このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2014/05/13

Vol.185 生きようとしているものの痕跡(原田裕輔の作品)



原田裕輔さんと私の付き合いは5年にも満たない。
短い期間だが、彼の作品に対する想いは深さを増している。
その深さは現在進行形である。
それは「未だ現われず」という意味で、S.ベケットの「ゴドーを待ちながら」の期待と不安の入り混じった時間と似ている。
それが現われるまで、私は待ち続けるということになるのだろう。
そんな覚悟が最近は生まれ始めている。
この間、様々な場所で彼の表現が生まれる現場に立ち会ってきた。
夜の作業所や彼のアパートの薄暗い北向きの台所で、指先を震わせ、重苦しい息を吐きながら表現の沼に沈んでいく彼を見てきた。
うつむいたまま首を垂れ、何かに耐えているような身体がゆっくり上下し始めると、私は不安になり、声をかけた。
「大丈夫か?」
すると、「きのうは眠れなかったので、ドトールで一晩中起きてたから・・・」
かすれた声がもつれながら聞こえてくる。
終夜営業のカフェで、一人、過ぎて行く時間に耐えている彼の姿が浮かぶ。
夜明けの路上を、疲れ切った身体を揺らしながら歩いていく彼の背が見える。

「ボクには描くことしか残されてないから」
「描くことは全てじゃない。生活の方が大切だから、ボクはあきらめます」
5年間、繰り返しそんな言葉を聞いてきた。
同じ統合失調症を患った車いすのパートナーと自閉症の一人息子の3人暮らしの中で、描きつづけることの意味を彼は問い続けている。
時々、私はゴッホも、そんな風に苦しみながら絵を描いていたのだろうと想う。

彼の作品を前にすると、容易に言葉は出てこない。
粗く、拡散した線や色彩は、私たちの日常の視線を拒否するようなところがある。
表面的な色彩や線描の快楽ではなく、内部の形にならないまま横たわっている肉片のような熱や違和感を伴った不定な感触が彼の絵画の特徴なのかもしれない。
熱は微熱の時もあれば、冷血の時も、高熱の時もある。
それは常にうつろっている。
うつろうものはうつろうものを誘い出す。
共振しようとする。
だから、彼の作品を前にすると妙に落ち着かなくなる。
私の中に隠れていたものが姿を現し、熱を帯び震えだそうとする。
いい気分ではない。
しかし、そこには生きていることの根源のフォルムのようなものがあるような気がする。
生きようとしているものの幽かな痕跡。
私はそこに一つの希望を見たい。







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2014/05/09

Vol.184 みくさんのネコ



みくさんのネコに魅かれる人がいる。
修正ペンで描かれた掌ほどの大きさのいろいろなポーズでゴロゴロしているネコだ。
手足のバランスなんて気にしていないので、大きな顔を持て余して日向に寝転がっていたり、太い手で顔中をポリポリひっ掻いたりしている。
笑うと細い目が白い毛の線に隠れて見えなくなったりする。
まるで毛糸玉か栗のイガみたいにね。
そこには、ネコであろうとはしていないネコがいる。
だから、みくさんの絵には無垢なものが隠れていたりする。
それを見つけてしまうと、みくさんのネコのとりこになる。
無垢なものにワタシたちは弱い。
長い間生きていると、どうしても駆け引きを覚えるし、目先の小さな欲得に敏感になり、そんな自分を嫌いになっていく。
「汚れっちまった悲しみに/今日も小雪の降りかかる」と詠んだのは中原中也だけれど、
みくさんのネコは、そんな悲しみの向こう側、あたたかい陽だまりの中でごろごろ寝転がっている。
一日がどこで始まり、どこで終わろうと気にもせず、何もかもが許されている夢のような時間、生まれた時の光のようなやわらかい記憶。
そんなものを人はみくさんのネコに見るのかもしれない。
第一回湘南アールブリュット展で、みくさんのネコはBow Books賞をとった。
その受賞作品も展示中に、購入したいという人が現われた。
その人は、「この絵を玄関の壁に飾りたいのです。ぜひ譲ってください」と対応に出た私に言った。それから戸惑う私の顔を見て、「これなんです。これが必要なんです」と早口で言った。
次の日も、その人は来て「これでなくちゃいけないんです」といって、じっと視ていた。
で、その「一人ぼっち」という作品は、その人のもとに行った。
いま、そのネコはどんな風にその人と生きているのだろう?と時々思う。
みくさんのネコは、いなくなってもそんなことを思わせるネコなんだと知った。
みくさんはいま中学二年生である。
だから、みくさんのネコがいつまでも今のネコであることはない。
だんだんネコらしいネコであろうとする、そんなネコになるかもしれない。
でも、それはそれでいいのだろう。
みくさんが最近描いた犬の絵がそう言っている。
手袋を噛んでいる仔犬が、一瞬動きを止め、ガンを飛ばすようにこちらをにらんでいる。
「何か文句ある?」
そう言われれば、もう何も言うことはないのである。







