このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2014/04/22

Vol.180 気になる絵本



好きな絵本というのは、何十冊もあって、あれもいいなあ、これもいいなあといくつも浮かんでくる。
海辺を歩いていると、片山健の「おなかのすくさんぽ」や大竹伸朗の「ジャリおじさん」が、その辺りをうろうろ歩き回っているような気がする。
絵本には好きになる要素がいくつかあって、話の中の1シーンだったり、あるページの色彩や描線だったり、本の手触り、装丁だったり・・・そのたった一つでも心にしみ込んでくると、やはり手放せない本になる。
でも作家ってことになると、そうはいかない。
どうしても、作家が見ている風景やことばや歩く速度が気になる。
彼女なら、彼なら、この一歩をどんな歩幅で踏み出すだろうと思ってしまうのだ。
それから、最期に見た一瞬の風景は何だったのだろうと思ったりするのだ。
要は、残された作品よりも歩んだ時間や歩き方が気になってしまうのだ。
若い頃好きだった絵本や作家たちも、人生の風雪にさらされると変わってくる。
表面的なきらびやかさが洗い流され、残った骨や石のようなものだけがワタシの指先や視線や舌先とつながって、ひっそり死を持っている。
そんなものに変わっている。
年をとると、押しつけがましいものはうっとおしくなる。
それから可愛さや技法を、これみよがしに披露するのにもうんざりしてくる。
出版社の金儲けのために、大々的に宣伝され、権威づけられた作家たちは限りなくうさんくさい。
伊豆のあばら家には古本屋で見つけた一冊の本があって、時々息苦しくなると、それを手に取るために出かける。
「クロてがみかこう」っていうタイトルの薄い本。(「こどものとも423号」)
作者は木葉井悦子。
彼女の絵本では、ワタシは「ぼんさいじいさま」っていう本が大好きなのだけれど、この本は好きというのとは少し違う。
気になる本なのだ。
ワタシ流の言葉で言わせてもらえば、絵はもうめちゃくちゃにぶっ飛んでいる。
目まぐるしく駆け回っていて、その視線にも話しにも全くついていけない。
それでも、ただ手に取り、その速度を感じているだけでワタシは慰められる。
深夜、伊豆の木々に囲まれた小さな家の中で、山から吹き降りてくる風やけものの足音を聞きながら彼女の見ていたものを追っていると、生きているということがどういうことなのか分かったような気になる。
もちろん、何にも分かっちゃいないのだけれど、それでも、このまま逝ってしまっていいんだよと慰められているような気になる。
そんな本だ。
翌朝、ワタシは、フェースの仲間とそんなぶっ飛んだ本を作れないだろうかと考えながら、山を下りる。
少し元気になって。







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2014/04/18

Vol.179 アールブリュットからVividアートへ



先日、昨年から始めた「湘南アールブリュット展」の今後について会議を持った。
結論から言えば、内容についてほぼ昨年を踏襲することにして継続ということになった。一番問題になったのは展覧会の名称についてだった。
背景にあったのは、「アールブリュット」という言葉では、私たちの想いを表現できないのではないかという問題意識だった。
大げさに言えば、美術教育の有無やプロとアマ、障がいの有無といった既成の権威構造から解放され、宗教や民族、言葉、文化、歴史、国家といった世界を分断する様々な幻想領域の違いも越えて、生の表現力を持つ作品たちが出会う場所を作りだしたいというのが私たちの想いだ。
でもこんなかた苦しい定義は、ここではどうでもいい。
もっとシンプルに言えば、「アートはどんな境界も超えていくぜ」という現在進行形のスペースを湘南に作りだしたいというだけのことなのだ。
で、いま「アールブリュット」という言葉が「どんな境界も超えていく力」を持っているかというと、残念ながら首をかしげざるを得ない。
前世期半ばにド・ビュッフェが唱えた「アールブリュット」という言葉のすごさは、一つの表現潮流として自らを規定することを拒否することで、多くの人々をひきつける魅力やインパクトを現在も持ち続けているということだ。
いまの日本で「アールブリュット」がどう受け止められているかというと、「専門的な美術教育を受けない人々による自由で自発的な表現を指す」という定義が一般的になっているようだ。
これは、私から見れば「アールブリュット」という言葉が持つ本来的な越境のダイナミズムを否定し、矮小化しているようにしかみえない。
この定義を受け入れれば、「アールブリュット」という言葉を使った展覧会からは、専門的な美術教育を受けた人の作品は排除されることになる。
それは、私たちが願っている「どんな境界も超えて、作品たちが出会う場」としての作品展と矛盾する。
で、会議では「アールブリュット」が持つ本来的な「生の表現力」を体現する言葉はないのだろうかと、言葉遊びのように議論(バトル?)が行われた。
例えば、ストレートに「生の芸術展」は、どう?という意見については、これを全国の作品展で検索すると、幾つかの地域にすでに存在していた。それじゃだめだねということで却下!
では魂に触れる作品展という意味で「湘南ソウルアート展」は?
ダメ、古臭い!即、却下!
じゃあ、出会いを意識して、「エンカウンター展」は?
出会い系サイトの展覧会に思われるかもね?却下!
んー、ほんじゃあ、ちょっぴり真面目に「生きるアート展」は?
昭和の社会派?時代感覚があわないね、却下!
では「ピュアアート展」?
恥ずかしいよ。何がピュアなの?却下!
じゃあ、湘南を意識して「湘南アートウェーブ展」?
イージーすぎる、却下!
「湘南Art-Shore(アートの岸辺)展」は?
分けがわからん、却下!
却下!キャッカ!KYAKKA!の言葉が飛び交う。
で、最期に出てきたのが「Vivid Art」。
Vividは、生々しい、鮮烈っていうイメージの言葉。
おっ、なんだかエッジが効いてていいね。
時間も遅いし、それでいこう!
というわけで「湘南アールブリュット展」は「湘南Vividアート展」に衣替えすることにあいなりました。
今年は10月3日から13日まで開催されます。
昨年同様、よろしくお願いします。







