このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2014/10/21
Vol.230 仲間とコラボする絵本の魅力
湘本欄の225号で、湘南Vividアート展に出展された二冊の絵本について書いた。
今回は、フェースの仲間たちの絵を使った絵本作りについてである。
実は、いまワタシはフェースの仲間の絵とコラボした絵本制作を試行錯誤的にいろいろな形で進めているのだけれど、壁にぶつかっている。
フェースの仲間の絵を使って、一つの話を描き進めていくのがとても難しいのだ。
その主な理由は仲間の絵の強さにある。
仲間の線や色やタッチは、妥協しない、混じり合おうとしない。
絵の一部、素材として使おうとすると、強い存在感を主張する。
それらをパッチワークのように縫い合わせ、絵本世界を表現しようとすると、いたるところでほころび感や凸凹感、違和感、拒否感のようなものが生まれて、流れていこうとしない。
調和していかない。いやむしろ不調和の世界が構築されていく。
それはもちろん、ワタシたちの感性や技量に大きな理由があるのだけれど、「なぜいま、それを作ろうとしているのか」「どんな絵本を作ろうとしているのか?」という仲間の絵とコラボする絵本の基本的な概念が問われていることに気づく。
なぜ?
どんな?
その問いがワタシの中を風のように駆け巡る。
なぜ?と問われるなら、「ワタシは仲間たちの絵に勇気をもらって生きてきたからだ」と応えるしかない。仲間たちの絵に支えられてどうにか生きてきたのだ。その力を、絵本という形で世界中の子どもたちや大人たちに伝えたいと願っているからだ。
いま世界は一人ひとりの希望が限りなく遠ざけられていく時代だ。もしかしたら不調和な絵本は、世界の片すみでもう一つの希望の根をはるかもしれない。
そんな淡い期待をもっているからだ。
どんな絵本を?と問われるなら、技法や技術を考慮に入れないストレートで限りなく生な色彩、線、タッチ・・・そんなもので作られている絵本と答えるだろう。
どんなに稚拙で、不自然でもいい、あるがままの魂のような形の絵本をワタシは作りたいのだ。
で、どんな風に?と問われると、ムムム・・それはまだわからない。
仲間たちとコラボする絵本に、一定の制作マニュアルがあるはずないのだ。
でも、わたしはこの巨大な蚊に一つの形を見る。
井上さんのリトルピープルの文様をした羽、
平井さんのぐじやぐじゃ文字に綾どられた青い猫
これはいま長廻朝美さんと取り組んでいる「辻堂ねこ道」の登場人物?である。
絵本作りをはじめて、一年近くの時間が流れた。
まだ辿り着く岸辺は見えない。
もう少し、もう少し・・・
自らを励ましながら試行錯誤を続ける。
ある日、ワタシはそれが希望の形であることに気づくかもしれない。
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2014/10/17
Vol.229 もう一つの時間を生きる作品
湘南Vividアートが終り、仲間たち(作品)たちがそれぞれの場所に戻っていった。
祝祭空間は閉じられ、取り残されたさびしさをポケットに入れて街を歩く。
秋なんだ。
そう思うとオールズバーグの「名前を忘れた男」を想う。
男が働く農場の木々は、秋を迎え、紅葉真っ盛り。その中に一本の木だけがいつまでも緑の葉を茂らせている。それを見ていて、不意に男は気付くのだ。自分が季節に遅れた一本の木であることを。
そんな男の気もちになる。
いつの間にか違った時間を生きていたことに気づく。
後悔ではない。
そんな時間を生きている孤独に気づくのだ。
社会的ルールによって流れる日常時間の中に、それとは異質なもう一つの時間の流れがある。それは、昨日・今日・明日という一方向にながれていく時間ではない。
逆流したり、なだれを打ったり、渦巻いたり・・・そんな時間の中で生きていると、思わぬところに立っている自分に気づく。
Vividアート展でもそんな作品と出会った。
それは、まっすぐに見ている。
その視線の前に立つと観る者の視線を虚ろにしてしまうような強さを持っている。
レモン色に燃え上がる髪
海松色に傾いていく深い夜
まっすぐに閉じた口とまっすぐに貫いていく眼
その二条の地平に身体が切断されていくような崩壊感覚に襲われる。
何年か前に、この作者に会ったことがあるのだけれど、彼女も異質な時間を生きて、ここまで来たのかという連帯感のようなものがボクを包んだ。
ボクはVividアート展の期間中何度もその絵の前に立った。
耐えるために。
多分、そうして耐える勇気を見つけるために。
同じ作者のもう一つの作品。
ネパールのカレンダーと不思議な文様に囲まれ、鉛丹色と木賊色に分断された面。
その口元から覗いているシニカルな視線。
耳を切り落とした男を捨て、海の彼方に旅立っていった男。
なぜ、この男が、閉じられることのないネパールの面の口の中に囚われているのか?
