このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2014/07/22
Vol.205 風を通す
梅雨の終り、
久しぶりに伊豆の家を訪れた。
風を通すためだ。
苔の生えた石段をのぼり、色褪せた木の扉を開ける。
やわらかな闇とかすかなカビの匂いが玄関に流れ出してくる。
それに包まれると、
ボクは還るべきところに還ってきたような気持になる。
暗闇に目が慣れてくると、
閉ざした雨戸の隙間や小さな節穴から、
まっすぐ光が射しこんでいるのが見える。
木の床には、いくつもの陽射しが波紋のように揺れている。
それは薄闇に浮かびあがった静かな池のようだ。
ボクはその水面を渡り、雨戸をあける。
乾いた雨戸の走る音。
光が流れ込んでくる。
青に満たされる。
遠くの海と天城の空の青に染まる。
風が抜けていく。
聞えないボクの耳にも
鳥の鳴き声や虫の羽音が流れ込んでくる。
うっそうとした草木の中で、
うずくまるように、
眼下の森や海の輝きを見ていると、
雨戸をあけるということは、
ボクの心を開けるということなのだ、
ということに気づく。
還るべき家に風を通すということは、
ボクの生きていく道を
風に教えてもらうことなのだ、
ということに気づく。
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2014/07/18
Vol.204 ずるずる、いきたいね
時々、仲間たちを卵のように思うことがある。
なま卵ね。
殻を割った時、椀の中でプルンプルンと揺れている、
あの感じ。
盛り上がった黄身の上で踊っているつややかな光、
ちょっと、指で突いていみたくなるね。
それで、黄身がやぶれたら、
しょうゆでもかけてさ、ずるずるとすすってみたい、
あのちょっと、だらしない誘惑。
彼らを見ていると、
人生で大切なのは硬いものじゃないんだってことが分かる。
こうあらねばならないといった頑ななものや力じゃないんだということが分かる。
それは、ほっとするもの。
どんなものも包み込んでしまう、だらしなくて、やわらかなもの。
口元で噛みしめている悲しみや悔しさや絶望も、いつかは溶けていく。
ケ・セラ・セラって歌があったね?
そう、なるようになるさ、先のことなどわからない・・・
「あの感じでいけばいいじゃない」
仲間たちはぜい肉のつきはじめたおなかやおしりを揺らせて、
いつも、そんなふうに歌ってる。
長新太って知っている?
「おしゃべりなたまごやき」とか「キャベツくん」なんかを描いた絵本作家。
ゆるゆるくねる線で描いた象とか地平線とかゴリラとかと一緒に、
もう向こうの世界にいっちゃった先輩なんだけれど。
でも、長さんはやっぱり仲間たちの路地裏にいまも住んでるんだよね。
すりへった下駄をはいてさ、
ぶかぶかのズボンにタオル、ぶら下げ、
歯ブラシ持って、ぶらぶら歩いている。
面識なんかなくてもさ、
出会えば、雑草の生えた側溝に二人並んで座り、
黙って空を見上げている。
会いたくてしかたがなくなるね。
仲間たちも長さんも、
何にも言わないけれど、
「ま、ずるずるいきなさいよ」って、
あつあつごはんに
生卵を落とした椀を差し出してくれているような気がする。
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2014/07/15
Vol.203 手
世の中には美しいものは一杯ある。
でも、その自在な動きやそこからうまれてくるものにも目を奪われてしまう。
っていったら、そんなにあるものじゃない。
で、ボクはそれを記録しておこうと、
写真を撮ったりするんだけれど、
成功したためしはない。
それは、たぶん、
それが本当に美しいからだろう。
その存在を、
一瞬のスキャンで記録しようというのが所詮無理なのだろう。
それは時々、透明な炎に包まれたり、
青い石の結晶のように固まったり、
水のように流れ出したりする。
それから、
遥か昔の記憶を求めて、遠くへ旅するし、
憑かれたように、長いおしゃべりをはじめたり、
火のまわりでジャンプしたりする。
そんな風にして、
それはいろいろなものを運んでくる。
あるいは、運んでいく。
終りのない物語や
変化し続ける色彩や線や形を。
足下の深い地中や
未明の星空から
それは、
いま生きているものや
過ぎてしまったものや
これから生まれてくるものが、
みんな、つながりあっていることを
ボクに教えてくれる。
