このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2014/11/25
Vol.240 ささやかな願い
週末、二冊の本を読んだ。
「アトリエインカーブ」(創元社)と「アート・ヒステリー」(河出書房新社)。
2010年と2012年の出版だから、ちょっと古いけれど、時間が経ったその分、距離を置いて内容を眺めることができる。(笑)
二冊ともキャッチコピーは活きがよくて、いまでも十分に通用する。
・「現代アートの魔球」/「左目をアートに、右目を福祉に、この魔球を追う」(アトリエインカーブ)
・「なんでもかんでもアートな国・ニッポン」/「何なの?これ」「アート」「え、こんなことやっていいの?」「うん、だって、アートだから」(アート・ヒステリー)
ね、ちょっと手に取ってみたくなるでしょう?
確かに時代のアジテーションとしては、面白いし、美術館や市場といった既成のアートワールドが、文化的な資本格差や偏差を映し出す残酷な鏡であるという認識なんかは、「そのとおり!」と納得するところもたくさんあるんだけれど、なにかボクの中には距離がある。
何だろうなあ?と、電車の中やフェースの仲間と絵を描きながら考えていると、アートに対する姿勢というか立っている土俵が違うんだということに気がついた。
例えば、福祉作業所のアトリエインカーブなんかは「アート界のイチロー育成を目指す」とはっきり宣言して、国や地方行政に働きかけながらプロ育成の作業所ギャラリストとしての能力蓄積に邁進していく。
一方「アート・ヒステリー」の大野左紀子は、かってアートが果たしてきた「既存の構造の徹底的な否定と芸術の解体」という機能自体が停止し、アートは「底の抜けた器」になってしまっているにもかかわらず、時代は声高に「いまこそアート!」「アートの新たな可能性」を謳うアート・ヒステリー的言葉に溢れていると批判する。
もちろん、それらに対して「いまさらイチロー(エリート志向)なの?」とか「底の抜けたアート、結構じゃない」といった思いもないではないが、時代に対する、そのとがった姿勢には共感する。
でも、いまのボクには、彼らのように社会の中で一定の有効性や文化的位置づけを持つものとしてアートに関わっていくつもりは全くない。もっと個人的なところで関わっていくことの方が大切なのだと思ってしまうのだ。
IT文化の登場と共にそれまでの権威的な美術構造が崩壊し、「誰でもアーティスト」的世の中には当然いろんなアート論が登場し、それぞれがオピニオンリーダー的な立場で自分たちのやっていることを時代の中でどう位置づけるか、喧々囂々なのだが、ボクにはそれがどうしても市場経済、商品消費システムという大きな掌の中で泳がされているように見えてしまうのだ。
アートを社会的な記号として捉えるならば、その大きな掌から逃れるすべはないかもしれない。でも、もっと別の側面、人が生きている営為としてアートを捉えるならば、もう一つのアートの多様な世界が開けてくるかもしれない。
ボクは、そんな多様性の一つとして、仲間たちとアートで遊びたいのだ。
遊びながら、一緒に年をとっていきたいのだ。
これはもちろん極めて私的でささやかなボクの願いで、普遍性をもつことはないだろう。
でも、それでいいんだと思う。
ボクはポーランドの画家ニキフォルのことを想う。
国立美術館で開かれた大々的な展覧会場から逃亡し、その日のタバコとささやかな食事のために、雪の降る駅前で寒さに震えながら小さな絵を売りつづけるニキフォル。
水っ洟のついた、皺だらけの老いた顔に浮かぶ笑み。
いつかボクもそんな笑みを浮かべられたらと願うばかりだ。
*ニキフォルについては「ニキフォル知られざる天才画家の肖像」というDVDが出ています。機会があればぜひご覧ください。
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2014/11/21
Vol.239 見えないものを積み上げる
先週の金曜日の夕方、藤沢にある「太陽の家」の職員さんたちと、「積み上げるワークショップ」を行った。とても簡単なワークショップで、2~3cm四方に切ったダンボール片をただ積み上げていくだけ。
