このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2014/06/17

Vol.195 ピカソを描くピカソたち



真夏日になった日曜日、武蔵小金井のシャトー2Fカフェというところでワークショップをやった。(実は6月7日から1週間で3回目のワークショップ!我ながら驚くね)
この日のワークショップは、ピカソの絵を16等分して、それぞれのパートごとに好きな色や線、模様を描き、合体して大きなピカソを描いてみようという試み。
題して「巨大ピカソに挑戦/だれでもピカソ」。
ちょっと長いので、略して「だれピカ」って呼んでいる。
シャトー2Fカフェのアートワークショップは、2月から始めて4回目なので参加メンバーも少しずつ固定してきている。4歳くらいから60過ぎのおじさんまで毎回「いやあ!お久しぶり!」って感じで集まってきてアートを楽しんでいる。
ワタシも、すっかり顔なじみって感じで、「おう、元気だった?」とか「きょうはピカソだよ!」って4歳、5歳の子どもに声をかける。
すると、ワタシの腰によじ登ってきて「ねえ、ピカソって何?」って聞いてくる。
「ん?ピカソ?キミが生きていく上で大切なものだよ。覚えておくんだよ」って真面目な顔で答えると「ん!」とまっすぐな目で受け止めてくれる。
そのとなりでお母さんがクククと笑っている。
小学4年生の女の子は「わたし、知ってるよ!友だちに私の顔はピカソだって言われるもの」って話に来る。見れば、ピカソの女性像のようにキラキラしている。
16人の参加者が集まったところで、絵のどのパーツを描くかあみだクジで決める。
あみだ作りをショウちゃんという女の子に頼むと、これがまた横線を一杯入れて複雑なくじを作る。決めるのにたっぷり時間がかかるけれど、これもまあワークショップの予想外の面白さなんだろう。
パーツが決まると、16等分された原画の小さな紙切れを手に持ち、それを八つ切りの画用紙に大きく描き写す作業に入る。
「きょうは床の上にみんなで輪っかになって描きまあす!」というとみんなもうあたりまえのように新聞紙を敷き、ドカッと座って描きはじめる。
指で描いたり、チラシを破って貼ったり、色鉛筆と絵の具を使い分けたり…一人ひとりがそれぞれのやり方で描いていく。すごいのは小さな子ども達も絵筆や大きな刷毛を持ち、大人と同じペースで描いていくことだ。
その真剣なまなざしがたまらない。
もしかしたらミニピカソじゃないかと思ってしまう。
大胆な線と色が走り、描くんだという意思を感じさせる。
ここでは大人も子どもも対等で、うまいとか下手とかいうことよりも楽しむことが大切なんだということを体中で理解している。
この子たちがアートワークショップをこのまま5年も続ければ、とびっきりのワークショップが生まれるんじゃないかと思う。
ピカソだよ、ピカソが芽吹いているよ・・・とワタシは嬉しくなる。
さて、それぞれのパーツが描き終わると、いよいよ絵を組み合わせる。
壁には貼りきれないので、床に並べていく。
おお、こりゃアートだよ!
ピカソもあーと驚くアートが生まれている。





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2014/06/13

Vol.194 おしゃべりな森(アートワークショップ)



6月7日、記録的な大雨が降った日だ。
そんな日に、鎌倉のあじさい寺(明月院)の裏にある今泉台という住宅街で、「おしゃべりな森をつくろう!」というアートワークショップをやった。
ワークショップの目的は、鎌倉でも古い大規模な住宅地である今泉台の旧世代の人たちと新世代の人たちがアートを通して交流し、新しい流れを作る切り口にしたいというもの。
この日のために、商店街の人たちや「すてきな毎日」という住民グループや横浜国大の学生たちは、湘南アールブリュットの作家たちの作品を展示するギャラリースペースを作ったり、休業していた店舗を一年間無償で提供してもらい、自由な活動のためのスペース作りに取り組んでいた。
そうした取り組み自体が十分にワークショップなのだけれど、そのスペースを使って、いろいろな人たちに呼びかけ、アートワークショップを楽しむ。その最初の取り組みなのだ。
それが記録的な大雨の日になった!
人が集まらないかもしれない。もしかしたら2、3人?
でも、何人であろうと、参加した人たちとアート活動を通して楽しみ、心を重ねあう時間がつくれれば成功なのだ。そう思うと、降り続く雨もなんだか輝いて見えた。




