このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2014/01/21

Vol.155 冬の木が語るもの



本格的に寒くなってきた。
大気がキンと硬くなった朝、
葉を落とした林の中を歩くと、木の本質が見えたような気になることがある。
鋭い小枝を空に突きさし、地面に見えない根を張った姿が、地中と地上と空を結ぶ神経線維のように思えたりするのだ。
三つの世界の生死(物語・情報)が、木の幹を通って行き交い、より大きな物語が生まれている。
それは、他の季節には見えなかった木のもう一つの語り部の姿だ。
その物語を聴きたいと、林の中をさまようのだが、簡単には聴かせてくれない。
で、木の根元を蹴飛ばしたりしていると、
冬眠中の虫やわずかに芽を出したドングリが現われてきたりする。
彼らからすると、えらい迷惑なことだろう。
何層にも重なった枯れ葉のあたたかい眠りから叩き起こされて、寒空にほおり出されるのだから。
「いや、申し訳ない」と、あわててつまみあげ、地中に戻そうとするのだが、
もそもそ手足を動かし、不機嫌そうに睨んだりする。
彼らが見ていた夢はなんだったのだろう?
それを無残に砕いたワタシなんかは、とんでもなくワルイ奴なんだろう。
そう思うと少し楽しくなる。
林の真ん中にある一本のブナの木にたどり着く。
頬を木肌に押し付け、いただきを見上げる。
ここにどれくらいの生命が宿り、眠ったり、死んだり、生まれたりしているのだろう?
億は優に超えるだろう。
そう思うと、木の姿は一気に変わる。
地中の根の先端、見えない毛根が作る空間、その形象・・・
地中から地上に向かって流れる樹幹の川・・・
枝々が空に向かって広げた空間、その形象・・・
枝先から空に蒸散する水、それは地中から昇ってきた水だ・・・・
そんなものをすべて組み合わせた姿にトランスフォームする。
縄文時代の火炎土器みたいな形なのか?
瞬時も固定することのない形であるのは確かだろう。
無数のエネルギーが作る形
そう思うと、冷たかった木の肌が熱くなってくる。
冬の林も仲間たちも、いろいろなことを私に教えてくれる。






△ページトップへ戻る

2014/01/17

Vol.154 腹、立つなあ!!!



最近はみんなに「丸くなったなあ」って言われるワタシだけれど、
実はあまり丸くなっていない。
もちろん、外見はずいぶん丸くなってしまったけれど・・・(笑)。
それを自覚したのは、つい最近のことだ。
夜の作業所を借りてやっているフェースに、珍しくTさんのお母さんがこられた。 「自分でもどうしていいのかわからず、話だけでも聞いてもらいたくて」と一枚の手紙を見せてくれた。
それは、Tさんが働く作業所の施設長からの手紙で、Tさんが作業所の帰りに車に向かって石を蹴り、所有者が作業所へ抗議に来たことやTさんはこれまでも作業所の行きかえりにコンビニ等でいろいろ問題を起こしているので、家でTさんの行動を把握し、指導していって欲しいことなどが事細かく書かれていた。
Tさんとは高校一年生時からの付き合いだから、もう二十年近くになる。
すっかりおじさんになったTさんが地域社会でいろいろなことをしてしまうのは、想像できる。
だから、そこまでならば施設長の言い分も分からないこともないけれど、ワタシが頭に来たのは、「そうしたTさんの行為が、作業所やほかの仲間たちのイメージも傷つけることになるので、家庭での指導をよろしくお願いしたい」という一文が書かれていたことだ。
「なんだよ、これ!一体、何のための作業所なんだよ!」思わず声を荒げてしまった。
お母さんも涙ぐんで、「Tは染物にもがんばってるんですよ。でも、こんな風にみんなのイメージを駄目にしているなんて書かれてしまうと・・・悔しいですよ」という。
Tさんの通う作業所は、染織を学んだ人を指導員として雇用し、商品のクオリティーをあげることで一般商品と同じ値段で販売している。それが売り物の作業所だ。そうしたクオリティーの高さやイメージを優先し、そこで働く仲間たちの暮らし方、生き方に重心が置かれていないことを、その手紙は明らかにしていた。
こんな本末転倒の作業所が、いまだに存在することにも驚くが、じゃあ、この手紙に対し、お母さんがどんな対応をとれるかというと、やれることは極めて少ない。
正面きって抗議すれば、Tさんの主要な生活の場所である作業所との軋轢が拡大することにもなりかねないからだ。
いろいろ話し合った末にTさんの行動が作業所のイメージを傷つけるという文面について、抗議というよりも自分の想いを伝え、様子を見ることになった。
しかし、作業所も利用者にとっては、相変わらず学校や官庁と同じように大きな権力なんだなあと思わずにはいられなかった。
時代は変わったようで、なかなか、その本質は変わらない。
で、偉そうなことを言っても、いまのワタシに何ができるかというと、仲間たちの悔しさや喜びを共感することくらいしかできないのである。
(念のために言っておくと、ワタシはTさんの行動をTさん個人の問題だと捉える立場には立たない。相互交流を通して地域社会がTさんをどう受け止め、一緒に生きていくかが問われているという立場だ。)