今回は見本作品をみんなには見せない。
どこまで積み上げていくのか、どんな風に積み上げていくのかは一切自由。
ただそれだけの活動だけれど、結構奥は深い。
なぜかっていうと、このワークショップ、出来上がりのイメージをもつことが難しいってことがある。薄い一枚のダンボール片をつまみあげ、ボンドをつけて積んでいく、その作業自体は、当然理解できるのだけれど、それがどんな形になっていくのか見えてこない。
「とりあえず積み上げていってくださいって言われてもなあ・・」って、とまどいの感じ。
最初はみんな手が動かない。考えて、かたまっている(笑)。
突然、砂漠に立たされて、放り出されたされたような気持。
このワークショップ、そのとまどい感から始まることが肝心なのだ。
「45分くらいで何か作ってくださいね。頭で考えてもいいですけれど、あまり時間はありません。積み上げながら、指や手で考えた方がいいかもしれませんよ・・・」と、ちょっと急かす。
手で考える、それがこのワークショップの醍醐味なのだ。
秋の日はつるべ落とし。すっかり暗くなったガラス窓に黙々とダンボールの塔を積み上げている姿が映る。
慎重にバランスを取りながら、らせん状の塔を積んでいく人、とにかく高さを目指して土台からしっかり積んでいく人、マイハウスをイメージして家の様なオブジェを作っている人、一人ひとりのスタイルはいろいろ。
しばらくすると、積み上げたダンボールは思わぬところから傾いていく。
「○○さん、危ないよ!傾いてる!」
「△△さん、A型なの?きっとそうでしょう?」
「もう、分からなくなっちゃった!いいや、とにかく積んでいこう」
「ああああああああああ…倒れちゃったよ」
いろいろな会話が飛び交い始める。
積み上げアートって、ダンボールの意志任せのようなところがある。
最初の方針はどんどん変更を余儀なくされる。
それでいいのだ、人生ままならない(笑)。
柔軟な感性が要求されるのだ。
予定した時間はすぐに来る。
「おしまあい!今のままの作品をこの机の上に並べましょう」
で、出来上がった作品、集まると不思議なエネルギーを発散している。
何かになり始めている直前の未完のフォルムが持つ、さまざまな想いがそのままに凝縮されている・・・コントロールできないエネルギーが灯りに照らされている。
「きょうは全く初めての積み上げアートでしたから、こんな感じになりました。本当はもっと時間があればなあっていうのが皆さんの気もちじゃないですか?」
そんな風に問いかけると、みんなうんうんと頷く。
「今度、やる時はああしよう、こうしようという思いがいっぱいでしょう?ぜひ、その思いが冷めないうちに、また積み上げアート第二弾をやっていただければ嬉しいです」
帰りの電車の中で、アートワークショップがいろいろな地域で芽吹く夢を見た。
ワタシもきっととまどいながら、見えないものを積み上げているのだろう。
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2014/11/18
Vol.238 おうちがだんだんとおくなる
11月になり、辻堂の海岸から人影が消えた。
相変わらず波間には人の顔をした生物がぷかぷか浮いているけれど、それも数は減っている。
午後遅く、陽が陰りはじめる時間に海辺に出る。
そろそろ師匠格のネコたちが防砂林から姿を現す時刻だ。
沖から吹いてくる風も物憂く、ゆっくり空が傾いていく。
何することなく、
なにすることなく、
風の中に、人だった頃の苦さを流し込んでいく。
流れついた腐木に座る。
ほらほら、これがボクの骨…と中也をきどり、足下の白い石を蹴ってみる。
見ればいたるところに魚の骸
点々と白いのは海鳥の骸か?
口をついて出るのは、
Tertiary the younger tertiary the younger
Tertiary the younger mud-stone
あおじろ罅破れ あおじろ罅やぶれ・・・
たしかにここは ここは修羅のなぎさ
いまのワタシよりはるかに若い賢治の姿が遠ざかっていく。
もう少し歩くと、小さな河口に出る。
そこには、捨てられたバス停が砂に埋まって、白い空に傾いている。
きょうもあのおばあさんは、来るはずのないバスを待っているのだろうか?