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2014/05/02

Vol.183 ワタシが彼らを師匠と呼ぶ理由



フェースの仲間たちをワタシはいろいろな名称で呼ぶ。
例えば「雲の画家」とか「カエルの画家」とか「コーラの画家」とか。
それは、描くテーマにこだわる仲間たちへの尊称だ。
それから、「線の画家」とか「色の画家」とか「点の画家」とか呼んだりもする。
それは、彼らの作品の特徴に対する尊称だ。
それから、「目(視線)の画家」とか「イメージ(想い)の画家」「直(心)の画家」とか言ったりもする。
それは、作品が生まれてくる独自の表現回路を呼び表す名称だ。
他にも、「マス目の画家」とか「コラージュの画家」とか「点描の画家」とか言う時もある。
それは特定の画法で取り組む仲間への尊称だ。
それから、「大家」とか「巨匠」とか「大先生」といった言葉で呼ぶ時もある。
これには大した意味はない。我、関せずで、悠々と表現を楽しむ仲間の態度に感服した時に思わず言ってしまう尊称だ。
ふざけて言っているようにも聞こえるかもしれないが、これらの呼称の背景には、基本的にワタシの仲間たちに対する“師匠”意識があるからだ。
仲間たちの表現を引き出すための道具や素材や画法を発見するには、仲間たちの嗜好や行動や思いを彼らから学んではじめて可能になる。あるがままの彼らから学ぶこと、そのことをいつも念頭に置いているうちに、彼らはいつの間にかワタシの先生になってしまったのだ。
そして、彼らのあるがままの姿を追っているうちに、それは表現の領域にとどまらず、生き方の領域にまで及んできた。
人間関係や仕事のストレス、忙しさの中で、心が折れそうになるギリギリのところで思い浮かべたのは、彼らの表情、直な行動、ひょうひょう、淡々とあるがままに生きている姿だった。
自分もそのように生きればよいのだ。
そのように生きたいと切に思った。
だから、いまではもう何のてらいもなく、「彼らはワタシの人生の師匠です」ということができる。
極めて真面目な本音なのである。
卑屈にはなるまい。
せめて一緒に人生の汀を歩いていきたい。
それでも、背筋を伸ばしてまっすぐ歩く仲間の姿に、思わず頭を垂れるワタシなのである。