饒舌だったといわれる男は、ネパールの面の舌になって今もしゃべり続けているのだろうか?
「われわれはどこからきたのか/われわれはなにものか/われわれはどこへいくのか」
その面の顎下に怒りに染まった二つの目がある。
その眼も、また囚われている。
日常の社会ルールによって規定された時間の檻の中でボクを見つめている。
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2014/10/14
Vol.228 さらば、祝祭の日々
湘南Vividアート展が終わった。
あーあ、とうとう・・・終わってしまった。
そんな感じ。
少しのさみしさと虚脱感。
台風にほんろうされた日々だったけれど、二つの台風も湘南の岸辺に集まった作品たちが一緒に連れてきたもう一つのエネルギーだったような気がする。
古い米屋を改造した展示会場に200を超える作品たちが集まり、9泊10日の時を過ごす。
それだけで、ボクらの日常を超える祝祭のエネルギーは生まれるのだけれど、今年は台風までやってきた。
深夜、人びとのいなくなった会場で作品たちは、どんな嵐の夜を過ごしたのだろう?
歪んだ硝子戸を震わせ、見えない隙間からいくつもの風がなだれ込んできて、壁面の作品たちはぶるぶる・・・机上の色鉛筆カラーの恐竜やカンボジアの精霊や巨大な掌はゆっくり自在な動きを始める。
遠くで墨絵のオオカミの遠吠えが聞える。
世田谷の小さな子どもたちが作った蝶々やクワガタが不思議な空間を歩きはじめる・・・。
そこにはパトリシアさんの満月もあるし、猛暑の潮だまりもある。
眼鏡だって、消しゴムだってある。
草原も熱帯の森も砂漠も・・・
考えてみれば、世界のすべてがそこにはある。
きっと彼らは、彼らを縛っていた「作品」という境界を越え、出会いや衝突を繰り返しながら、彼ら自身の世界を作っていたに違いない。
なぜなら、台風一過の朝、会場におもむいたボクは壁面の作品たちが力を使い果たしたように疲れているのを見たからだ。
台風の夜の余韻がそこにはあって・・・
遠くの海からやってきた巨大な音楽を楽しんだような満足感さえ漂っていた。
で、ボクは台風さえ取り込んでいく彼らに脱帽した。
そんな祝祭空間も幕を閉じた。
梱包された作品たちも淋しそうだ。
故郷に帰っていく彼らに何を言えばいいのか分からないけれど、何かがボクらの間には残っている。
それは「生きていく勇気」とか「希望」っていう言葉に近いものかもしれない。
さようなら、仲間たち!
また会おう!
時は円環する。
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2014/10/10
Vol.227 作品と会話する人びと
湘南Vividアート展に多くの人たちが来てくれている。
この作品展に関心を持って毎年来てくれる人、新聞を見てきた人、通りすがりの人、作家周辺の人・・・さまざまな人びと。
さまざまに作品と心を通わせる人びと、
さまざまに生きている人びと、
心を打つ人びと。
Vividアート展の楽しさの一つは、そんな人びとと出会えることだ。
その人は、古い硝子戸を開け、影のようにすっと入ってくると、作品の前に立っていた。
しばらく見入ってると、上半身が静かに左右に揺れはじめ、ふいにしゃがみ込んだ。
作品は人の視線にさらされるのが宿命のように壁に貼り付けられているのだけれど、その人は、作品から見られることを避けるように、頭を抱えてうずくまっていた。
それから、何事もなかったかのように立ち上がり、また一つの作品の前でしゃがみ込んだ。
見ていると、作品の前を泳いでいる魚のように同じ動作を繰り返している。
あるいは、不思議な踊りか祈りのように見える。
ボクはその人から目が離せなくなる。
そこにどんな会話が生まれ、心の交流が生まれているのだろう?
