このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2014/03/18
Vol.170 オレ、アーティストになりたいんや
Rとは、彼が高校生の時からの付き合いだから、もう20年になる。
スポーツマンで、特別支援学校高等部の都大会では、百メートル走や走り幅跳びでは、いつもベスト3に入っていた。一緒に走ったり、ジャンプしても、ワタシが彼に勝つことは一度もなかった。
「仕方がないよ、年だから。がっかりしなくていいよ」
息を切らして座り込んでいるワタシの側に来て、カチンとくる言葉で慰めてくれた(笑)。
だから、ワタシの中ではRはいまでも若々しい青年のようなイメージがあって、最近、疲れたおじさんのような表情を浮かべる彼をみると、ギョッとしてしまう。
みずみずしく柔かなものに包まれていた輝きも年月は容赦なく洗い流してしまう。
その冷徹な事実に鼻白んでしまう。
でも一方で、その流れはワタシたちの奥にある本質のようなものを浮き上がらせてくれるような気もする。
高等部を卒業して17年。就職した蕎麦屋の皿洗いを終えて、フェースにホッとしたような顔をして現われる彼を見てきた。
学生時代、絵に興味を持たなかった彼がフェースに来るようになったのは、学生時代の仲間と一緒にラーメンをすすったり、CDを聞いたりして過ごす夜の時間の楽しみのためだった。絵は10分くらい、なぐり描きのようなキャラクターを描いて、後はおしゃべり。
まだみんな若かったので、夏には伊豆に合宿に行き、田島征三さんのアトリエに遊びに行ったり、造形大の大竹誠さんの手作りの小屋に行って絵を描いたりした。
伊豆高原の絵本の家で作品展を開き、少し作品も売れたりした。
絵を描けば、いろいろな人と出会い、おしゃべりができる。
Rの中で描くことの目的が少しずつ変わった。
すると、絵も変わり始めた。
「オオタケ先生の木に虫がいた。ほら、教えてあげなくちゃ」
大きな木の幹にセミやアリがびっしり登っている絵を描いた。
少しずつ、絵にRの想いがおしゃべりのように表現されるようになってきたのだ。
そんな絵が数年続き、(ワタシが年をとり、)みんなで伊豆に行くこともなくなると、停滞期が来た。絵に想いがなくなった。
それでもフェースに来ることをやめなかったのは、家と仕事場の単調な往復の毎日の中で、仲間たちと過ごすおしゃべりの時間が大切だったからかもしれない。
で、最近はどうかというと、なにやらまた一つ、目的を見つけたらしい。
「オレ、アーティストになりたいんや。どうしたらいいんや?」
そんなことをしきりに言うようになった。
どうやら、絵を売ってお金が欲しいようなのだ。
「これ、一億円で売れるかな?」とか「これはカレンダーに描いたから、もっと安くしよう」とか言って絵を見せに来る。
「高く売れるかも」と、国宝級の絵巻物を描き写したり、赤富士を描いたりしている。
生臭い動機ではあるが、絵にチカラが戻り始めている(笑)。
「オレ、アーティストになれるかな?」彼が聞きに来ると、ワタシはこう答えることにしている。
「君はもう十分アーティストです。死ぬまで描いてください!」
彼は満足そうにうなずき、また描きはじめる。
△ページトップへ戻る
2014/03/14
Vol.169 境いの雨
朝、雨戸をあけると雨の匂いが肺の中に広がった。
深夜から降り始めた雨は雪にもならず通りを濡らしていた。
排水溝に踊るように跳ねて流れる雨水を見ていると、この雨が冬と春の境目の雨だと思った。
毎年この季節になると、冬から春に移る境いの日に敏感になる。
その日を境に何かが変わるというのではなく、年が明け、はじめて春を想った日を自分の暦のように心に刻んでおきたいというだけのことだ。
きのうまで雪の中に見え隠れしていた草の緑がその日、突然、澄んだ深い緑に見えたり、コブシの枝先の新芽のふくらみが気になったり、茜色に染まった雲のひろがりに夕方のやわらかな時間を感じたりする。
昨年は境川の川面の光だった。
その一瞬を刻む。
今年はこの2月の雨だなと思った。
耳が遠いせいか、ワタシは雨の匂いに、その性質を想ったりする。
雨の性質っていっても、科学的なものでも何でもない。
疲れた心身を包み込んでくれるような雨は静かで細やかな匂いがするし、心を弾ませてくれる雨は、弾力のある光りのような匂いがする。
今年の境目の雨は、やわらかさと硬さが程よくブレンドされた土のような匂い。
そんな匂いの中に立っていると、雨に打たれながら少しずつふくらんでいる蕗の薹が浮かんできた。
すると突然、「行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ・・・」
井上陽水の「傘がない」のフレーズが口をつき、ワタシは合羽をかぶり雨の中に出ていく。
もちろん、蕗の蕗を探しにだ。
川ぞいの斜面にへばりつきながら、草をかき分ける。
容赦なく降ってくる冷たい雨に眼鏡のレンズも曇る。
手も足も泥だらけになりながら、「まだ生きているなあ・・・」と思う。
小一時間探して見つけた蕗の薹は、小さな子どもの双手を合わせた合掌の姿でワタシを待っていた。
土の中の小さな祈りの姿。
頭を垂れる。
今年もいい春に出会えた。
ワタシは満足し、震えながら家路についた。
雨は一日降り続いた。
△ページトップへ戻る
2014/03/11
Vol.168 モンタージュの愉しみ
土曜日、仲間たちとモンタージュで遊んだ。
遊んだというのはちょっと違うかもしれない。
ワタシが仲間たちの活動を楽しませてもらったというのが、本当のところ?
