このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2014/02/07

Vol.160 生きること、表現すること



iPadなどのタブレット端末を使って、障がいのある子どもたちの想いを伝える「魔法のランププロジェクト」という実践に取り組んでいるメンバーの話しを聞く機会があった。
その内容を聞くと、人が豊かに生きる意味をあらためて考えさせられる。
人が生きること、そこには無限大の可能性があることに勇気づけられる。
例えば、言葉をしゃべらず、上肢を動かすことも困難な子どもが、iPadの画面に触れると、ハープのような音がでることに気づき、動かなかった手の甲で画面を撫ではじめる。
生まれてくる音に微笑み、少しずつ少しずつ手の動きはスムーズになり広がっていく。
自分の手が生み出す音を聞く、その表情はとても美しい。
まわりの人もそんな手の動きや表情に感動し、「すごいねえ」と声をかける。
するとにっこりし、また画面にふれる。
何度も何度もそれを繰り返し、それまでにはなかった心の交流、ゆたかなコミュニケーションが生まれる。
病院のクリーンルームから出れない子どもは、iPadのテレビ電話を使って、先生に外の様子を画面に映してもらい、自分の見たい風景や図書館の本を探してもらう。
先生はiPadを持ち、子どもの目や足になり、子どもの指示によっていろいろなところに移動していく。
行くことを許されない病院の廊下、トイレ、混み合う待合室。
お母さんに抱かれて眠る赤ん坊、ソファで眠るおじいさん、スリッパの音、咳、泣き声・・・
クリーンルームの窓からしか見ることのなかった中庭や表通りも違った表情を見せる。
風に揺れる街路樹、鳥の声、青空、商店街の音楽、風に舞う枯れ葉・・・・
見たいものを声にするだけで、その光景を見ることができる。
読みたい本も探すことができる。
たとえ閉ざされた部屋にいようと、同じ時間、同じ世界の動きにつながり、自分の想いでそれらを選択できるという体験は、どれほど生きているという喜びを豊かにしていくだろう。
いまある自分の中に湧き上がる想いや感情を伝えたいという欲求、
それは生きるということの大切な形の一つなのだろう。
それがさまざまな表現を生み出す。
ワタシには、はっきりと分からないが
声や身振りや言葉や色彩や線や音といった一般的な表現方法だけではなく、
制限された触覚や視覚や聴覚といった、より原初的な感覚を表現に結び付けていく方法だって、これから多様な形で生まれてくるのだろう。
それは生きる喜びをより、ストレートに伝える表現の力を持つだろう。
そんな表現が広がっていけば、いま世界を覆っている戦争やテロや貧困といった課題も、また別の形で克服していく可能性を広げていくかもしれない。
「魔法のランププロジェクト」は、そんな希望も感じさせてくれる。






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2014/02/04

Vol.159 怠惰なムシの夢



時々、自分が虫になったような気がする時がある。
カフカの「変身」のグレゴール・ザムサのような不条理な気分のせいではない。
身の回りの衣類や古本、埃をかぶったキャンバスや絵の具のこびりついたパレット、ビンの中で固まったテレピン油、転がった色鉛筆、ごみ箱からあふれた紙やパンフレット、画集、海辺でひろってきたガラス片や貝殻、流木、いたるところに転がっている大小の石、錆びついた自転車・・・。
海辺の冬の弱い陽射しが、うっすらと影をつけている。
決して広くない部屋の床や机の上に、それらが塔か城壁のように積み重なっている。
それを見ていると、これはもう、自分には片付けられないなと絶望的な気持ちになる。
何十年も生きてきて、結局、残ったのは脱皮した抜け殻とか掻き落とした皮膚や排出物でできたゴミのような城、巣穴なのかとため息をつく。
何もかも捨ててしまいたいのに、その量に圧倒され無力感にひしがれる。
で、逃げるようにベッドに転がり、手足を縮めて視界を遮断する。
怠惰なのだ。
頭からかぶった毛布の中で、虫になったような気分に包まれる。
冬の落ち葉の中に眠る虫たちも怠惰なのだろうか?
彼らは生きてきた痕跡をどこに遺しているのだろう?
彼らの痕跡、
木肌を溶かした不思議な文字のような溝の曲線、
空に広がるおびただしい木葉の喰い痕、
眠りを閉じ込めた紡錘形の虫こぶ、
地中の石に刻まれた無数の生の記録、時間・・・
解読不能なそれらが闇の中に絡み合い、巨大なボールのようになって浮かんでいる。
うっすら目を開け、それを見ると、ああ、もう一つの地球だと思う。
それはいまも眠る虫の尻から吐き出され、膨張し続けている。
その末端に私もいる。
私の海辺の部屋にもつながっている。
そういうことだ。
すべてのものはつながり、捨てるものなど何もないのだ。
虫になると、そんな想いに慰められる(笑)。
隣室で、虫になったグレゴール・ザムサもそんな夢を見ているかもしれない。