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2014/04/29

Vol.182 “フェース”に近づく



フェースofワンダーは、仲間たちが自分らしく過ごせるスペースであって欲しいと思っている。
「自分らしく」にこれといった定義はない。
感覚的なもので、人によって違うだろう。
それに、それは一つの形にとどまるものではなく、うつろうモノなんだろう。
時にワタシが抱く「彼ららしさ」のイメージを、一方的に押し付けてしまうことがあるが、それはとんでもない間違いだってことを彼らは嫌というほど、ワタシに教えてくれる。
細かな色を重ねていた人が、ある日まったく筆をとらなくなり、机のあいだを往ったり来たり、部屋を飛び出して姿を見せなくなったりする。
きょうは雨雲が近づいているから、絵の具よりも色鉛筆にしようとか考えていると、大量の絵具を紙に盛り上げ、意気揚々と線描をしていたり、突然手を洗い出して止まらなくなったりする。
で、最近は「自分らしく」って言葉に惑わされず、その時々をどう心地よく過ごしているかという一期一会的な活動に重きを置いている。
これがまた難しい。
フェースは色や線を使って、何かを表現するスペースなので、目や手や心や頭を使って線を描いたり、紙をちぎったり、色を混ぜわさせたり、いろいろなことをする。
そこにはルールはないので、生まれてきた線や色とどう付き合うのかは一人ひとりに任されている。でも、任されているといったって、一人でその活動が生まれることはまれだ。何らかの働きかけが必要なのだ。
「きょうは、大きく野菜を描いてみようかあ」とか「歯ブラシと眼鏡と洗面器でどんなシュークリームが生まれるかなあ」とか・・・自分でもわけのわからないことを口走ったりする。
それこそ、その時々の言葉はワタシの心身の状態によって変化する。
そんな理不尽なワタシの要求に彼らは反発して、虫のいっぱいついた花を描いたり、想像力を刺激されて、シュールなハンバーガーを描いたりする。
そこには結構、一期一会的な熱いやりとりがある。
互いに刺激され、そこでしか生まれないエネルギーが渦巻きはじめる。
その格闘?の痕(跡)を、ワタシたちはもっともらしく“表現”とか“作品”なんて言葉で呼ぶのだけれど、彼ら(仲間たちやモノたち)はそんな訳のわからないレッテルを必要とはしていない。
彼らは毅然としてる。
どんな時も彼ら自身である。
かっこいいのだ。
で、フェースの時間はワタシにはますます大切になってきた。
フェースの時間が近づくと、ワタシは仲間たちの表情や手の動きを思い浮かべる。
雨の日には、心騒ぐ不安な眼差しを想う。
風の日には、見えない音を追って、震え始める緊張した足のリズムを想う。
春の日の抑えきれない身体のエネルギーが漂う空間を想う。
それでいいんだよ・・・とワタシは彼らに伝えたい。
そして、そっくりそのまま、その言葉をワタシ自身に返したいのだ。



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2014/04/25

Vol.181 夜の雨



フェースが終わった夜、雨の中を自転車で走り、体調を崩した。
雨には普段と違って、粘りつくようなつくような重さがあったのに、気にせず走ったのが間違いだった。
身体の中にしみ込んでくるような暗さがあった。
細かな雨で、薄い合羽の下に入り込み、水中で空回りしているように手足に疲労感が募ってきた。
途中で、これはまずいぞと思ったが、もう引き返すには遅すぎるという投げやりな気持ちに押されて走り続けたのだ。
住宅の街灯が消え、人気のない川岸に出たところで、風にあおられた。
気づいた時には倒れていた。
向こう岸に河岸工事の赤いライトがともり、そこだけ雨がひっかき傷のように光って、闇に浮かんでいた。
ゆっくり雨音や風の音がよみがえってきた。
それから、含み笑いのような音が断続的にきこえるのに気づいた。
目を凝らすと、水際の工事現場には土嚢や鉄板が積み上げられ、それを覆ったシートが風にあおられ揺れているのだった。
「もう少しだべ」
「そっちに体重をかけてみろ」
「おめえが飛び込めばいいんだべ」
なにやら懐かしい声がきこえてくる。
「ホントに今夜、やるのか?」
「いつやるの?いまだべ!」
思わず笑ってしまう。
強くなってきた雨の中にざわついた気配が濃くなる。
それからとつぜん暗い川面から大きな黒い鳥が飛びたったように、シートが闇に舞い上がった。
かん高い金属音やガラスの割れる音が河岸から聞こえた。
積み上げられていたゴミの山がくずれたのだ。
自転車やいすや洗濯機がまっくらな水面になだれ込んでいる。
「ヤッタ、ヤッタ!」
「さあ、どこまでも行くべ」
「音楽だ!パレードだ!」
ブリキのバケツが音を立て、ねじまがった三輪車のペダルがくるくる回り、小さなボールは水面をジャンプしている。
「解放だべ!」
「いいんや、アナーキーだべ」
「海まで、まっすぐいぐべ」
捨てられたゴミたちは、くちぐちになにやら言い合い、川を下っていく。
雨は未明まで続いた。
ワタシは発熱し、咳き込み、身体の中をあの不思議なパレードが下っていくような感覚に囚われた。
河口に出たゴミたちは、そのまま海の中を進んでいくのだろうか?
熱に浮かされた浅い眠りの中で、繰り返し、そんなことを想った。







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