知りたいと思うのだけれど、作品もその人もボクに教えてくれることはない。
ある日、別のその人は入り口の古い硝子戸の前に立ち、中に入ってこようとしない。
通りの陽射しに逆光になり、影法師のように立って覗き込んでいる。
入り口に展示されたTARO画伯の「まっすぐ見る」という作品をまっすぐ見ているのだろうか?あるいはたくさんの作品がぎっしり並べられている会場に入るのをためらっているのだろうか?ボクは入るように声をかけようかどうか迷う。あまりにも長い間、そこに立っているので、ボクもためらってしまうのだ。
視線をはずしたら、いつのまにかその人は消えている。本当にその人がいたのかどうかも分からない。
ある日、また別のその人は、両耳を押さえ、目をギュッと閉じたかと思うと、オノマトペのような言葉を発しうなづいている。それから、ゆっくり目を開け、作品を見上げ、また目を閉じる。不思議な声をあげる。
その繰り返し。
ボクにはそれが作品の言葉をオノマトペで読み上げ、作品の表情を網膜の印画紙に焼き付けるために目を閉じる、そんな彼の読書法のように見える。そのようにして作品を読んでいく彼の姿に心を打たれる。
台風一過の午後、土蔵でジャズレコードを聴く会が催された。
薄暗い土蔵に集まってきた4、5人の人と壁面に飾られた50の作品たちが古いレコード盤から流れる音に耳を傾けた。
やわらかく深い音。
ビリー・ホリデイの「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」
ホリデイの歌声に作品も人びとも静かに水に沈み、揺れている。
ああ、湘南Vividアート展は不思議で面白い場所だ。
人々と作品が心を通わせ、小さな展示会場は地中深く掘り下げられていく。
もちろん、頭上にも広がっていく。
日常の時間を超える世界の入り口がここにはあるようだ。
第二回湘南Vividアート展は10月13日(最終日は11時~17時)までです。
お見逃しのないように。
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2014/10/07
Vol.226 鮮烈で、くすくすな力
第二回湘南Vvidアート展が始まった。
初日の朝、東京新聞を開くと、「魂ふれる鮮烈な力」と大きな活字が目に飛び込んできた。
おお!と内心驚き、「よくぞここまで明快に表現してくれたな」とうれしくなった。
小見出しには「芸術には障がいの有無も国籍も関係なし」「絵画など200点超、海外からも」という文字。
前文(リード)で
「障がいがあろうとなかろうと、国籍も、経歴も関係ない。すべての表現者に開かれた公募展『湘南Vividアート展』が四~十三日、藤沢市の藤沢の蔵まえギャラリーで開かれる。『魂にふれる鮮烈な力を持った作品』という意味で『ビビッド』(鮮烈な)と名付けた」と簡潔にこの展覧会の趣旨が書かれている。
湘南地域は近づく台風18号の影響で真夏のような熱さが街を覆っていたが、「よし!いいスタートが切れた!」と気分よく会場に向かった。
ワタシは開場時間の30分前に着いたのだけれど、なんともう何人もが蔵まえギャラリーを往ったり来たり。
古い硝子戸越しに、イタリアの作家のレリーフ作品や太郎さんの「まっすぐ見る」という作品や今年の岡本太郎現代芸術賞の入選作家の鷲尾圭介さんの「赤い家」という作品を見ながら、「いいねえ、いいねえ」とか「本当にプロもアマも関係ないね」といった会話が聞こえてきた。
それで私はまた嬉しくなった。
今年の特徴は「すべての違いを乗り越え、独自の表現を求める作品が出会う場を創造しよう!」というワタシたちの趣旨に賛同してくれたアーティストの作品が多く寄せられたことだ。
鮭缶から鮭が飛び出したオブジェ作品や土管に古い竹ぼうきを突き立てた作品、カンボジアの森や村を守る可愛い精霊のぬいぐるみ、和紙で作ったネコの阿吽(あ・うん)像などユニークで遊び心のある作品が昭和初期の土蔵や和室で時代を越えた存在感を醸し出している。
デフォルメした掌や足の巨大なテラコッタの作品も土間の床でのびのび寝転がっている。
一方で、もちろんドーンと真正面から観る者の心に迫ってくる作品も少なくない。
ニューヨークで個展を開いている佐藤さんのオオカミを描いた墨絵は、子どもたちの心を鷲づかみ。あんぐり口を開いて見上げている。
もちろん、この「くすくすミュージアム」の運営をしてくれているキュリオスさんがチームで出展してくれた「くすくすカルタ」も好評。
「きょうのくすくす」で紹介した絵によこはちさんがつけたコピーを声を出して読みあげている人も。
「●お・んなはね/いろんなかおを/もってるの」
「●に・んじんに/トナカイみたいな/つのはえた」
「●の・-サンキュー/ハエキャンディーはいりません」
「●え・がおでピース/みんなやっちゃう/カメラのまえじゃ」
声を出してはくすくす笑ってる。
それを見ていると、「くすくすミュージアム」をやっててよかったなあって気分になる。
ちなみにこの「くすくすカルタ」は湘南Vividアート展の期間限定の予約販売。
予約した人だけに後日、手づくりして発送する極めてレアなオリジナルカルタだ。
もし、湘南Vividアートに来られたら、必ず和室に上がってお茶でも飲みながら、自分のお気に入りの絵や文章を見つけてくださいね。
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