△ページトップへ戻る

2014/01/14

Vol.153 今年の悪夢



大きなものは、小さなものでできている。
その小さなものも、更に小さなものでできている。
大きなものだって、さらに大きなものの一部になり、
多分、宇宙の果てまでつながっているのだろう。
その無数の繰り返しの構造の中で私たちは生きている。
そのつながりから離れて存在するものなんてなにもない。
だから目の前のモノから、
もう少し小さいもののところまで降りていってみたいし、
もう少し大きいもののところまで昇ってみたいと思う。
目を点にしたり、
ぐううっと横に伸ばしたり・・・
とにかく、目の前のモノにとどまらず、
そこから地平線や天頂に向かって垂直線を引いて、ゆっくり拡がっていきたいのだ。
時間も同じだ。
過去から切り離された現在(いま)がないように、
現在(いま)から切り離された未来もない。
だから、過去から未来に向かって伸びた一本のロープのように、私たちは存在している。
それはピンと張り渡された一方通行のロープじゃなくて、
どこを切っても、過去と未来と現在(いま)が存在している切断不能なロープだ。
だから目の前のモノを見ても、
底のない井戸にロープを垂らすように、モノの根源・過去へと降りていってみたいし、
それが崩壊し、形を変え続けるゼロ・グラビティーの高みまで昇って行ってみたいと思う。
それがワタシの奇妙な願望の一つなのだ。
仲間たちの作品は、そんな願望と共振することが多い。
彼らは、モノの大きさや色や形や、
それからそれらが背負った時間なんかもとっくに超えている。
現実の尺度なんか、もうどうでもいいから、ここに来て、
一緒に存在する感覚を共有しようと呼びかけている。
ワタシはそれに誘惑される。
そこまで行きたい!と切に願うのだが、どうしてもいけない。
いけないという想いがワタシをワタシにとどめている。
ワタシは取り残され、孤独である。
そんな哲学的な悪夢?をこの正月は見た。
年末にみた映画「ゼロ・グラビティー」の所為かもしれない(笑)






△ページトップへ戻る

2014/01/10

Vol.152 フェース初め



今年のフェースofワンダーのアート初めは、1月5日の橋本だった。
コートで身体を包み、駅に向かうと冬晴れの空に富士が見えた。
冠雪した丹沢の山並みの向こうに見える白い富士はやはり冬ならではの風景だ。
今年は、どんな作品に出会えるのだろう?
どんな絵本が生まれるのだろう?
いろいろ考えていると、心が温まってきた。
駅前の会場に着くと、Rさんがホワイトボードに何やら面白そうな模様を描いている。
青のマーカーで、ボード一杯にうねり、のたうつタコの足のような線が描かれている。
線はゆっくり湾曲しながら上昇し、それから一気に下降し、一息つくとポパイの腕のように膨らみ、はじけると波打って沈んでいく。
一筋縄ではいかない自由かっ達な線だ。
線に沿ってうたれた点々も、ヒューマンで愉快なリズムを発散している。
ワタシは、その線の前で動けない。
これは、もう人生の達人の線だなと思う。
それから、酔っ払いの歩みのようなぎこちない線を描きつづけた長新太の線を想った。
(そういえば新太センセの線も、サインペンやマーカーが多かった)
Rさんに「これは何なの?」ときくと「ナーミ!」と教えてくれた。
それで、もう一度、見直すと確かにそこに大ダコやカジキマグロが潜んでいるのが分かる。
ワタシは敬愛する故新太先生に挨拶するように深々と小学生のRさんに頭を垂れた。