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2014/07/11
Vol.202 台風が来る
猛烈な台風が沖縄や九州を通過しているニュースが何日もテレビに映っていると、
それだけで疲れてしまう。
倒れた街路樹や土砂災害で流されていく家々、ねじまがったフェンスや自転車、水につかった車、河岸を削り取っていく濁流・・・。
日常がいとも簡単に壊されていくシーンが身体に突きささる。
鴨長明じゃないけれど、無常観に襲われる。
元来、一カ所に定住するのが苦手なワタシは、いまも山とか海辺の小さな隠れ場所を往ったり来たりして、どうにか生き延びているのだけれど、
そこは一年に何回かは猛烈な太風に襲われる場所なのだ。
台風が過ぎた朝に海辺に行くと、見渡す限り流木やゴミが散乱している。
数えきれない鳥や魚の死骸が続く。
山でもそうだ。
裂けた枝や草花の倒れた坂道に、虫たちの死骸が濁流の流れにそって続く。
見上げると、折れた木々の間から台風一過の青空がのぞいている。
そんな時だ。
方丈記の一節が浮かんでくる。
「知らず、生まれ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る・・・」である。
そんな感傷的な無常観に浸っていると、必ずそれを揶揄するものが現われる。
辻堂ねこ道のどこに隠れていたのか、例のアリと遊ぶねこが現われ、
こちらをちらりと見ながら、海辺を歩きだす。
上手そうな魚を探しているのだ。
奴にしてみれば、年に何回かしかないサカナ喰い放題の朝なのだ。
普段は海辺の観光客の弁当を狙って頭上を飛び交うトンビやライバルのカラス達もゆっくり並んで鳥や魚を喰っている。
彼らにも新鮮な生肉が供される貴重な朝なのだ。
そこでは、確かに死と生が表裏一枚の帯のようにつながっている。
彼らを見ていると、ワタシは奇妙な爽快感に浸される。
嵐の夜、生者である彼らと彼らの食物である死者とが入れ替わっていても不思議はなかったのだ。
たまたま、そうなったのだ。
そう、たまたま・・・。
それだけの話である。
「無常観とは爽快感、たまたま感なのですね?」
ワタシは、
いつか向こうに逝った時、
鴨長明先生にきこうと思っている。
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2014/07/08
Vol.201 小さな石ころの気分
今年も、もう半年が終わった。
終わったのじゃなくて、過ぎたのかもしれないけれど。
ボクには終わったという感じが強い。
というのも、今年を修行の年にしようと思っているからだ。
年をとると、どうしても現状に安住しがちになる。
安住の心地よさを壊すものには、守りの姿勢をとってしまう。
身体の切れは悪くなるし、心も感性も濁ってくる。
で、今年はそんな心身をリフレッシュさせる意味で、
これまでボクが一方的に信じているアートの力を試すことにしたのだ。
ボクにとって、アートの魅力は、いろいろな違いを越えて人を結びつける力があるということだ。
障がいがあるとかないとか大人とか子どもとか男とか女といった具体的な心身にかかわるものだけでなく、一人の自分であるために身にまとっている言葉とか民族とか宗教、政治といった衣装の違いも含めてね。
でも、そんな違いを乗り越えるって、本当に可能なのだろうか?
テレビから流れる世界の悲惨なニュースを見ていると、ボクの想いなんて足もとからぐらついてくる。
殺し合ってまで守ろうとする頑なな違いを越えるって、どういうことなんだろう?
それがボクの中で、憂いの種子になりはじめている。
で、『アートの力を実感する旅』に出たってわけ。
フェースの小さな世界を出て、一期一会的に出会った人々と、アートワークショップをやることにした。
小さな時間でいいから出会った人々と結び合う実感に触れたかったのだ。
武蔵小金井や鎌倉や藤沢でとりあえずやってみた。
すると、またやろうということになり、ボクも周りの人々ももう少し出会いを積み重ねていくことになった。
なんだか不思議な感覚。
足下の小さな石ころを蹴ったら、
それが池に落ち、波紋が水面に広がった。
そのゆるやかな広がりが、半年たった今も続いている。
(それがアートの力なのかもしれない。)
ボクは小さな石ころの気分だ。
偶然生まれた波紋に身をゆだねていると、
見えない水のつぶやきが世界中に広がっていく。
そんな気分になる。
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