このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2014/05/30
Vol.190 フェースを巡る対話 2/フェース時間
「前から聞きたいと思ってたんだけれど、フェースって何をするところなの?ただの絵を描く教室とは違うよね?」
「フェースに来る人はいろんな想いを持ってきてると思うよ。絵を売ってお金を稼ぎたいと思ってる人(笑)もいれば、ボクも含め仲間がいるから来てるとか、日常の時間から解放されたくて来てるとか、とりあえず描くのが楽しいからとか・・・いろいろ。ボクはフェースで出会った仲間たちと一緒に年をとりたいと思ってる。」
「それって何なの?普通はここはこういうことをするところですって結構明確にしなければ人は集まらないじゃない。そんなに曖昧でよく続いてるなあ(笑)」
「ん、そうなんだよねえ、もう二十年続いてるよ。よく分からないから続いているのかもしれない。日常生活のなかでいろいろな想いを抱えた仲間がフェースでは、それらと関係なく受け入れられる。自分でいられる。そんなスペースなんだよね。ボクも含め仲間たちの生きる時間の一つになってる気がする。」
「でも絵を描く技術を教えたりもしている・・・」
「そうね、ボクは描くことを通して自分でいられることの楽しさを発見してほしいと思っている。作品のクオリティーをあげるために仲間に表現の技術を見つけようとしているんじゃないよ。本当の表現はその人がその人であることを実感できる快楽なんだと思うよ。その人らしくいられる技術=快楽を見つけるのはそんなに簡単じゃない。試行錯誤しながら何年もかかる。ほとんど失敗になるんだけれどね(笑)」
「それって、いま流行のアートセラピーみたいなものなの?」
「セラピーって、そんな仰々しいものじゃないよ。何かを癒やすために描くんじゃなくて、ただ快楽、描いてることが楽しければいいんじゃないか。普遍化できるセオリーもルールもない。セラピストなんて必要ない。一人ひとりが発見するもの。ボクはそれに付き添ってるだけ。音楽とかダンスとかスポーツとか何でもいいんだけれど、ボクができるのはアートしかないからね。」
「何がフェースの一番大切なものだと思ってる?」
「それははっきりしている。硬く言うと、描くという表現行為を通して自分らしく過ごせる時間をもてるかどうかだと思ってる。別の言い方をすれば、描くことと自分の生きている時間が重なり合うこと。だから、フェースは何もしなくてただリラックスするための場所とは違う。
ボクは仲間たちに働きかけ、描くという行為を引き出そうとする。描くことを強いられているようなプレッシャーも仲間にはあるだろうと思う。ただボクはフェースの時間、全部が描くという行為にならなければいけないとは全く思っていない。
『フェース時間』ってボクはひそかに呼んでいるんだけれど、描く時間は仲間によってそれぞれ違ってて当然だと思ってる。中には、一瞬か二瞬か三瞬、ほんの少しの時間描いて、後はポテトチップスを食べたり音楽を聴いていたりという仲間もいるけれど、それが彼の『フェース時間』。それでいいんだと思ってる。」
「それが生きていることと描くことが重なり合うってことなんだね?『フェース時間』って考え方も面白いね」
「頭で理解するものじゃない。その一点さえ分かってくれれば仲間たちとボクは描くというところで人生を共にできる(笑)」
「あなたが大変だと思うことなんかないの?」
「そりゃあ、あるさ。でもこれは喜びに直結しているんだけれど、一人ひとりの表現をどう引き出すかということ。表現ていうのは固有のもので、何か画一的なやり方で生まれてきたりはしない。どうしたら、それは現れるんだろう?絵を描くことでも、その人が一番描きやすい方法が見つかれば描くことが快楽になる。いつも、その一番描きやすい方法を仲間と一緒に試行錯誤しながら探している。」
「あなたの言う、『仲間との二人三脚の旅』だね?ところで、作品についてはどう考えてるの?最近、フェースの作品を社会に紹介していこうって動きが強くなってる気がするけれど。『くすくすミュージアム』もそうだし、一連の作品展や絵本化の動きもそうだけれど。」
・・・・フー、またまた長くなってきたので次回に継続!ごめんなさい!