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2014/04/15

Vol.178 ポケットに仲間たちを入れて歩いたら



桜吹雪の日、くすくすミュージアムの運営をしてくれているCURIOUSのオフィスに行った。
四谷の駅を降りてしばらく歩くと、少し葉を出したユリノキが現われる。
ボクはいつもその大きさに感動する。
「天を突く」という言葉そのものように大きな枝が空に伸びている。
見上げていると、小さな虫になったような気分になる。
白い花びらがゆっくり、絶え間なく墜ちていた。
不思議な時間にいるような心地よさがあった。
CURIOUSは、閑静な住宅街の中のマンションにある。
ボクは、昨年の湘南アールブリュット展のCURIOUS賞の受賞作家大庭稔揮さんの絵を机の上に広げ、よこはち編集長が現われるのを待っていた。
若いデザイナーやイラストレーターがきびきびと動いているのを見るのも新鮮で、なぜか江の島の水族館を思ったりしていた(笑)。
しばらくして現われたよこはち編集長は「こんなものを賞品にしようかと思って・・」と掌サイズの小さな本を机の上に置いた。
「こんな感じの豆本・・これが試作品ね」
表紙が丸く切り抜かれ、そこから大庭君のカエルが覗いている。なんだか本というよりもオブジェである。
一見して、気に入った。
本をめくってみると、片面に彼の描いた作品がプリントされていて、もう一面には何やら面白そうな文字が印刷されている。
受賞作品のゴリラとカエルの描かれたアフリカの大地の絵の横には、「夜のおすすめ」のメニュー。
夕暮れ星のステーキ(150g~)
大地の鮮魚と雨雲のサラダ
カエル色のポタージュ
昼海老と夜海老の濃厚ソースパスタ (生スパゲッティーニ)
枯れ木の完熟トマトプリン
ん、なんだかうまそうなコース料理だ。
CURIOUSのすぐ横には三ツ星レストランMIKUNIがあるので、どちらの料理がうまいだろうと考えてしまう。
よこはち編集長はこの絵を見て、こんな料理を想ったのだと思うと、一つのアイデアが炎のように燃え上がった。
こんな風にフェースの仲間たちの絵とそれを気に入った人のつぶやきや言葉がコラボする本の制作をみんなに呼びかけたらどうだろう?
一つひとつのかけがえのない出会いが生み出す小さな、小さなスパーク、
自由で個性に満ちた、この世でたった一つの掌サイズのオブジェのような物語、
そんなものが生まれてくるかもしれない。
そんな小さな絵本をポケットに入れて外に出ると、街はこれまでと違った風景を見せてくれるかもしれない。