時間が来ると、スペースには人があふれた。
3、4歳の子どもから80前後の先輩の方々まで、何が始まるんだろうという顔をして集まってきたのだ。(作品展のオープンの時に会ったアルツハイマーを患っているKさんもご夫婦で参加されている!)
もう挨拶は抜きにして、さっそく活動開始!
それぞれが布きれを手に持ち、大きな紙の周りに3グループになって集まり、直接、紙に垂らした絵の具を水で広げていく。(グループがいつの間にか自然に3つに分かれている!ワタシはひそかに、きょうのワークショップは成功だな!と確信する。)
白い紙の上に草色や黄色の波が重なり、風のように小さな手や大きな手が交叉していく。
紙の上の空いたスペースを目指して、手が移動し、「こんな色になった!」とか「その絵具をここにも出して」とかいろいろな言葉が往きかう。
「すごい赤の動きだねえ!」とか「虹みたいだなあ」とか思いつくままの感想をワタシはトドみたいに天井に向かって吹き上げ、三つの机のまわりを回遊する。
色が乾くと次は色鉛筆で木を描く。最初は三角形の型紙を使ってクリスマスツリーのような木を描く。「一人10本描いてくださあい!」叫ぶと「ええ、そんなに・・・」とどよめきがおき、でもすぐに肩を寄せ合い、黙々と描きはじめる。
紙の上を散乱した色鉛筆が転がり、いくつもの手が伸びて消えていく。
森の形ができたところで、今度は道を作る。チューブで線を引き、それを指でのばしながら描いていく。池が生まれ、川が流れ、雲が降りてきて・・・いろいろな森が現われてくる。 「いやあ、暑いよ!汗がすごい!」至ることで笑いやおしゃべりが始まっている。
「次は吹き出しを貼って言葉を書いていきましょう!」みんなの動きが波のように滑らかになっている。(そうなると、もうワタシの出番はない)
「おかえりー、きょうはシチューだよ!」「いまからお出かけよ。きれいなお水があるかなあ?」「ボク、お友だち、さがしてんのー」
いろいろな言葉が森に響きあう。
いろいろな物語が森に生まれる。
そして最後に、森の中に隠した宝物を探して、ワークショップは終了!
「カラダが暑くなった人はいますかあ?」って聞くと、たくさんの手が上がる。
「それは心が熱くなったんですよ。部屋の中には、やわらかくなった心が一杯あふれてますね」そんなことを言うとみんな笑顔になってうなづいてくれる。
帰りの雨の中、ワタシは思うのだ。
「おしゃべりな森」は描かれた森がおしゃべりをするんじゃなくて、森を描いているみんながおしゃべりするんだよなあ。
あのスペースに集まった人たち、みんなが木なんだよなあ・・・と。





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2014/06/10

Vol.193 いまなら分かる…



若い頃からずっと心のどこかにほつれた結び目のようにひっかかっていたものが、ある日、そういうことなんだと解けるように、受け入れることができる。
長い時を生きていると、そんな瞬間が訪れるようになる。
海辺を歩いていて、蹴りあげた小さな石が、何年も探していたメノウやヒスイだったりする。
そんな時のときめきや喜びと似ている。
最近、そんな気持ちになったのは、宮沢賢治の「春と修羅」第一集の序文だ。
例の、「わたくしという現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」という有名な言葉でつづられた58行からなる詩とも散文ともつかぬ序文だ。
気になりながら、はっきりとした意味も分からず、川の浅瀬を歩きつづけるように、足裏に何かを感じながら人生を過ごしてきた。
それが先日の昼下がり、読み始めたら、すいすい序文の流れに泳ぎだすことができた。
それは、粗削りの板に刻み込まれたような言葉だ。
フェースの仲間たちの作品のように、まっすぐに原稿用紙に刻みこんだ言葉なのだ。
賢さん、27歳のあなたは、そんな言葉でしか書くことが出来なかったんだよなあ。
選ぶことはできなかった。
そういうことだよなあ・・・
ワタシは、若い賢治に呼びかける。
「風景やみんなといっしょに/せわしくせわしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/」
賢さん、刻まれた言葉は、わずか10年という残り短い期間を燃え尽きるように生きたあなたを象徴する宣言だったんだねえ。
あなたは、因果律に縛られた哀しい世界中の交流電燈の青い灯りの一つとして、
「いかにもたしかにともりつづける」そのような生きる確かな生を願ったんだねえ。
賢さん、27歳のそんなあなたに比べ、54年後の27歳のワタシは東京の港区の保育園内に設けられた小さな仮教室で身体の不自由な子どもたちと日々を過ごしていた。
目の前の子どもたちに何が教えられるのか、自分はどんなふうに生きていきたいのか、何もわからないままに日々をけだるく流れていた。
ワタシは何につまづいていたのだろう?
いまなら分かるような気がするよ。
ワタシという意識そのものが、つまずきの石でしかなかったことがね。
明滅を繰り返す地球という灯りの中の小さな一つの現象でしかないことがね。

