このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2014/11/07

Vol.235 青い手を描く人



青い手を描く人がいる。
その人は祈るように
頭を垂れ、
ゆっくり紙を磨くように
青い鉛筆を持った手を上下に動かし、
やがて、
振り子のように手は静止する。
その人は祈りのように
小さなため息をもらす。
紙の上を青い指が五つの運河のように流れ、
手首に向かって合流し、
やがて海に向かうように紙の端から消えていく。
土曜日の朝の澄んだ光が、
その人の影を
青い手の上に落としている。
小さな悲しみの染みのような灰色の影。
ボクは
頭を垂れたその人にかける言葉を持たない。
その人は、
またゆっくり手を動かし始める。
指先に草色の、土色の丸を描く。
指先で燃える光のように
小さなため息を静かにそこに落としていく。
指先で揺れる思い出のように、
夜色の、月色の丸を描く。
その人差し指から、雫のように光が垂れていく。
ボクは
指先で燃える、その人の思い出に近づく術も持たない。
土曜日の朝、
廃校になった小学校のグラウンドでは、
少年、少女たちのサッカーに興じる声が聞える。
そのこちら側、
古い窓ガラスからさす陽射しの教室で、
その人は、
静かに
青い手を描いている。






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2014/11/04

Vol.234 小さな記事から



10月30日付の新聞を読んでいたら、こんな記事が出てた。
・・・宇宙が誕生したビッグバンも進化論も、神の教えと矛盾しない。ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は28日、天地創造に関する科学の理論を肯定した。 「世界の始まりは混乱の産物ではない。創造主の手がビッグバンを必要とした。」
「神は自然の法則に従って進化するように生物を造られた。」などと述べられた・・・
ボクは特定の宗教を持たないので、かえってこうした記事に目が向いてしまう。
ローマ・カトリック教会内の進化論に対する論争がどうなっているのか知らないけれど、人を超えた何かの存在と宇宙の起源を結びつける、その壮大な想像力がいま地球を席巻しているIT世界のイメージに接近していることに驚く。
仮想空間内のエネルギーが生み出す想像力はどこまで行くんだろうと思ってしまう。
そんな想像力をヒトの想像力と言ってしまうには無理が感じられるところまで来ているような気もする。
ユングも言っているけれど、生き物や自然物の中にある宇宙意識っていうイメージとその想像力は重なり合うところがあるのかもしれない。
地球やボクらや森の種子、深海の小さな貝たちが持っている宇宙意識・・・自己を超えた何かを希求するヒトの宗教意識もそんなところから生まれているのだろうか?
いまKAKUさんと取り組んでいる「青い石をもつカエルの話し」という物語にも、そんな側面がある。
物語はこんなところから始まる。
青イ石ヲモツカエルガ、一番最初ニ覚エテイルノハ青イ色デシタ。
大キナ青ガ広ガリ、ソノ中ニぽつんト浮カンデイル自分ガ最初ノ風景デシタ。
誰カガ、ソレハ空ダヨト教エテクレマシタ。
SORA?
青イ石ヲモツかえるハ、ソノ音ヲ繰リ返シ、身体ノ中ニ大切ニシマイ込ミマシタ。
次ニ青イ石ヲモツかえるガ覚エテイルノハ、マタタキデシタ。
黒イ広ガリノ中ニ、小サナ光ガ明ルクナッタリ暗クナッタリシテイマシタ。
ヨク見ルト、青イ石ヲモツかえるガ見タ光ノ向コウニハ、モットタクサンノ光ガマタタイテイマシタ・・・・
こんな風にして、青い石をもつカエルは宇宙意識を身体の中に取り組みながら生まれる準備をしていく。
そして、ある池で友だちと出会い、死んでいくのだけれど、死は終わりではない。また新たな生に繋がっていく・・・そんな終わりのない物語。
考えてみれば、2011年に出した絵本「ねっこのルーティ」(パロル舎)もそんな宇宙意識に導かれた小さなねっこの物語だ。ルーティはまだ第一巻しか生まれていないけれど、ボクの中では第五巻まで考えていて、地中の微生物や石や虫たちと出あいながら、様々な生や死を越えて宇宙までねっこを伸ばしていく。そんな構想を持っている。
もしかしたら、ボクの歩んでいる道はルーティと同じように、そんな宇宙意識に向かっているのかもしれない。
それは、多分行き着くことのない歩みだろうけれど、どこまでも、どこまでも行けばいい。
そんなことを小さな記事は考えさせてくれた。






