このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2014/10/03
Vol.225 二つの絵本
湘南Vividアート展が始まる。
作品展に行かれたら、ぜひ手に取っていただきたい二つの「絵本」がある。
一つは、オブジェとして展示されている「海辺の世捨て犬」(絵:原田裕輔)、もう一つは、蔵まえギャラリーの二階を借りて行っているアートワークショップのグループ「タキヲンの会」が制作した軽装本の「泣き虫タキヲの物語」である。
どちらにもワタシは製作段階から関わっているのだが、あらためて手に取ってみると言葉を失う。
二冊とも頁をめくるのに結構な抵抗感があるのだ。
ごつごつとした石のような違和感が生まれ、本屋で立ち読みするように、ぱらぱらと内容を追っていこうとする態度では、視線や思考は粉砕される。
しばらく手元に置いて、本というよりはモノとしての存在感に慣れる必要があるかもしれない。それからおそるおそるページを開いて、何度も紙面に視線を漂わす。
そんな風にしてなじんでいく本なのかもしれない。
いま日本の絵本出版業界を支配しているのは、「絵本は楽しくなくちゃいけない、子どもにトラウマ的な想いをさせてはいけないという社会通念・・・絵本では怖さがタブーになっている」(「MONKEY..vol3」柴田元幸)という常識だ。
そういった絵本界の常識からすると、二冊の本は失敗作ということになるかもしれない。
二つとも、孤独で不器用だ。
優しくてかわいい絵本があふれる書店の棚には存在する場所を見いだせないかもしれない。
でも、湘南Vividアート展という一つの岸辺で、この二冊は確かに存在している。
人々の手に触れられることを待っている。
そのことが大切なのだ。
ワタシはそこに時代に対峙する絵本の新しいオリジナリティや可能性をみる。
オリジナリティ?
この二冊の目指すオリジナリティって何なのだろう?
村上春樹はオリジナリティについてこんな風に語っている。
「同時代的に存在するオリジナルな表現形態に感応し、それを現在進行形で正当に評価するのは簡単なことではありません。なぜならそれは同時代の人の目には、不快な、不自然な、非常識的な・・・場合によっては反社会的な―様相を帯びているように見えることが少なくないからです。あるいはただ単に愚かしく見えるだけかもしれません。いずれにせよそれは往々にして、驚きと同時にショックや反撥を引き起こすことになります。」(「MONKEY.vol.3」139p)
不快・不自然・非常識・ショック・反撥・・・!
確かに、この二冊はそんな形容に値する(笑)。
で再度、春樹先生の言葉を頭に入れて、この二冊を手に取っていただきたい。
彼らのつぶやきや叫びが聞こえてくるかもしれない。
「ヤット、ココマデ来タノダ」
「希望ハ生キ延ビルコトガデキルノダロウカ?」
そんな声が聞えるかもしれない。
彼らはなにものなのだろう?
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2014/09/30
Vol.224 生まれる祝祭空間/湘南vividアート展
10月4日から始まる第二回湘南Vividアート展に作品たちが集まってきた。
予想を超えた数だ。
会場となる蔵まえギャラリーの展示スペースを優に超えているために、どんな展示ができるのか頭を抱えているが、集まってきた作品たちはそんなことに関係なく賑やかに身振り手振り、いろいろな言語で新しい出会いを楽しんでいる。
耳を澄ますと何やら難解・・・
Kamaboco katachikara
ん?O-Yes、Sax is my life!
オレンジがダンスしている朝の散歩で、
東山魁夷の森のくまさん、パプアニューギニアの人形に会う。
猛暑の潮だまりはメルヘンの世界よ。
アガメムノンの日没にのほほん井上有一は最後の晩餐だ。
シャイなピエロは早暁の忍野富士ですまし顔。
ほおづえをつく象は秋の小径を歩く。
泣くアマテラス(母)、
Cambodiaで四色雷紋のひなまつり
26年前に舞い降りた都市の地球和平交渉
ねえ、わたしじゃダメ?