そんな風にして始まった橋本のアート初めでは、仲間たちの思わぬ作品がぞくぞく生まれた。
たとえば昨年からアートカードに取り組んでいるK君。
二段重ねの鏡餅と膨らんだ角餅。例によって困ったような、照れたような顔をして新年の挨拶をしている(笑)。


鳥の羽をつけたオシャレな帽子のY画伯は、相変わらずの飄々とした動きで竹馬に乗った馬を描いた。
「これ何ていう馬なの?」きくと「あー、タケウマ」軽くいなされた。
それから、氷山の上で遠くを見るペンギンや一筆描きのように一本の線で独特のフォルムを描くRioさんのロシアンブルー、ウォークマンを聴く、メガネフレームだけの男の子・・・いろいろなものが、仲間たちから生まれて、せまい部屋に踊った。
いい年明けだ。
帰り道、ワタシは思った。
このヒト?達(作品たち)を、フェースの狭い世界だけに閉じ込めていいのだろうか?
色々な形で、世間に登場させたらどんなに面白いだろう?
街角の花壇から角餅君が覗いていたり、バンブーホース(竹馬)がスクランブル交差点を走っていたりしたら、キナ臭くなるばかりの世間も少しは楽しくなるかもしれない。
で、今年は、そんな秘密の回路をどこかに作ってみようかなと秘かに思うのでありました。






△ページトップへ戻る

2014/01/07

Vol.151 新しい一日



年が明けた。
昨日と何一つ変わったものはないけれど、それでも新しい年のすがすがしさを感じずにはいられない。
雑煮を食べて、林の中を歩いた。
鳥が鳴いている。
葉を落とした木々の間をとりとめなく歩くと、
木の実やけものの糞が転がっている。
しゃがみこんで枯れ葉の山を崩すと、乾いたキノコや腐乱した虫の抜け殻、小さな羽毛、そんなものが出てくる。
生命が脱ぎ捨てた衣や器だ。
それらを地面に並べて見ていると、そこにはまだいのちの時間が残っていて、誰かがそれを掘り出し、新しい時間を紡ぎだしてくれるのを待っているような気がする。
隠れている小さな物語。
それらに耳を澄ますことができる自分が、今年もまだいることにホッとする。
そんなに遠くない未来、
虫やけものたちと同じように、林の中に年取ったワタシの骸(むくろ)が転がっていても、それはそれでいいような気がする。
冬の林の中では、陽射しはよどみない時のように流れていく。
そんな陽射しの底で、ワタシの骸は静かな微笑みを浮かべているかもしれない。
夕方、家に帰ると炬燵に潜り込んだ。
散乱した仲間たちの絵や書きかけの絵本原稿が冬の宵闇に沈んでいる。
「年寄りの感傷は、鼻水みたいですなあ。できれば触りたくない(笑)」
「ん、ん、私らと一緒にされてはたまりません」
うつらうつら、舟をこいでいると、そんな話が聞こえてきた。
薄目を開けると、いつのまにか辻堂のねこや小さな緑のカエル、ドコドコたちが炬燵に入り、背を丸めて、ぼそぼそ話しをしている。
「この人の困った点は、自分あってのわたしらだって思ってることですな。本当はわたしらあってのこの人なんですがねえ」
「ったく!いい年して、なあーんも分かっちゃいない。」
「したり顔して、こちらとあちらを往ったり来たり。いい気なもんです」
聞いているうちに、愉快になってきた。
で、「今年もよろしく!」
思わず声をあげると、彼らの姿はもうどこにもない。
北風が窓をカタカタ鳴らし、すっかり暮れた通りを犬が走っていく。






△ページトップへ戻る