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2014/10/31

Vol.233 とまどいのキュリオス賞作家



今年の第二回湘南Vividアート展でキュリオス賞をとったのは、かつて「コーラの画家」と呼ばれた森山画伯。(「かつて」というのは、今はほとんどコーラを描かなくなってしまったからだ。)
13日の授賞式には、キュリオスの皆さんは写真のようなカッコいい賞状を用意してくれていた。 それをどんな風に森山画伯が受け取るのか、多くの人が楽しみにしていたのだけれど接近してくる台風19号のために、ついにその光景を見ることはできなかった。
多分、「あーダメダメ。できない!できない!」って言いながら授賞式では会場の土間を何度もまわっていただろうに、そう思うと本当に残念だ(笑)。
(ちなみに、去年のキュリオス賞は大庭稔揮さん。彼は妙におとなしく、神妙に賞状を受け取っていた。)
で、森山画伯にとってはキュリオス賞の受賞作家という実感は全くないのだけれど、夜の町田の作業所では周りから「おめでとうございます。」と言われてキョトン。
「何なの、それ?」って感じで、いつものように夕飯用のカップラーメンの蓋をあけ、スープの袋を破るのに苦闘。
で、これまたいつものように「あー、できないよう!ね、ね、ね、できません!」と、ずっと町田のフェースの仲間と一緒に活動している遠藤祥子さんにスープの袋を押し付ける。
何も変わっちゃいないのだけれど、少し変わったことがある。
それは、「もっと絵を描こうよ」という圧力。
「ねえ、せっかくキュリオス賞もらっても、絵が少ないと何にも作ってもらえないよ」と繰り返しワタシに言われるようになったのだ。
よこはちさんに「今年のキュリオス賞の副賞は何にするの?」と聞くと「うーん、まだ決まっていないけれど、簡単な絵本にしようかってHさんと話してる。」とのこと。(Hさんていうのは、よこはちさんの上司の方でトム画伯のファン。ユニクロでトムさんの絵をTシャツにプリントして着ていたりする。)
去年の稔揮さんは、何枚も絵があったから、すぐにオリジナルの豆本が作れたのだけれど、森山画伯はとても数が少ない。(フェースには絵を描きに来るというよりも、ラーメンを食べに来たりするのが目的みたいなところがある。)
で、とにかく絵をたくさん描くことが森山画伯への圧力になったのだ。
「きょうはここまで描いてね」というと「無理!無理!」
「何言ってんの?君はムリ山画伯か?」
「んー、でも無理!」
何となく、こんな会話が森山画伯の周辺で増えてきている。
どうしたのだろう?と画伯は思っているかもしれない(笑)。
この下の絵は、そんなとまどいの森山画伯を遠藤さんが描いた似顔絵。

一年くらいかけて、絵が溜まったらキュリオス賞の絵本が出来ているかもしれない。
でも、こんな調子じゃ無理!無理だぜ、ムリ山画伯さん!
ま、それでも自分のペースで生きることは大切だよね。






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2014/10/28

Vol.232 割りばしでシャウトせよ、レノン!



今年の湘南Vividアート展の整理をしていて、一つ面白いことに気づいた。
今年は東京、朝日、毎日、読売の四紙に報じられ、二つの台風が週末ごとに接近し会場を休館にするというハプニングがあったにもかかわらず、連日多くの人が訪れてくれた。
「新聞、メディアの力はやはり大きい」という事を再確認することにもなったが、一方で見学に来られた人が口コミで友だちに作品展の面白さを伝え、それで訪れてきたという人も多かった。
どんな作品が来場者の印象に残ったのかはよく分からないが、取材にきた記者には一つの作品が印象に残ったという事が記事から分かる。
それは中学一年生の井上耕児郎君が描いた「The Beatles」だ。
ボールペンで紙に溝がつくくらい力を込めて、粗々しいタッチで描きこんだビートルズの人物像だ。ボールペンで何度も色を重ねて塗りつぶした長い髪や人影、激しく揺れているように何度も描き直されたギターやマイク、ドラムス。
絵にはBeatlesのシャウトや駆け抜けるギターやドラムの響きが無秩序に拡散している。
朝日、毎日、読売の三紙が短く「ボールペンで描かれたビートルズ」という形容で、その作品を紹介している。
なぜだろう?
いろいろ考えてみると、取材記者が座った椅子の正面にそれが飾られていたのだ。
5mm位の細かな文字で国文学者折口信夫の文章を雷紋様にびっしり写していった作品やイタリアから送られてきた和紙風(牛乳パックみたいな?)の紙に様々な形をプレスした作品、小さな丸を幾つもひたすら描きこんでいった作品の中にあって、The Beatlesは理解可能なホッとする作品に見えたのかもしれない。
記者たちはそれを見つけると、嬉しそうに立ち上がり「あれはビートルズですね。ドラムを叩いてるのはリンゴですね?右端で歌ってるのはマッカートニー?」と指さしては、写真を撮った。「よく分かりますねえ?」「分かりますよ!私らビートルズ世代ですから」
そうか、それで三人の記者はビートルズを取り上げたのか。
ボクは耕児郎さんのボールペンの作品を手に取ってしみじみ見直した。
何だかさびしい気持ちになった。
確かにボールペンの硬く素早く走る線はコントロールを失うような危うさはあるものの、はじめて見た時の衝撃度は薄らいでいた。
耕児郎君の叫び、ロックンロールはボールペンの線だけじゃ無理かもしれないと思った。
何かもっとシャウトするもの。抵抗するもの、破壊するような力のある、手に負えないもの、そんなもので描かれた線があればいいのかもしれないと思った。
で、先週、ボクは彼に割りばしの先を尖らしたものを渡して、「これでビートルズを描いてみてください」とお願いした。
案の定、割りばしの筆は一筋縄じゃいかなかった。
絵筆のようにおとなしく線にはなってくれない。たっぷり墨をつけたと思ってもすぐにかすれて消えていく。
耕児郎君はいらいらして割りばしを筆やボールペンに変えようとする。
それを制して、「もう少しだけ描いてみてよ」と頼み込む。
やがて、短くて、硬くてぶっきらぼうな線に縁どられたJ.レノンが生まれてくる。
口を開けたレノン、水玉のシャツを着たリンゴスター、歯をむき出しにして文句を言っているマッカートニーが現われてくる。
いい表情だ。
でもまだシャウトは聞こえない。