作業的にはそんなに難しいものではない。
動物や人間の顔をモノクロでコピーして、それを額から頭頂部と目、鼻、口元から顎のパーツごとに切り分け、それを組み合わせて不思議な顔を作るという取り組みで、その顔をみんなで楽しもうというもの。
1時間くらいで2つ、3つの顔が作れる。
楽しむポイントは、筆で描くことでは絶対に表現できないぶっ飛んだ顔の面白さ。
熊の鼻をした、きらきら眼のモデルさんやピンクのパラソルを持ったコアラ頭の怖いおじさん、目が四つあるシュバちゃん・・・・。
モンタージュの面白さは、どんな顔を作ろうと意図しても、イメージ通りの顔にはなってくれないところ。コントロールできない作品の独自のジャンピング感やびっくり感が、仲間たちの心をとらえ、笑い声を生む。
いつもなら顔を描くのにためらう仲間が、小泉純一郎の髪型をした馬の顔にシュバちゃんのあごを貼り付け、ニヤニヤ楽しそうだ。
一方で顔は目鼻立ちがきちんと整っていなければいけないという価値観の仲間は、少しいらいらしながら、シマウマの鼻の左右に大きさのそろったマスカラの目や濃いアイラインを引いた目を貼り付けては、「何か違う!」と机を叩いたりしている。
友だちの作った顔に雑誌から切り取ったサングラスやスカートを置いてみて、笑いあったり、隅っこに好きなキャラクターの絵や言葉を書いたり・・・・モンタージュがいつもとは違うエネルギーを仲間たちの間に巻き起こし始めているのだ。
活動を通して、心が結ばれていく・・・そんなワークショップが自然に生まれていく。
それにしてもモンタージュで生まれた人たち、個性が際立っている!
目ヂカラの人
あかいルージュの有閑マダム風のクマさん
おいしそうにコーヒーを飲むコアラ顔の女性
サングラスを斜めにかけた皮ジャンのライオン
生真面目な豹の目をしたサラリーマン?
この人たちは、やっぱり社会に出ていくべきなんだろうとワタシは思う。
この人たちなら、社会をもう少し楽しくしてくれるかもしれないと思う。
で、この人たちが出ていく道をどんなふうに作ればいいのだろうと考えているのである。
△ページトップへ戻る
2014/03/07
Vol.167 掘りごたつから、何が生まれてくるのだろう?
今年の1月から不思議な集まりが始まった。
不思議なというのは、一つの目的を持って集まったのではなく、藤沢にある蔵まえギャラリーの奥にある掘りごたつを囲んで、とりとめもない世間話でもしましょうかという程度のやわらかな集まりという意味である。
蔵まえは昭和初期のレトロな米屋をほとんど手も加えずギャラリーにしているので、冬にはすきま風が容赦なく吹き込んでくる。寒いのだ。
で、ギャラリーを訪れた人たちは、時間があればギャラリーの奥の掘りごたつにもぐりこんで暖をとる。
オーナーの佐野さんが出してくれるお茶やせんべいをつまみながら、背中を丸めて遊行寺に向かう表通りを眺めていると、なんとなく心も温かくなってくる。
そのうち、炬燵を囲んだ見知らぬ者同士、お天気の話しや関心を持つアートの話しなんかをぽちぽち始める。で、共通の知人がいたりして驚いたりする。もちろん、黙って話を聞いているだけでもいいのだ。
気のおけない時間がゆっくり過ぎていく・・・。
せちがなくなる一方の社会の片すみに、こんな場所があるということ自体が驚きなんだけれど、ワタシなんか、ここは、こんな時代だからこそ人々が無意識に求めている様々な癒やしの要素を兼ね備えている最先端の場なんじゃないかと思ったりする。
こんな場は意図してできるモノじゃない。
佐野さんという人柄と古い建物と集まってくる人たちの優しさがあって、はじめて生まれる絶妙のバランス空間なのだ。行政とか金銭的な価値観が過剰に関与してくると、すぐに壊れてしまう繊細さの上に成り立っているような気がする。(しげみの中の鳥の巣みたいな感じね)
で、ある日、佐野さんから「お茶を飲みながら、月に一回くらいアートの話がしたいっていう人たちがいるから顔を出してくれない?」と声をかけられたのだ。
