このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2014/09/16

Vol.220 鉢巻をして描く青年



鵠沼海岸駅から少し歩いたところにある家に行くと、青年は緑色のタオルを頭に巻いて出迎えてくれた。
「きょうはここでJazzの絵を描きます。何時まで?」開口一番そういった。
彼にとって、その日は私と一緒に絵を描く日で、一定の時間が来れば絵を描く行為は終る。
その時間を知りたいのだ。それは、描くことが彼にとって苦痛なのではない。予定を知ることで納得して描く行為に向かいたいのだ。
それが彼にとって集中して取り組むための条件の一つなのだ。
彼の言葉は、わたしにそう伝えている。
「きょうは一時間描きましょう。このJazzの絵にアクリル絵具で色を塗ります。割りばしで塗りましょう。」
私は簡潔に、その日の活動を説明する。
すると、青年は首筋を掻きながら、突然立ち上がり、部屋の中を歩きはじめた。
「1時間です、COOOO、アクリル絵具で色を塗りますUUU、割りばしで描きますKUUU・・・」
ときどき不思議なオノマトペを言葉の間に挟みながら、私の言葉をテロップのように繰り返す。
それは嫌がっているのではなく、彼の確認作業なのだ。
私は青年の線が好きだ。
あらあらしく形に迫り、紙に刻みつけるような線・・・切羽詰まったように、叫びながら走りだそうとする線・・・そんな線群が美しいと思う。
Jazzの絵もそんな線で描かれていた。
「どんな風に色を塗るのでございますか?」
青年は奇妙な敬語でたずねてくる。
青年が割りばしで色を塗るのは初めてなのだ。
「パレットに色を出して、先っぽに色をつけてこんな風に塗るのでございます」
私は青年の口調をまねて、赤い色をJazzmanのジャケットに塗って見せる。
すると青年は私から割りばしをむしり取り、一気に粗い線で赤い色を塗っていく。
赤は、ジャケットの輪郭をはみ出し、周辺に飛び散っていく。
描きながら、青年のオノマトペがjazzyな音になって踊りだす。
「いいですねえ、いいですよお!」私は嬉しくなる。
青年の顔に笑顔が浮かぶ。
「いろんな色で描いてください。いろんなところにどんどん塗ってください」
私は声をかける。
「UUUU、いろんな色を塗ってくださいIiii!」
ひび割れた原色の色が黒画用紙に描かれたJazzシーンに広がっていく。
彼の色は盛り上がり、穿たれ、溝を作り、割りばしの軌跡を残している。
決して平たんではない。
それを見ながら私は思うのだ。
もしかしたら割りばしで塗る方法は彼にあっているのかもしれない。
それまで筆で塗っていた彼の色は、彼の美しい線を覆い隠していたのだ。
しばらくはこれで描いてみたらいい。
もしかしたら、彼は独特の彼の線を生みだすかもしれない。
そう思うと、かがみこむようにして描いている彼の姿が、板に目をくっつけるようにして線を刻んでいる棟方志功のねじり鉢巻きの姿に重なって見えた(笑)。