金目鯛のVITAMINA
おめんをつけたpenguinのまばたき
赤い家のイスに座って、うーちゃんいろんな気もち
鉄塔に咲いた薔薇、ばらばら
海辺の世捨て犬は、指でいろいろ
青く光る氷の洞窟で、ブータンの王様とお姫様は粘土で遊ぶ
銀河の始まりは暗黒龍ぽかちんたん
K先生は永遠の罪
終電せまるトマトさん、トッキュージャーに飲み込まれるよ。
駱駝は口を閉じる
私を見つめる無、ムムム・・・
まあそんな感じ。
頭が痛くなるね。
終日、元気な彼らは名前を名乗り合っているらしい。
今年はどんな祝祭空間が生まれるのだろう?
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2014/09/26
Vol.223 有朋自遠方来 不亦楽
いよいよ第二回湘南vividアート展が近づいてきた。
今朝は雨だけれど、昨日は強い陽射しに澄んだ風が吹いていた。
ここ数日、ワタシは落ち着かない。
一年ぶりに遠くから仲間たちが集まってくるのだ。
風や波の音に彼らの到来を感じ取ろうと、老いた心身を精一杯に開きはじめているのだ。
去年、集ってくれた作品たちの顔が浮かんでくる。
今年はどんな表情を見せてくれるのだろう?
本当の顔は知らないのだけれど、イタリアの北部の海辺の町から作品を寄せてくれた作家たちは、今年もまた仲間たち(作品)を送り出してくれるのだろうか?
作品たちにはいろいろな思い出がある。
煮えたぎるような炎を背負った不動尊や静かに並んだ蘭の花や古い金庫の中に展示された「種子」という名前の大理石の白いフォルム・・・昭和初期の古い米屋を改装した展示空間に、いろいろな異次元の色彩や線や形が浮かんでいた。
それをワタシは、土間の上がり框に腰かけぼうっと見ていたのだ。
隣では辻堂のねこやルーティやドコドコや百年生きている貝なんかが一緒に見ていたかもしれない。
「遠く旅して、ここまで来たんだよなあー」とワタシはお茶でも出したい気持ちだった。
また彼らと会える日が近づいてきた。
すでにこのコラムにも書いたけれど、去年は「障がいの有無やプロ・アマ、国籍、手法など、様々な違いを乗り越え、心に響く作品が集れる場(公募展)を湘南の地に創りましょう!」と呼びかけ、「湘南アールブリュット展」という名前で開催した。
結果、思わぬ多くの作品たちが集まってくれて、一つの祝祭空間を楽しむことができたのだけれど、「アールブリュット」という言葉がどうしても、一つに潮流、一つの概念として見られることが多いために、私たちの想いとは違ったものを羽織ってしまったようなぎこちなさが残った。
そこで今年は、もっとストレートに「魂に触れる作品よ、あつまれ!」って想いを込めて「湘南vividアート」に変えたのだ。(もちろん、「vividiアートって何?」って声もたくさんあるんだけれど、それは直接、皆さんが作品に会って対話してもらうしかない・・・笑)
普段は決して出会うことのない作品たちが湘南の海辺に一斉に集まる。
ことしも遠く、イタリアやベルギーから作品が届いたと知らせが来た。
仙台で絵を描いているSさんからは、今年は藤沢にまで見にきたいというメールがきた。
蔵まえギャラリーでアートを楽しんでいる「タキオンの会」の仲間も、vividアート展に間に合うように絵本「泣き虫タキヲの物語」を制作したらしい。
もちろんフェースの仲間たちの作品も集まる。
まさに、「朋(とも)有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」の心境なのである(笑)。
第二回湘南vividアート展は10月4日~13日まで、蔵まえギャラリーで開催します。
Vividな仲間たちに会いに、ぜひお越しください。
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2014/09/23
Vol.222 秋のお話し
何も変わっていないのに、何かが通り過ぎていく。
秋になるとそんな感覚で世界を見ている。
視界の隅に、それまでいたもの、あったものがいつの間にか姿を隠し、消えている。
それが何だったのか、いくら考えても分からない。
街角を過ぎて行く風の音の中に聞こえていたものが、いつのまにかいなくなっている。
森の中の葉擦れや波の中に輝いていたものが姿を隠し、ひっそりした時間だけが転がっている。
取り残されたような不在感が世界に広がっている。
2週間ほど前から、そんな淋しさに包まれている。
「海辺の世捨て犬」を描きあげた原田さんから、「もう一つ小さな話をください」とリクエストが来た。
この夏、彼と話し合ってきた「海辺の世捨て犬」の時間が楽しかったので、引き受けたけれど、小さな話はなかなか生まれてこない。
というよりも、小さな貝を主人公にしようというイメージはすぐに浮かんだものの、それはポツンと頭の中にぶら下がったままで動き出す気配はない。
いつの間にか秋が訪れているのに、貝は夏の海辺に打ち上げられたまま、陽にさらされている。
で、ある日、しびれを切らして「何してんだよう?」
言葉をかけたのだけれど、いっこうに応えはない。
なにしろ100年生きた貝なのだ。
ワタシよりも長く生きている。
生意気にせかすのは間違っているのではないか?