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2014/01/31

Vol.158 もう一つの希望



vol.154「腹、たつなあ!!!」について、思わぬ方々から感想を聞くことができた。
学校の先生や作業所の指導員・ガイドヘルパーさん、保護者の方、障がいを持つ仲間たち、学生、派遣社員の人、年金生活者・・・いろいろな領域で生活をしている人たちの生の声だ。
その多くが、社会的弱者?の仲間たちや子供たちの前に立ちはだかる厳しい現実とそれに対する憤りや孤立化していく辛さや悔しさを伝えるものだった。
そこに共通しているのは、ワタシたちの社会(生活)が持っている日常的な「否定と排除のロンリ」の怖さだ。
「否定と排除のロンリ」たって、そんなこわもての言葉で言われても、ピンとこないけれど、生の声を聴くと、それが私たちの暮らしの見えない秩序・ルールのようになって、私たちを縛っているのに驚く。
当たり前のように行われている会話
「あの子、きょうもやっちゃったのよ。もう限界よ」とか「あの子の力にあったところがあるんだから、そっちに行った方がいいのに」
あの子が巻き起こすいろいろな行動を、つい軽い気持ちで否定してしまう。
それが日常化すると、あの子を取り巻く小さな世界の中で、あの子はいつの間にか姿を変えてしまう。
あの子は否定の存在になって居場所を奪われていく。
あの子は、あの子のままに、そのままに受け止めてほしいのに・・・。
否定され、突き放され、片すみで震えている。

時々、ワタシたちは、そんなあの子に姿に気づき、心は痛む。
でも、「本当はそうじゃいけないんだけれど、言えないなあ」と黙ってしまう。
あの子は、明日のアナタかもしれないからだ。
そんな風に「否定と排除のロンリ」は、巧妙にワタシたちの心に根づき、ワタシたち自身を傷つけ、ワタシたちを変えていく。
ワタシたちは、ブロックの一つになり、強者の生き残る塔に組み込まれていく・・・・。
まるで、昔の武宮恵子のSFマンガみたいだけれど(笑)・・・、
それはリアルな現実がもつ一つの側面かもしれない。
で、時々、ワタシはため息をつき、考える。
居場所を失い、透明になっていく子どもたちや仲間たちに、どんな希望や勇気を届けられるのだろう?
あの子を否定し、排除する世界にワタシに何ができるのだろう?
答えは見つからない。
でも、ワタシは世界の片すみで震えるあの子に向かって、一歩を踏み出したい。
ワタシはとても怖い。
ワタシは、間違っているかもしれないけれど、
あの子の肩先に手をのばし、
「こわがらなくてもいいよ」
「きみのままでいいよ」って言ってあげたい。