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2014/09/09

Vol.219 川のように流れていく



先週の金曜日、藤沢にある「太陽の家」という心身障がい者福祉センターでアートワークショップを行った。
太陽の家は1975年に開設した福祉施設で、しいの実学園という児童発達支援センターと藤の実学園という生活介助事業所、障がい者スポーツセンター施設(体育館)という3つのの機能を併せもった福祉センターで、藤沢の江の島海岸近くにある。
私の生活拠点の一つである辻堂海岸からも近い。
以前から太陽の家の存在は知っていたけれど、そこでワークショップをやるなんてことは思いもしなかった。
だから、「太陽の家で働く指導員さんや保育士さんたちとアートを楽しむ時間を持ってもらえませんか?」という申し出に、ボクはちょっと驚いた。
それから、なぜか「出会う時が来たんだ」という奇妙に納得した気持ちにもなった。
その日も暑かった。ワークショップは、夕方からということだったので、小田急線の本鵠沼という小さな駅に降りると、通りをゆっくり歩いた。
海辺の町は空が広い。
小さな店がポツン、ぽつん・・・江の島にも近いのだけれど、その喧騒はどこにもない。
松林があったり、お墓があったり、忘れられたような沼があったり・・・懐かしい風が吹いている。
ワークショップに集まってきたのは、指導員さんや保育士さんだけではなかった。栄養士さんや看護師さん、ボランティアさん、実習生、他の施設から来た人、子ども連れのお母さん・・・1日の仕事を終え、アートを楽しむためだけに、いろいろな人たちが集まってくれていた。
私は嬉しくなった。ここには、何かクリエイティブな可能性があるに違いないと思った。今回のワークショップで、みんながその存在に少しでも気づいてくれればいいと思った。
やったのは定番の「おしゃべりな森を作ろう!」。(もうなんども、本欄で紹介しているので、その内容はここでは省略)
机に広げた大きな紙に木々や小道、川を描いていると、みんなの表情が変わってくる。
絵具をつけた指先から一人ひとりの想いが流れ出している。
開放感や自由感に包まれていく。
日常の仕事関係を越えた会話や笑いが、いたるところに生まれてくる。
そんな姿を見ていると、私はやっぱりアートの力に感動する。
今回のワークショップは第1回目だけれど、これを積み重ねて行けば新しい可能性を掘り起こしていくことができるかもしれない。
アートを通して地域に開いていく道筋や小さな子どもたちと成人の利用者さんとの交流も可能にするかもしれない。保護者や地域の人たちを巻き込んだアート活動に広がっていくかもしれない。
それは、介護、支援する人―される人(利用者する人)といったややもすれば固定しがちな関係性から、一緒に生きるという新しい関係性にまで広がっていくかもしれない。
そんな想いが私の中に広がっていった。
ワークショップを終り、日暮れの町を歩いていると河口に出た。
海に流れていく川が、沖にまで広がっていた。








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2014/09/05

Vol.218 夏、君はどこに行ったの?



今年の夏は、何人かの仲間たちがフェースに顔を出さなかった。
ポツンと置かれた彼らの椅子に、仲間たちの不在が刻まれている。
見ていると、彼らの夏はどんな夏だったのかを想像してしまう。
せまく暑い部屋で、不眠に苦しみながら夜明けや日暮れに耐えている姿が浮かぶ。
崩れていく夏のほとりで、背を丸め、震えている君が浮かんでくる。
ボクは君にかける言葉を見つけることができない。
君の苦しさに届く言葉は、千億の言葉のどこかに存在するのだろうけれど、
ボクは、それを見つけられない。

君の不在の椅子の上に、君がのこした作品を置く。
移ろっていく午後の陽射しのようにひび割れていく点描や
海辺を吹き荒れる暴風警報のぐるぐる線や
分解していく世界の剥落した皮膚のような色彩や・・・・
走ったり、舞い上がったり、沈黙にもぐりこんだりした、君の姿がそこにはのこされている。
その記憶が不在感を一層深くする。
こんな作品をのこして、君はどこに行こうとしてるのか?

今年の夏は何十年ぶりという世界大の異常気象が続き、君が住んでいる街にも毎日のようにスコールのような雨が降っただろう。
地上を覆う不快な気圧の波が簡潔で繊細な君の日常を溶かし、もつれてしまった時間の網に囚われたままなのだろうか?
君は声を荒げ、疲れ、沈黙し、それから失踪者のように姿を隠した。
君の不在だけがのこった。
ボクは取り残された。

それでも夏が終わる。
秋晴れの路を辿り、君は戻ってくるのだろうか?
現われた君に、ボクはおそるおそる紙と色鉛筆を差し出す。
それから君に言うだろう。
「待ってたよ。君はどこに行ってたの?」