ワタシはしゃがみこんで、見つめる。
殻には、細かな筋目が入っていて、一本一本の色が微妙に違う。
筋目を数えてみると100本。
1年に1本、筋目をつけてきた計算になる。
それは100年かけて作られたレコード盤のようだ。
時々、強い潮風が殻に砂を吹き付け、かすかに音が鳴る。
耳の聞こえないワタシの耳殻を通り、音は映像になる。
深い海底から、夜空を見上げる小さな貝、
ゆっくり波の階梯を登っていく貝、
海を出て、満天の星空を見る貝、
それから?
不意に訪れる悲しみ
どうもよく分からない。
貝の悲しみが分からない。
人気のない海辺を砂が移動する。
視界の隅を、辻堂のねこが行き過ぎる。
秋だね。
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2014/09/19
Vol.221 マス目で、あみだアート
小学生と中学生中心の長津田のアート活動はいつもイキがいい。
時間も1時間くらいと短く設定している。
みんなで一斉にはじめて、パッと一斉に終わる。
月一回ということもあり、一つの作品に何カ月も取り組むというスタイルではない。
自分のオリジナルな表現を探すための活動はもう少し先の話し。
それよりもアートって面白いんだ!という体験を積み重ねていくことを大切にしている。
体験と言っても、ワークショップ的なモノじゃなくて、型紙を使って果物を描いたり、マスキングテープでカレンダーを作ったり、動物のコピーでモンタージュアートをやったり・・・遊び感覚で、いろいろな道具の使い方や技法を経験して、その表現法を身につけることが目的だ。
で、今回取り組んだのが、マス目画法によるあみだくじ作り。
マス目画法というのは、1cm位のマス目に色を塗っていくだけのもので、それだけだとどうしても単調になってしまう。色はカラフルだけどトレーニング的になって、10分もやってると小さな子どもたちはうんざりしてしまう。
*でも念のために言っておくと、このマス目画法は不思議な力を持っていて、マス目画法が大好きな仲間は、職場や家庭で叱られ、イライラ気分のままフェースに来ても、色を塗っている間に、いつのまにか気持ちが落ち着き、表情もやわらかくなってくる。
淡々とした手の動きと色調が静かに心を包んでいく、そんな魔法の力をマス目画法はもっているのだ。だから、そんなマス目画法の心地よい世界から抜け出せなくなる仲間も結構多い(笑)。
今回は、そんなマス目画法の実践編。
まずは色ぬり。色塗りトレーニングとしてマス目画法に取り組む時は、マス目枠からはみ出さないように、色鉛筆を使って色を塗っていくんだけれど、今回は楽しさ優先なので、絵の具も使って枠からはみ出そうと色が混じってしまおうと気にしない。
モグラ叩きでもするように、筆で音を立てながらマス目を一気に塗りつぶしていく子もいれば、自分の好きな数字や文字をマス目に描きこんでいく子もいて、とてもアクティブな活動に変身する。
次は、色を塗ったマス目を帯状に切り、それを黒い色画用紙に貼っていく。
帯状にマス目を切るのもギザギザになったり、太くなったり細くなったり、それも気にしない。それを黒の画用紙に貼ってみると、かえって手の動きや色の躍動感が倍増している。
小さな仲間達はあみだくじに虫や葉っぱをつけたり、レースでも編むようにチクチク縦横自在にあみだ道を作っていく。
まるで、不思議なタペストリーを作っているみたいだ。
あっという間に時間が過ぎる。
なぜかボクは、仲間たちの活動を横で見ていただけなのに、汗をかき、息切れしている。
「これを『あみだアート』と命名します!」
個性豊かな作品を見ていると、ボクはアート力でも小さな仲間にはかなわないなと思い知らされるのだった(笑)。
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