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2014/01/28

Vol.157 木を植えたら、道をつけよう



月一1回1時間しかないけれど、小学生の仲間を中心にアートをやっている。
ここは、他のフェースの場所とは少し違う。
一人ひとりの持っている個性や感性を引き出す個別の活動ではなく、みんなでアートそのものの活動を楽しむことを中心にやっている。
最近やったのは、森をつくり、その周りに道をつける活動だ。
DMはがきや厚紙を切り抜き、いろいろな大きさの三角形の型紙を作る。
その型紙を紙の上に置き、切り抜いた三角形の中に色鉛筆を走らせる。
それだけ。
シマシマの三角形やガラス片のような三角形が生まれてくる。
形の苦手な仲間だって、鉛筆をぐるぐるやってると、いつのまにか三角形が現われる。
それを三つ積み重ねる。
三つの三角形はクリスマスツリーのような木になる。
一本描いたら、もう一本、それから、もう一つ・・・・
小さな木、少し傾いだ木、それからおじいさんの木、横になった木、空を飛ぶ木・・・
いろんな木が紙に広がっていく。
小さな森が出来上がる。
それで、一回目のアートはおしまい。
次の時間は、木々の間に道をつける。
迷路のように入り組んだ道。
左右に分かれ、ハート型に巡り合う道。
空の星に向かって伸びていく虹のような道。
小さな仲間たちの頭の中にいろいろな道が生まれる。
道には、すごろくゲームのようにマス目をつけていろいろな色を塗っていく。
最初は丁寧に塗っていたのに、みんな少しずつ乱暴になっていく。
何だか早く塗り終わらせようと焦りはじめる。
どうしてだろう?
ゲーム気分で速くゴールに到着したいのだろうか?
片手にいくつもの色鉛筆を持ち、つぎつぎと機械的に塗っていく。
机の上に、並べて順番に塗っていく。
道ができると、小さな家やクマやおばけなんかを道沿いに描いていく。
小さな仲間の頭の中に生まれる森の物語。
時々、ワタシも仲間たちの森に迷い込んでいく。
あー、ここで行き止まりだ!とか、さっき道でであったキツネはなにしてたんだろう?とかいろいろ考える。
そんな時間の中にいると、1時間なんてあっという間に過ぎていく。
小さな仲間たちと過ごす時間は、おもちゃ箱の中にいるみたいだ。
こんどは何をして遊ぼう?






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2014/01/24

Vol.156 一つの希望



年末から年始にかけて、小さな話を書いた。
題して「青い石を持つカエルの話」(仮題)。
統合失調症と闘う?Kさんの絵を念頭に、絵本風に20scenesにまとめた。
もう、何年になるだろう?
Kさんとは藤沢で出会った。
寡黙な人だが、一緒に絵を描きはじめると、すぐに色鉛筆で自分の線や色彩を表現するようになった。
繊細で透明感の残る虹色の線。
半具象で、鳥や魚や水や光が主な主題だった。
頭を垂れ、なにも描かれていない紙をじっと見つめる彼の姿は苦行僧のようだった。
時々、一人暮らしのアパートで描いたボールペン描きの絵を持ってきた。
カゴに閉じ込められた針金のような鳥や寝床から首をもたげ、遠くの塔のような建物を見つめる若者が描かれていた。
それは、つげ義春の絵のように孤独だった。
そんな彼と3年間、一緒に絵を描き、昨春終わった。
ワタシの活動日が日曜日になり、教会に通う彼の時間と合わなくなったためだ。
時々、彼の絵を思い出した。
それは何かをワタシに話しかけていた。
しかし、それが何なのか、ワタシには分からなかった。
フェースの仲間たちの絵を使った絵本プロジェクトを起ち上げて、「ぼくの星」という小さなみどりのカエルの話を絵本化している時、突然Kさんが描いたカエルの絵を思い出した。
その時、彼のカエルなら、どんな物語、世界を生きるだろう?と思った。
その想いは、澱のように少しずつワタシの中に堆積し、ゆっくり一つの形になっていった。
年末、絵本を一緒に作ってみないかとKさんを誘った。
簡単な内容のエスキスを描いて彼に送った。
彼からはすぐに興味があるという返事が戻ってきた。
こんな風にワタシたちの絵本プロジェクトは始まった。
「青い石を持つカエル」は、つらい話だ。
宮沢賢治のよだかの星のように、生きていること自体の悲しさやいじめの話もあるし、地上を離れた生命が宇宙を漂うシーンもある。
先日、Kさんと内容について話し合った。
「悲しくてつらいです。花畑に寝転んで口の中に虫がいっぱい入ってくるシーンは、発作を起こして、ベッドに拘束されている自分を思いました。食事なんか欲しくないのに喉に流し込まれているような、水ばかり飲んで・・・自分は何をしているのだろう?と思っている自分です。」
きびしい言葉だった。
別れたあと、Kさんからメールが来た。
「なんとはなしにヨハネによる福音書を感じました。本屋に並んでいる、きれいで、明るい希望と元気にあふれた絵本とは違う、それをあえて表現する・・・。昨年、会社からいただいた図書カードで、エリ・ヴィーゼルの“夜”を買いました。凄惨な、強制収容所のことを描いた本なのですが、また読んでみたくなりました。けれども、その前に物語のエスキスをもう一度読みます。」
ワタシはいい絵本を作りたいなと思った。
この本が生まれること、それはワタシの一つの希望となった。






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