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2014/09/02

Vol.217 積み上げるワークショップ



武蔵小金井にあるシャトー2Fカフェで月1の定例ワークショップを行った。今回のテーマはダンボール片を積み上げるオブジェ作り。
ここのワークショップは街中のカフェの呼びかけなので、参加してくる人はお互いに知り合いなのかなと思うとそうでもないらしい。
顔は知っていても話をしたことがなかったり、ここで初めてであった人たちも結構いて、活動を始める前は何を話していいのか、なんとなくもじもじしてる。
でも、いざ始まると、糊やハサミなどを貸し借りしたり、素材を協力して作ったりしながら、少しずつぎこちなかった関係が溶けはじめる。
手を動かしていることがミソなのだ。
単純な手の動きには、不思議な魔力がある。
ひたすら動きに没頭していると、心がほぐれていく。
孤立感とか自意識とか、身にまとっていたかたくななものがいつの間にか流れ去り、身体があたたかくなってくる。
無理した会話もつくり笑いも必要ないんだということに気づく。リラックスした表情がみんなの顔に浮かぶ頃には、会話や笑顔は自然に現われたり消えたりしている。
そう、アートワークショップっていうのはスゴイのだ。
いつも感心する。
私がワークショップになぜ「アート」の冠をつけるかというと、アートが本来持っている何でもあり感・・・出来上がりの上手とか下手なんか関係ないし、どんなものが出来上がったっていいんだという自由感、年齢とか職業とか障がいの有無といった日常の壁を越える開放感・・・そんなものが制作過程から生まれてくることを確信しているからだ。
モノを作り上げる上げるために協同する目的達成型のワークショップじゃなく、過程で生まれる楽しさを共有する体験型のワークショップなのだ。
みんなで何かを作るのだけれど、時間内に出来上がらなくても全く問題ない…ここまでやったぜ!という満足感の共有があればいいのだ。(時間に追われるワークショップなんて、うんざりだね・・・笑)
今回の「積み上げるワークショップ」も面白かった。
2~3cmの大きさに切ったダンボール片を机の上に山積みにし、その周りで一人ひとりがその段ボール片を積み上げていく。
最初は何のアイデアも浮かばず、機械的に積み上げていくだけなのだけれど、それが少しずつ傾いたり、ねじ曲がってきたりすると、突如、隠れていた創造力が刺激される!
バランスをとるための長いダンボール片をつけてみたり、天使の羽のようなものを取り付けたり・・・いつの間にかみんなが周りに集まり息をひそめて見つめている。
そのハラハラ感、ドキドキ感!
「おお、崩れるぞ!」とか「もっと右だよ!それだと持たないよ」とかつい口走ってしまう。
立体のS字状に曲がったダンボールオブジェをつくったお父さんは「北斗の拳のイメージでしょう?」と悦に入っている。
ボクなんかは「ガウディの塔をみんなで作りましょう」といった手前、何とかそれらしくダンボールを積み上げるのに四苦八苦。それを見ていた女性がいつの間にか一緒に自分の作ってきた塔を持ってきて合体、すると常連のおじさんが「私もやろう」と壁を積み上げはじめる・・・。
出来上がったものを一カ所に集めると、個性的なオブジェが一杯。
子どもの作品も大人の作品も存在感を対等に主張している。
これだよなあ、これなんだよ。
私はこんなアートワークショップの時間をいろいろなところで積み上げていきたいと思ったのだ。






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2014/08/29

Vol.216 時はながれる



ワタシの好きな歌に金子ゆかりが歌う
「時は過ぎてゆく」(IL EST TROP TARD)というシャンソンがある。
疲れた時、
背負っているものを投げ出したくなる時、聴く。
歌の内容は誰にもある追憶や感傷を歌ったものだ。

眠ッテル間ニ 夢見テル間ニ
時ハ流レ 過ギテユク
子ドモノ頃ハ モウ夢ノ中
時ハ 時ハ流レ 今モ過ギテユク

深夜、灯りを落とした薄闇の中で
かすれた金子ゆかりの歌を聴いていると、
痛みや悲しみや悔恨が
よどんだ身体の中をゆっくり流れていく。

眠ッテル間ニ 唄ッテル間ニ
自由ナ時ハ 行ッテシマッタ
戦イノ中 傷ツキナガラ
時ハ 時ハ 今モ過ギテイク
ソレデモ私ハ 歌ニ生キル
ソレデモ私ハ 愛ニ生キル
私ハ唄ウ アナタノタメニ
時ハ 時ハ アマリニ短イ
眠ッテル間ニ 夢見テル間ニ
唄ッテル間ニ 時ハ過ギテユク・・・・

夏の終りの闇の底で、虫たちの鳴き声が聞こえる。
それは今年の虫たちの鳴き声なのに、
子どもの頃に聞いた鳴き声のように身体に響いてくる。
ワタシは目を閉じ
ランボーの詩の一節を思い浮かべる。
「ああ、季節よ、城よ、無疵なこころが何処にある」
虫たちの鳴き声は
仲間たちの線や色彩のように
聞えなくなった私の耳の中を這っていく。

今年も夏が終わる。






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