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2014/04/11

Vol.177 もう一つの時間



この前、新しい年が始まったと思っていたのに、もう4月。
桜も楽しんだけれど、堪能した気分にはなれない。
もう少しいいじゃないかと、散っていく桜に訴えてみても、自然の流れは非情である。
どうにも速さについていけない。
取り残されるのである。
取り残されて、気づくとぽつんと無限大の時間の岸辺に座りこんでいる。
でも、それはそれで悪くないのだ。
時に、みずみずしい新鮮なエネルギーのようなものに満たされる。
すべてが可能になるような気分。
生まれたばかりの生命は、こんなエネルギーに満たされていたのではないかと思うような至福感。
この感覚、若い人には分かんめえ!だな(笑)。
そんなもう一つの時間、悠久の流れにひたっていると、そこを行き来するさまざまなものが見えてくる。
死者や生者や変幻自在な有機物や無機質のものたちだ。
彼らの会話も聞こえてきたりする。
その刺激的な物語はどこに消えていくのだろう?
それが気になって仕方ない。
でもまだワタシは、そんな自在な時間の彼岸にはいけないので、時にめまいのするような現世(こちら)の時間に戻らなければならない。
街を歩いたり、コンビニに入ったり、本屋をのぞいたり・・・
で、フェースの時間はどちらの世界を流れる時間なのだろうと考えたりする。 すると、フェースでやろうと呼びかけた絵本が、まだ手に取る形で一冊も生まれていないことに気づく。
もうほとんど出来上がっている「ぼくのほし」なんか、ちょっとした作業で産声を上げるはずだ。
「青い石をもつカエルの話し」や「辻堂ねこ道」なんかも少しずつ進行している。
「草色のいぬ」や「泣き虫タキヲの物語」もやがて姿を現すだろう。
それから、ずっと気になっている「ねっこのルーティ2」。
一年以上も前に英訳までできているのに、絵を描かないままに放置している。
ため息が出る。
何だかスムーズに流れていないのである。
でも、ワタシの中には焦りはない。
もしかしたらと思う。
これらの物語は、こちらの時間というよりも、向こうの時間を流れているじゃないかと。
もう一つの時間の中で、時が満ちれば生まれてくる本たちなんじゃないかと。
時が満ちて、会うべくして彼らに会えるなら、もっと待ったっていいじゃないか。
多くの仲間たちが関わっているプロジェクトなので申し訳ないのだけれど、そんな風に思ってしまう。
現世(こちら)の時間に合わせることはないのである。







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2014/04/08

Vol.176 文字とことば



「これはオレの大切な宝物や。失くしちゃ困るからね。」
彼が見せてくれたのは、掌に隠れるような小さなメモ帳だ。
端が擦り切れ、ボロボロになった紙に小さな文字がびっしり書きこまれている。
鉛筆やボールペンの色褪せた文字が古い端切れのように見える。
おちょくる|ぶじょく|からかう、ばかにする、いけない
おどす|いうことをきかせようとしてこわがらせる、いけない
いのち|いきてるきかんいっしょう|いのち
けつい|しっかりいしをきめる、そのけっしん|けつい
ひとちがい|べつのひとをそのひととかんちがいする
しんろう|いろいろしんぱいしてこころをいためる
いんめつ|きえてなくなる|いんめつ|しょうめつ
みずくさい|よそよそしい|ぎょうぎでおやさしさをみせない
ようぎ|つみをおかしたうたがいぬすみでつかまる(けんぎ)いけない
てきせつ|ぴったりあてはまる、そのばにふさわしい
やりとり|やったりもらったりするこうかんいいあう
やくわり|しごとをわりあてるわりあてられたしごと
へこたれる|アドバイス|
みきわめる×→てる|おどおど|ふんばり|しょじ|むしんけい
記号のように並んだ文字。
すぐには意味がつかめない。
「これは何なの?」
きくと「オレの勉強、分からない言葉があったら書いて覚えろっていわれたから、書いてるんや」
「これがないと困るんや」
生活の中で拾い集めてきた理解不能の言葉。
職場とか家庭とか街中でピックアップした言葉を夜、辞書を引いて書きとる。
中学生の頃から始め、35歳の今も続けている。
彼の律義さや真面目さが心を打つ。
そういえば昔、「オレってむしんけい?」って聞きに来たことがある。
その時は何て答えたのだろう?
無神経に彼に言葉を返したかもしれない。
「おちょくっとるんかって、何なんや?」
それをきかれたこともある。
職場で叱られたらしくて、いつもは陽気な目が悲しそうに見えた。
「これ、いつも持ってるの?」
「そうや。分からない時はこれを見るんや」
長い付き合いなのに、そんな言葉を集めていることを知らなかった。
メモを見つめていると、
おびただしい文字の中に埋没した言葉の骨格が透けてくる。
一つひとつの言葉の背景が見えてくる。
「一生勉強や」
ボロボロに汚れたメモ帳を、彼は大事そうにポケットにしまいこんだ。







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