「どんな人が集まるの?」って聞くと、「いろいろな人」と簡潔明瞭な答え。それぞれに接点は少ないのだけれど、一応共通項になるのがワタシということで呼ばれたらしい。
でもいったいみんな集まって何がしたいのか皆目見当がつかない。
内心「茶飲み話だけじゃ、続かないだろうな?」と不安に思いながら、1月、2月と集まりを持った。
ところがやってみると、結構面白い。
みんな構えていなくて、「まあまあ、お茶でも一杯!」台湾の山茶をこよなく愛するAさんに甘いお茶をふるまわれ、自分の絵や物語、文章を披露し、それぞれの感想を自由に述べ合う。
蔵まえの掘りごたつの空気にすぐに包まれ、和気あいあいのアート談議の時間がうまれたのだ。
カルチャーセンターやギャラリーなんかが主催する気取ったアート講座やアカデミズムな美への信奉のかけらもない。
いいですねえ、いいですねえ・・・ワタシは嬉しくなり、こんな場からは独創的な面白いナニカが生まれてくるはずだと確信した。
で、万葉集や折口信夫の言葉を細かな文字でアート表現しているWさんの書いた「泣き虫タキヲの物語」を紙芝居にしてみませんかという提案をした。
この物語、ギュンターグラスの「ブリキの太鼓」をパクッたところもあるけれど、精神障害を患ったWさんの生い立ちも想起させる、なかなかの傑作。
この物語の絵こそ、ここで生まれるのがふさわしいかもしれないと思ったのだ。
ブリキの太鼓の主人公オスカルは、おばあちゃんのスカートの下から生まれてきたが、泣き虫タキヲは、蔵まえの掘りごたつから生まれるのだろうか?
1年くらいかけて、じっくり生まれてくれば良い。
どんな顔をして、どんな声で泣くのだろう?
楽しみである。
△ページトップへ戻る
2014/03/04
Vol.166 じっと見ていると、浮かんでくるもの
何かの拍子に描きかけの作品が押入れの奥から出てきたりする。
古いレコードジャケットの中からちぎれた作品のかけらが出てきたりもする。
ほとんどが若かった頃の仲間の作品の断片だ。
描きかけた途中で不意にストップしたままの線やにじんだ色彩、
紙も色も黄ばみ、褪色し・・・忘れていた時間がそこにある。
そんな古い線や色を見ていると、それを描いていた仲間の表情や息づかいが浮かんでくる。
それから、描きかけの作品を大切に保管しておこうとした若い頃のワタシも浮かび上がってくる。
もちろん、誰の作品か、すっかり忘れてしまったものも多い。
それでも、その独特なタッチや荒々しいタッチに見覚えはある。
若い頃のワタシは、その羽目を外した感触に魅かれたのだろう。
ビニール袋の中から現われてきた紙ナプキンや穴の開いた紙切れ。
やわらかなバラ色の紙ナプキンは紅茶に浸して染色したものだ。
一枚一枚、丁寧にしわを伸ばしていると、コラージュの顔が浮かんでくる。
紙ナプキンを何枚も重ねて顔を作っていた仲間の手の動きを思い出す。
あの顔はどこに行ったんだろう?
机の上に、千切った画用紙をセロテープで張り付けた、魚の皮のような作品を並べていくと、言葉にならなかった仲間の叫び声が聞こえる。
思い通りにならない線や色彩に、とつぜん作品を引きちぎり、口の中に入れ、かん高い声をあげてジャンプする仲間の姿が浮かんでくる。
作品を噛みながら、ホッピングするやせた棒のような仲間の息づかい。
あの叫びをどこに置いてきたんだろう?
古い作品(断片)を見ていると、歩いてきた道の至る所に置き忘れてきたものがあることに気づく。
きっとそれは、これから生きていくうえでも大切なものだろう。
もう一度見つけにいきたいと思うが、その術が分からない。
荒野に取り残されたような孤独な気持ちになる。
なぜ、今頃、現れてきたのだろう?
未完の古い断片は、何を語ろうとしているのだろう?
すぐに答えは見えない。
でも、彼らをじっと見ていると、浮かんでくるものがある。
失ってしまった大切なもの。
それはすぐそこにあるような気がする。
小さな窓から3月の空を見上げると、あの頃と同じ空が広がっているような気がする。
△ページトップへ戻る