(ひかりはたもち その電燈は失われ)
賢さん、
あなたが祈りのように願った光は
あなたの青い電燈が消えて91年が経った今も、
ワタシたちを照らしているよ。





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2014/06/06

Vol.192 フェースを巡る対話 4/フェース絵本の可能性」



「新しい可能性?そんな大それたことを考えてるんだ(笑)」
「ま、走り出すための意気込みだよ(笑)。実際は、できることからチマチマ。ボクはいつもそうだけれど、大きくはしない。いつも小さくやる。でも、そういう大それた考えっていうのがあるから、やってみようかって気持ちになる。」
「で、例えばフェース絵本ではどんなことをやろうとしてるの?」
「ボクはね、今までにあるものを作ったって仕方がないって考えてる。どこにもないもの、見たことがないものを作るっていうのが目標ね。フェース絵本っていうのは、フェースの仲間たちとフェースには直接来ないけれど、いろいろな支援をしてくれている仲間たちとが絵本作りという時間を共有することで関わっていくスペースとして考えている。
フェースの仲間と直接的な関わりは持てなくても、作品と出会い、それをもとに物語を想像し、いろいろ仲間たちの絵を組み合わせてもう一つの絵を作り、本に仕上げていく・・・そんな工程で生まれる一つの創造的な共生の空間。」
「何だかよく分からないけれど、一人の絵だけじゃなく、いろいろな仲間の絵を使い、いろいろな人が話を作ったり、絵を合成する。それも知らない人同士が、それをやる。そういうこと?」
「そうね。人と人、想いと想いをつなぐのは仲間たちの絵ということだね。いままでも障がいのある人の絵本っていうのは、いくつも出されてきたけれど、それは一人の作家の絵を使った絵本。でもフェース絵本は、できるかぎりみんなの作品やアイデアを使って絵本を作る。
たまたま、フェースofワンダーっていう幾つかのアートスペースにいろいろな仲間が集まってきて絵を描いている。仲間達って言ったって、スペースごとに違う人が来ているので、互いに顔を知らない。ボクだけが知っているにすぎない。絵だけは『くすくすミュージアム』に紹介されて、それを見ている人は知っている。それをつなぎ合わせて、こんどは絵本という世界を作ろうとしているわけなんだね。作る側も読者層も架空の関係にあるにもかかわらず、一冊の絵本が具体物として創造される。これは新しい可能性を秘めている。この時代だからこそできる、一つの実験なんじゃないだろうか?」
「じゃあ、絵本では仲間たちの絵は切り取られて、絵の素材の一つになるってこともあるの?それを組み合わせて絵にするのは、直接には仲間たちを知らない人ってこと?なんだか仲間たちの作品が軽んじられているというか、その存在感が全く別のものになるかもしれない不安があるね。」
「そういう風に考えるとできないですね。普通の関係性と同じと考えていいんじゃないかと思ってる。作品と人が出会い何かを創造しようとするとそれはそれまでの存在とは違ったものになるのは当然でしょう?多分より豊かなものになる。
ボクは仲間たちやまわりの仲間たちが対等になればいいと思ってる。絵を提供するのはフェースの仲間たち、それにインスピレーションを得て物語を提供するのは他の仲間たち、仲間たちの絵を合成して、物語の絵を描くのは、また他の仲間たち、それを電子書籍用に画像にしたり、製本したりするのは、また他の仲間たち。みんながそれぞれの得意分野で、絵本を作るための素材や力を提供し合う。
そんな対等な関係性で絵本作りが出来たらいいと思ってる。それを支えるのは、どこにもない絵本を作ってみたいという仲間たちのボラティア性だけ。損得勘定はここでは関係ない(笑)」
「ってことは、誰の絵本かわからないね。著作権なんかもどうなるんだろう?」
「それは絵本作りとは別の問題だよね。その辺りのことはこれからの課題。とにかく面白い絵本が出来ればいい。
でも、それがとても難しい。仲間たちの絵は個性が強すぎて、混じりあわないんだよね。一枚いちまいが強く存在を主張してる。
本屋に並んでいる、可愛くてきれいな絵本っていうのは、フェース絵本では難しいかもしれない。ごちゃごちゃ、ぎらぎらの神経を逆なでするような絵本になりやすい。それが悪いとは思っていない。絵本は可愛くてきれいなものというイメージが覆されてもいい。これが仲間たちの絵本なんだと開き直ってみてもいいと思う。
この絵を主人公に使おうって決めても、それを横向きや後ろ向き、座ったり笑ったりっていう、ストーリーに合わせた絵にすることは仲間たちには難しいから、内容面でもこれまでの絵本のイメージとは全く違うものにならざるを得ない。
金銭面でもそう。出版業界の採算に合わせた大量部数の絵本は無理。売れる絵本になるとは考えにくいから、5,6冊しかこの世に存在しない、本自体が一つのオブジェのような絵本になるかもしれない。
でも電子書籍にすることで、こんな時代にこんな絵本がこんな風に作られましたって、残すことはできるからね。とにかく難問だらけ。これがフェース絵本だって胸を張って出せる絵本はまだできていない(笑)」
「でも、やる?」
「そう、やる!」
・・・・フェースを巡る対話はまだまだ続くのだけれど、そろそろ息切れ。時を置いて、また再開します。お疲れ様!(笑)





