やかんやビン、グラスがガチガチの線と色彩で描かれている上の写真の作品。
かって、コーラの画家と呼ばれていたM画伯が描きつづけている最近のテーマなんだけれど、これだって彼がもうコーラを描くのに飽きて、「もうコーラ描かない!」って宣言した時から始まった。
「じゃあ何を描くの?」「自分で決めてよ!」ってワタシに問い詰められ、思わず宙に泳がせたM画伯の目線にひっかかったのが、ガス台にのっかっていたやかん、それから洗ったばかりのグラス、びんだった。
で、思わず「やかんとコップ、描きます!」と叫んでしまって、それをテーマに描きだしたのだ。(笑)
下の写真の抽象的な作品は、顔ばかりを描いている、おしゃべり好きのH画伯の最新作。
その日は冬の寒冷前線が通り過ぎ、すごい風が吹きぬけた。彼は天気予報が大好きなので、ボクに「辻堂では暴風注意報は出ましたか?ブロックは飛びましたか?」といろいろ喋りかけてきた。
で、ワタシはいたずら心を出して、とつぜん眉をしかめ生真面目な顔になり「Hさん、きょうは何かくの?ワタシは寒冷前線でボロボロなので顔は描いてほしくないんだけれど・・・」といってみた。
すると、「ん、んーん」心優しきHさんは、おしゃべりをやめ、周りを見渡し、やかんを描いているM画伯に目をとめ、「ボクもやかん描きます。ビンも描きます。」と言った。
で、生まれてきたのがこの作品。
具象派のM画伯とはまた違った不思議な浮遊感のある作風・・・同じやかんとビンをテーマにしても、こんなに違った絵が生まれるのだ。
グニャグニャ線のこれまでのH画伯の作から一皮むけている。
新しい表現の可能性が感じられる。
で、ワタシは思うのだ。
なあーるほど!おしゃべりも名作が生まれる貴重な回路なんだと。
あらためてアートの奥深さを思い知らされたことでありました。






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2013/12/20

Vol.148 焼き芋と有一さん



12月の寒い朝、
ボクは自転車で30分ほど走って、Hさんのアパートのドアを叩いた。
「はあーい!どうぞ。」中からYさんの元気な声が返ってくる。
ドアを開けるとすぐに台所になっていて、キッチンテーブルには、Hさん夫妻がもう絵の準備をして座っていた。
「きょうはこれを描く!」
Yサンが机の下から取り出したのは、20cm位のさつまいも。
生なのかな?とよく見ると、焼け焦げがついていていい匂い。
「わっ、おいしそう!どうしたのよ、これ?」
「あのね、主人が子どもを学校に送っていってる間に、スーパーに行って買ってきたの。私の朝ごはんにしようと思って。105円だった。」
Yさんの車いすの下には、白菜や肉やきのこ、いろいろな食品がぎゅうぎゅうに詰まっている白いビニール袋が二つ転がっている。
「ええ!すご量じゃん!Yさんが一人で買ってきたの?どうやって運んできたの?」
Yさんが電動車いすにこの山盛りの食料品をのせてレジまで行き、15分ほどの道のりを一人帰ってくる様子を想像すると、ボクはもうそれだけでYさんのすごさに頭を下げたくなってしまった。
「そうだよ、買い物には私が行くんだよ。いつもこれくらい買ってくる。店員さんに頼んでのせてもらうんだよ。」
そんなの当り前だよ、なに驚いてんの?って感じで、Yさんは話す。
アパートの北側の通路は狭く、段差もあるので車いすでどんなふうに部屋のドアまで運んでくるのだろうといろいろ想像してしまう。でも、もう質問はしない。
Yさんは紡錘形の焼き芋を目の前おいて、スケッチブックに8の字を横にしたような形を描き、淡い感じで紫や青や茶色を一心に重ねている。
ボクにはそれは焼き芋には見えない。もっと生々しい肉とか臓器のようなモノに見える。
例えばフランシスコ・ベーコンの歪んだ顔や溶けていく手足のように見える。
「どうしてこんな形にしたの?」ボクはおそるおそる聞く。
「ん?こんな形にしたかったの。きれいでしょう?」明快な答えが返ってくる。
その日は絶好調で、Yさんの手は休まず、ぐいぐい色を塗っていた。
不思議な形の芋がYさんの頭の中で回転し、いろいろな色彩が紙の上に次々と滲み出てくる。そんな感じで、絵が脈動している。
やがて、不意に手が止まり、「有一が焼き芋を食べているところを描く」と言い、黒い魂のような模様が右隅に現れる。それから溶けだしそうな眼玉、歪んだ唇・・・。
有一とはもう本欄で何度も紹介している書家の井上有一のことだ。
Yさんは3年間で50枚の有一像を描くことを目標にしている。
「どうですか?焼き芋おいしそうでしょう?」
差し出された紙には黒い有一と極彩色の焼き芋。
む、む、むむむ・・・言葉が出ない。
Yさんの描く、こんな有一が50人並んだら、有一も向こうの世界で唸るのではないかと痛快な気持ちが湧いてくる。
有一さん、芋の味はいかがですか?