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2014/10/24

Vol.231 有一の竹ぼうき



秋晴れの日、「五島研悟氏によって収集された有一にまつわる作品展」(第三回井上有一展)を藤沢のギャラリーginetaに観に行った。
フェースofワンダーでいっしょに活動をしている原田裕輔さんや由紀子さんの有一像も展示されるというので、伊藤時男さんの写真や勅使河原蒼風さんの書、半田強さんの絵画の中で、二人の作品がどんな顔をしてかしこまっているのか、覗いてこようと思ったのだ。
五島さんは、書家井上有一の研究家、コレクターとしても知られているが、実は仙人のような人で、古自転車をきこきこ鳴らしながら白髪と白いひげをなびかせ、潮風の吹く藤沢の町を往ったり来たりしている。
この夏、原田裕輔さんと共同制作したオブジェ絵本「海辺の世捨て犬」に出てくるよれよれ爺さんにも五島さんのイメージが重なっているかもしれない。
五島さんは湘南Vvidアート展の選考委員もされていて、今年のVividアート展には、藤沢の河口近くの土中から発掘された土管と何十年か前の古い竹ぼうきを持ってこられ、どのように展示するのかという指示もないまま「これはどう思う?」と謎のような言葉を残して、そのまま去って行かれた。
ま、そんな人なのである。
そんな五島さんが昨年のBowbooks賞をとった裕輔さんの絵画「有一を駆ける」を購入され、今回の展示に至ったのだ。
今回は有一の「雨ニモマケズ」も展示されているというので、それにも興味があった。
会場正面に10.6×61cmの紙にぎっしり書かれた雨ニモマケズはあった。文字を読んでいこうとするのだが、拒否されて一人荒れ地に放り出されてしまったような孤独を覚醒させる厳しい書だった。
有一が自らの身体に刻みこんでいった悲痛な唸りや哀切な叫びが川のように流れていた。
昔、ボクは「雨ニモマケズ」をフェースの仲間と壁画風に共同制作しようと取り組んだことがあったが、結局途中で挫折してしまった。
東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ/南ニ死ニソウナ人アレバ/行ッテコワガラナクテモイイトイイ・・・ああ、そんな言葉を自分は仲間たちと一緒に描いていいのかという想いに打ちのめされたのだ。
その厳しい川を有一は独り下っていったのだと思った。
原田さんの絵はそこから少し離れた棚の上に展示されていた。彼の激しくうねり、声高に命を讃歌する色彩は沈黙していた。自分の居場所が見当たらず、戸惑っているような寂しさがあった。ボクは仕方がないと思った。有一の前に対峙することはまだできない。ここからもう一度歩み始めればいいのだと思った。
その感想を原田さんにメールした。
すると後日、原田さんから返信が来た。
「(自分の作品)スケッチブックは心(の)叫びに見え(ながら)そうでないと思った。詩でゆうと生きてる悲痛な文でなく、稚拙な独りよがりの作り話みたいな感じ。由紀ちゃんの作品のほうが生きてる、生々しい/少しがっかり(自分にも)それでも有一展に混ぜてくれたことに感謝し、五島さんに有り難うと言いたい」
いい有一展だったなと思った。
ところで、Vividアート展に五島さんの置いていかれた竹ぼうきと土管がどうなったかというと、蔵まえギャラリーのゴミと一緒に危うく持ち出されそうになるというハプニングもあったが、いつのまにか和室の奥の床の間に鎮座し、時間を超えた不思議な存在感を辺りに醸し出していたのである。
土管に突き立てた古ぼうきは有一の筆のように凛と立っていた。






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