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2014/06/03

Vol.191 フェースを巡る対話 3/作品とは何か?



「作品をどう考えてるかって?最初の時にも話したけれど、フェースの作品って言うのは、自分が楽しんだことの付属物みたいなモノじゃないかな。フェースで大切なのは描くという行為を通して自分らしくいられる時間を持つこと。作品はその結果生まれるモノ。
でも、面白いのは、そうして生まれたモノは、それだけで存在感を持つようになる。『ええっ!これ君が描いたの?』って問い直したくなるような作品がどんどん生まれてくる。
仲間たちは、これが自分の描き方だと確信すると、技術的にもどんどん進歩していくんだよね。
最初は、仲間をとおして作品を見ているんだけれど、手元に置いて何日も見ていると仲間たちの姿が消えて、線やタッチや形や構図なんかの面白さが浮き上がってくる。で、これはクレーだよなあとかフランシス・ベーコンもびっくりだよなあとか独り言を言っている(笑)。」
「俺なんか、彼らの作品に最初はびっくりするけれど、やはり見飽きちゃう。ピカソと比べたら申し訳ないんだけれど、やはり深みが足りない。」
「そんなに仰々しく考えなくていいのじゃないですか。求めすぎない。身の回りにあるささいな出来事、心を打つ小さな美しいモノの発見、そこに驚きや喜びやなぐさめを見出す。それが生きていることの極意じゃないですか、先輩!(笑)」
「なるほど、フェースの人たちの作品って、そういうものを見つけるきっかけにもなるかもね。芸術っていう感じで構えすぎてたのかもしれないな。」
「ゲージツねえ。ITの技術っていうのが、これまでの芸術を根底から覆したって、ボクなんかは思ってるんですよね。美術大学で教えていた技法、表現が全部パソコンで短時間にできるようになった。3Dの彫刻もそう。画壇に囲われていた芸術家の権威が一気に崩れた。昨年からの日展の審査にかかわる金銭スキャンダルなんかも、その中で顕在化してきているんだと思いますよ。
真に創造的なものは何か?それがもう一度問い直されている。芸大の先端芸術学科なんかもIT技術を組み入れたインスタレーションが主流になってきている。大きな美術館が仲間たちのようなアールブリュットの作家たちの作品を取り上げるのも、その流れでしょう?
ボクは、それを当然だと思ってる。仲間たちの小さな作品は、そんなことも考えさせてくれる。」
「これまでのような専門家による技法や権威よりも、生きていることに勇気や喜びを与えてくれる身近な作品、生命力をストレートに感じられるような作品が求められている。そんな時代ってことかなあ?」
「かもしれませんね。『アートびっくり箱』だって、特別支援教育の先生だけじゃなく、美大の学生たちも買っていく。仲間たちの作品に何らかのアーティストとしての刺激を感じるのかもしれない。」
「そんな背景があるから、フェースの人たちの作品を世の中に押し出していこうと思ったわけ?」
「ITの登場が、仲間たちの作品を世の中に広げていく追い風になっているのは確かだと思う。あなたが生命力って言ったけれど、技法や技術に関係なくストレートに表現される仲間たちの作品がIT文化という科学最前線の流れの中で脚光を浴びるのは一見不思議な気がするけれど、対極にあるからこそ注目を浴びているのだと思う。
すごいスピードで進んでいく科学技術の流れの中で、人間という保守的でひ弱な感情、感性をもった存在は、これまでも科学と対立しながら、どこかで共存の道を見つけてきた。そんなしぶとい生命力も持っている。それが新しい世界を創り出してきた。
今も同じような混乱と革新が進行形の形ですすんでいる。
仮想美術館『くすくすミュージアム』や絵本を作ろうと思ったのは、時代がそれを可能にしているから。それは時代の一つの可能性なのかもしれないと思ってる。」
・・・・いよいよ核心(かな?)。次号、乞う期待!





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