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2013/12/17

Vol.147 冬の辻堂海岸



本当に寒くなるこの季節、
やっと辻堂の海岸に何もない大きな空や道に流れ出してくる砂の風景が還ってくる。
海辺に色褪せた竹垣が続き、伊豆半島や箱根、冠雪した富士がくっきり青空に浮かぶ。
どうみても風呂屋のペンキ絵なんだけれど、それも懐かしい。
サーファーたちは、しっかり海岸に棲み着いてしまった越冬生物なので、年中海面にとぼけた顔を出している。
それを横目に見ながら、大きな革鞄を片手に雪駄履きの寅さんが、
「よっ!兄ちゃん、風邪ひくなよ。いい正月迎えるんだぜ!」なんて声をかけながら、ゆっくり富士に向かって去っていく・・・そんな正月映画のエンディングも浮かんでくる。
あまりにも決まり過ぎた日本の風景なので、見ているとはずかしくなる(笑)。
それは辻堂のねこたちも同じで、突堤の両端に座り、富士のシルエットをぼーっと眺めているお互いの存在に気づくと、目線を合わさないようにさりげなく去って行ったりする。
冬は砂があたたかい。
石英の小さな結晶が光を吸って、風の中を飛んでいる。
その中に身を横たえてごろごろしていると、日常が消えていく。
目を閉じて、まぶたに光の層を感じていると、いまある形でいいんだという気持ちになってくる。
辻堂の住人であるねこ達も同じなんだろう。
ゆるやかに窪んだ砂地で、短い手足を思い切り広げてごろごろしている彼らを見ていると、至福の表情をしている。
ときおり、だらしない笑いがよだれのように毛むくじゃらの顔の上を流れる。
「何を思い悩むことがある?」
「いまある君のままで十分」
目の端で、ちらりとこちらを見て、欠伸をし、防砂林に消えていく。
砂の斜面に残った足跡は、そんな彼らの詩の言葉のように見える。
竹垣を透く影が
冬の楽譜のように砂の上に伸びている。
ここでは、
世の中にある苦痛や悲しみと小さな喜び、ささやかな慰めは等量のように思える。






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2013/12/13

Vol.146 微妙なフェース気分



長い間、仲間と付き合っていると、フェースに来た時の表情や行動で、その日の状態を読み取ろうとする悪癖がつく。
で、ついつい、分かった風な言葉をかけたりする。
例えば、「きょうはごろごろしてていいよ。描きたくなったら描いてね」とか「きょうは暑いよね、水、飲む?」「元気?握手しようか?」とか・・・まあどうでもいいことを言ってしまう。
仲間たちは基本的に博愛主義者だから、ワタシの言葉に付き合ってくれたりするが、本当ははた迷惑なのかもしれない。
フェースは、絵を描く場所だということをワタシよりもしっかり認識している彼らにとって、ワタシの言葉なんて余分な添え物にすぎない気がする。
絶不調で、調子が悪ければ悪い時ほど、彼らは黙々と絵を描きつづけることが多い。
怪我をした獣が泉で自らの身体を癒やすように、フェースはアートする場になっている。
だから、ワタシの役割は、とにかく仲間たちが描きはじめるきっかけやイメージをはっきりさせる言葉かけだけで十分なのだ。
例えば「さ、描く準備をしてください」とか「この青色の続きを描こうか?」とか「ここに、どんな模様を描くの?」とか・・・。
でも、ワタシは彼らほどクールじゃないので、無反省に、つまらない言葉かけばかりしている。もちろん、一人に集中的に言葉かけなんてことはしない。仲間たちの間をぐるぐる回りながら、均等にちょっかいを出す。
すると、イライラ毛を逆立てていた仲間が、いつのまにかそんなワタシの言葉に聞き耳を立てていたりするのだ。
それでワタシが自分のところに回ってきたら「H君、色を出し過ぎだよね?」とか「いいじゃん、好きなようにさせてあげたら」とか、自分のイライラはさておいて、いろいろ言ってくれたりする(笑)。
自分に閉じこもっていた頑なさが消えて、周りの仲間たちを気にしているのだ。
それも、ストレートには言わず、ワンクッションを置いて気持ちを伝えてくる。
ワタシは彼らのそんな微妙な距離の取り方が気に入っている。
仲間たちといるスペース、仲間たちと共有する時間を大切にしていることが伝わってくる。
そんな時、なぜ彼らが長年絵を描きに来ているのか、分かったような気がする。
それから、ワタシがなぜ彼らに魅力を感じ、一緒に年をとっていきたいと思ったりするのか、分かったような気分になる。
フェースという時間の中で、仲間もワタシも少し元気になる。






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