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2014/05/27
Vol.189 フェースを巡る対話 1
フェースの仲間たちの絵を使った絵本作りの相談のために、一人の編集者に会った。話はフェースの活動や表現の本質的な内容にまで広がり、刺激的な時間を持つことができた。
このコラムを読む皆さんと共有しておきたい内容でもあるので、かいつまんで報告したい。
「オレはね、フェースの人たちの絵には驚くんだけれど、それを手元に置いてみていると飽きてくる。ピカソやクレー、ゴッホは飽きないんだよね。なぜなんだろうと考えると、絵が持つメッセージ性がないからかもしれない。二つとも生命力の強さのようなもので描かれていて、それはまっすぐ心を打つのだけれど平板な絵だとすぐに飽きる。でも、ピカソの絵には何かを伝えてくる深みのようなものがある。別にピカソの権威に追従しているわけじゃないよ、絵として並べてみるとそんな違いがある気がする。」
「人それぞれだから、感性の違いと言ってしまえばそれまでだけれど、何かのメッセージを伝えようとしてピカソやゴッホが絵を描いていたのかというと違うかもしれないよ。何かを伝えようとして描かれた絵はかえって表現の根源的な力を失う気がするよね。」
「じゃあ、ゲルニカはどうなのよ?」
「ん、んんん・・・ボクがゲルニカの絵に感動するのは、戦争の悲惨さというテーマじゃなくて、そこに生まれている線や色彩の強さ、表現に突き進んでいくピカソの姿なのかもしれない。それを表現のメッセージ性というならわかるよ。でもそれはフェースの仲間にもある気がするんだよね。」
「フェースの人は、画題なんかは自分で決めてるの?あなたが決めて描かせているんじゃないの、描き方も含めてさ。」
「画題を自分で決める人もいれば、決められないでボクの言葉を待ってる人もいる。できれば自分で決めて描いていって欲しいんだけれど、現実にはそうはいかない。描き方も同じ。何年もかけて、仲間が一番描きやすい(=描くことの楽しさを実感できる)方法を探し、それを繰り返し、しだいに彼らしさの表現に辿り着く。作品はその過程で生まれているモノ。だから平板的で、深みがないというのは当然あると思う。作品として未完成であるということかもしれない。永遠に未完成のまま終わってしまうかもしれない(笑)」
「それって、あなたがいなければ、フェースの作品は生まれなかったってことじゃないの?あなたが介在して、それを仲間の作品って言えるの?」
「ボクはそれを仲間の作品と呼びたい。確かに制作の過程でボクの介在があったとしても、線や色彩が仲間の手や耳や目や心を通って生まれたというのは決定的に大事なこと。仲間の存在がすべての前提。ボクの存在なんて、まわりに転がっている漫画やテレビや信号機と変わらないんじゃないかと思ってる。仲間は、ボクも含めて、いろいろなものをそこから受け取り、選択し、色や線に変換している。画題とか表現方法だって、同じ。つまらないと思ったら無視するし、面白そうと思ったら描きはじめる。ボクの情報も選択するものの一つでしかない。」
「それってきれいごとに聞こえるなあ?あなたはどこまでいっても彼らの先生で、彼らはあなたの言うことだから従っているという気もするけれど・・・」
「そういう側面は否定できない。残念ながら、出会いからして、仕方がないということもある。でもボクは、指導者と生徒という形で彼らとの関係を作ろうとは思っていない。できればそこに一緒にいて、一緒に年をとっていっている人でいたいと思っている。彼らが描いている時いつもそばにいる人でありたいと思ってる。彼らの手の動かし方や目線やイライラや喜びをそばで感じながら、こうしたら面白いんじゃないとか○○を描いてみたら?とか好き勝手なことを言っているオジサンでありたいと思ってる。」
「じゃあ、あなたのやってることは指導じゃないんだ。身の回りの情報の一つで、選択するのは彼らっていうことね?でもあなたの書いた『アートびっくり箱』なんて、明らかに指導書でしょう?」
「そうね、あれは指導書。そのつもりで書いた。でもあの内容は彼らがボクに教えてくれたものをまとめたもの。きれいごとに聞こえるかもしれないけれど、あの本を書く段階で、ボクの意識は彼らこそがボクの先生なんだという風に変わった。で、いまは互いにセンセって思ってるところがあるかもしれない(笑)。」
・・・・ああ、長くなってきた!でも投げ出さないで!次回に持ち越し、ヨロシク!
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2014/05/23
Vol.188 みち
どこにもない道がある。
その道を行けば、まだ誰も足を踏み入れたことのない場所にたどり着く。
誰も見たことのない世界を見ることができるかもしれない。
そんな道を探して、もうずいぶん時間が流れた。
流れた時間の量に比例して、その道は近づいているのかというと、そんなことはない。
何かの契機でいつのまにか歩いている道が、その道につながっているかもしれない。
そんな淡い期待を捨てきれず、日々を送っているだけだ。
ずいぶん昔、北極圏の上空を時間をさかのぼるように飛んだことがある。
緑色のオーロラや一つの線になって横に流れるオレンジの光の川を小さな飛行機の窓から覗いていた。
時間が逆流しているような感覚に、あの鮮烈な光の川こそ、どこにもない道だったのではないかと思ったりする。
篠つく雨の中、スモーキーマウンテンと呼ばれるゴミの山をスラムの子供たちの手に導かれ登ったことがある。
地中深く燃え続けるゴミの煙と激しい雨に包まれた滑りやすい道は、そのままアジアの空に続いているようだった。
もしかしたら、あの泥濘の道もどこにもない道に連なっていたのかもしれない。
はるかに時が流れると、分かる。
どこにもない道は人生の節目節目に、その口を開くのかもしれないと。
あの時、そのまままっすぐ進んでいれば・・・、そんな苦い感傷に囚われる。
いま、ワタシが歩いている道は、ワタシの信じる道だ。
ワタシの足先に道はない。
それは、どこにもない道に通じている荒野かもしれない。
それは、昔見た北の光の川でもアジアの泥濘の道でもない。
いま、ワタシはワタシ一人ではない。
進む道を失ったあの頃の孤独なワタシではない。
道で出会った仲間たちがワタシの身体であり、ワタシの心なのだ。
ワタシの歩く道には、フェースの仲間たちや辻堂のねこ達や青い石をもつカエルやねっこのルーティが行き来している。
彼らと共に歩んでいく。
それがワタシの選択のない道である。
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2014/05/20
Vol.187 フェース新元年?
昨年あたりから、なにやら感じていたのだけれど、
連中、ここに来ていたるところで顔を出し始めた。
ちょっとすごい勢いだ。
ざわついていたと思うと、不意に現れてそこにいる。
みんなシャキッと当然のような顔をしているのだ。
いまテレビで話題の外来種の昆虫や魚の話しではない。
フェースのもう一つの仲間たちだ。
例えば、このペンギンらしき人。
(ペンギンといっては失礼だし、人といったらもっと失礼かもしれないが・・・)
最初は小さな紙にTARO画伯がボールペンでサッサと描いたもの。
それを色彩の人、AKIRAさんがすっと取り上げ、じっくり色を塗っていった。
それが妙に存在感を主張し始めた。
何もかも見透かしてしまう強い真っ黒な視線で、青空らしきものを口先につまんでじっと立っている。
カラフルで明確な世界に生きているようだ。
足もとには食い散らかしたような貝殻?が点々。
もう何も言えない。
恐れ多くて、名前をきくことさえビビってしまうのである。
で、次は澄んだ青い世界をゆうゆうと移動しているこの人たち。
ローラーではがきサイズの紙に色をつけ、修正ペンで正隆さんがいろいろなものを描いている時に、いつの間にか発生していた。
形態からすると、かたつむりの変種かもしれない。
はじめて見た時から、耳の後ろがざわついた。
江の島水族館のクラゲのようなふわふわ、ゆるゆる感。
時々、じっとこちらを見る。
すると「なに急いでんの?」って言われてる気になる。
たまらないね。
ワタシにはカミさまに見える(笑)。
この人たちは、モンタージュアートの扉を開けたら一気に姿を現した。
羚羊の女子はコーヒーを飲んでくつろいでいたり、
いま流行のウエアラブル端末の眼鏡をかけた長髪のライオン氏はきどり、
詩人のようなヒョウの目を見開いて立ちつくしている人がいたり、
熊のおばさんは、酔っぱらっているのだろうか?
赤い顔をして、おっとっとと横歩き。
「Kissして!」って、迫っているお姉さんは、何やら魂胆ありそう・・・。
こんな不思議な仲間たちがフェースのいたる所で闊歩し始めているのだ。
こんな人たちがいたる所で顔を出し始めたら、私たちのあわただしい時間も変わるかもしれない。
今年は、フェースの世界で、何かが始まる新しい年なのかもしれない。
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2014/05/16
Vol.186 緑の雨
朝、雨戸をあけると雨の匂いが部屋に流れ込んできた。
補聴器を外しているので、雨の音は聞こえなかった。
目を凝らすと、光を編みこむように細かい雨が見えた。
手を伸ばし濡らすと、冷たい水の流れが指先に広がっていく。
身体が砂漠のように乾いていたのに気づく。
前日までは、強い乾いた南風が吹いていた。
容赦のない強い陽射しと時間に追われた移動は、気づかない内に心身を砂に変えていく。
五月に入り、ワタシは手足を砂に変えながら、仲間たちとアートを続けていたのだ。
目を閉じると、仲間たちが待つフェースに移動する私が見える。
渇きに追われるように、画材の入ったカバンを肩にかけ、背を丸め、右足を引きずりながら移動する日々。
そんな孤独なキャラバンをいつまで続けるのだろう?
答えはない。
答えがないから移動し続けているのかもしれない。
その日は自転車で30分ほど走ったHさんの家でアートをやる。
出発の時間になっても雨は煙のように路地を流れていた。
仕方がない。
合羽を着て走りはじめる。
雨が身体を包む。
林の中を走ると緑の雨になる。
繁茂し始めた木々の緑が濃淡の波になる。
そこを走っていると、自分も緑の木になっている。
木が自転車に乗り、緑の雨の中を走っている。
緑の中に生命を分かち合っているみずみずしい実感が林の中に広がる。
これなんだよなと私は思う。
渇きがあるから、癒しがあるのだ。
それがキャラバンを続ける力の源泉なのだ。
フェースはオアシスのようにワタシの行く手に点在している。
広大な砂漠の中の小さな泉。
そこに集まるいくつもの生命たち。
緑の雨に濡れながら、ワタシもその生命の一つなのだということに感動する。
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