暮れていく陽に向かって歩いていく。
河口にはコンクリートで固められた突堤が突き出していて、
いつものようにネコの師匠が水平線からのぼる月を待っている。
私も黙って横に座り、空を眺める。
薄暮に
伊豆が消える、
真鶴が溶ける、
箱根が沈んでいく。
るるるる、るるるる、るるるるるー
師匠が短い舌でスキャットしている。
それをきいていると、
ひらがなの歌が浮かんでくる。
おうちが、だんだん、とおくなる
いまきたこのみち、かえりゃんせ・・・
江の島の上に月がのぼる。
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2014/11/14
Vol.237 1才のピカソ、86才のミロ
先週の土曜日、鎌倉のあじさい寺裏の丘陵に広がる今泉台という住宅地でアートワークショップを行った。
住民の高齢化と新しく移ってきた若い世代の人たちの交流する機会が少なく、「できればアートを通して互いに顔見知りになり、言葉をかけ合える関係になりたい」というのが目的のワークショップで、今回が二回目。
今回のテーマは「巨大ピカソに挑戦!」。
底冷えのする曇天の空模様だったけれど、いろいろな世代の人が集まってきた。
みんな、顔みしりかというとそうでもないらしい。子育て世代のお母さんグループや長く地域に住んでいる高齢?の人たち、それぞれが声を掛け合って集まってきたらしいのだ。
部屋の片すみに集まり、顔見知りはいないかしらとあたりを見渡したり、「絵は苦手だから・・・」とひそひそ。ちょっと緊張した雰囲気が生まれている。
いいぞとボクはひそかに思う。
ボクのワークショップはここから始まるのだ。
ワークショップの面白さは、初めての人と出会い、みんなで何かを作っていく過程で会話や笑いを共有し、リラックスした時間を持つということにあるので、このスタート直前の「おずおず・ドキドキ感」は実はとても大切なのだ。
で、ボクは頃合いを見て、声を張り上げる。
「みなさーん、そろそろ始めましょう。きょうは、これをみんなで描きます。」と一枚の絵のコピーを振り上げる。
「これ誰の絵か、分かりますか?」とみんなの顔を見る。あわてて目を伏せる人もいるけれど、今回はみんな絵を見上げている。その絵は誰もが知っているピカソの絵だからだ。
「はい、お姉ちゃん、誰の絵なの?」「ピカソ?」「そう、すごい!知ってるんだ。きょうはこれをみんなで描きます。とっても大っきな顔!」「ところで、この中で一番若い人は誰かなあ?」ぐるぐると会場を見回すと若いお母さんに抱かれた男の子がいる。
「キミは何才?」「1才です。」お母さんが答える。「いいねえ、キミも一緒にピカソを描こうね。」笑いが起こり、空気が少し柔らかくなる。
「じゃあ一番高齢の方は?おばあちゃんは何才ですか?」椅子に座ってニコニコしているおばあちゃんはウンウン頷く。
「86才ですよ」と近くで高齢者のデイケア―をやっている人が代わりに言ってくれる。「えー、お若いですねえ。じゃあ、1才か86才までのみんなでピカソを描きましょう!85年も違いのある人たちが一緒になって一枚のピカソを描くなんて世界で初めてかもしれない・・・」
笑いが広がり、一体感が生まれてくる。やってみようという気持ちが伝わってくる。
それから、描き方の説明に移る。
ピカソの絵を人数分に分割し、その分割した部分を一人ひとりが八つ切りの画用紙に描き写していく。でも色や模様は自由・・・雑誌の切り貼りだってもちろんOK。
「一人ひとりがピカソになって新作を描くつもりでやって下さーい!」
説明は短く、すぐに作業に入る。
机の上に置いていた色鉛筆や絵の具に一斉に手が伸びる。手から手へ絵筆やチューブが渡されていく。ピカソの原作からどんどん離れて一人ひとりの感性が色や線、タッチになって紙の上に生まれてくる。
1才の男の子も小さな手に大きな筆を握って、なぐり描き。86才のおばあちゃんは、とても軽やかにいろいろな色の線を描いている。
その自由感・・・やわらかく、透明に、はばたいている。
出来上がった絵を組み合わせ、壁面に貼る。
みんなで眺める。
ああ、そこにはピカソもマチスもミロもいる・・・。
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2014/11/11
Vol.236 一本の線に出会うということ
昔のことだけれど、私は一本の線に尋常じゃない重さを感じたことがある。
変な言い方だけれど、それはとにかく重かったのだ。
何の変哲もないように見える黒の線が他の線とは明らかに違っていた。
紙に沈んでいるというか、紙の海に浮かんできた黒い木のような、それだけで一つの存在を形造っている。
そういうものに出会うと、そこに踏み出すことを許されていない孤独というか完結した単独というか、そういう深遠な淵があり、ただ見つめているだけなのだけれど、ぬくもりのようなものが生まれてくる。
その線はそういう性質の重さを持っていた。
私がそれを感じることができたのは、その人の描く行為を見ていたからだろう。
それがなければ、私の中にそんな重さは生まれなかったはずだ。
私と初めて会った時、その人はすでに言葉を失っていた。
私の問いかけには「うっ」とか「ぐっ」といった声で答えた。
その日、初めて彼と出会って、太い筆を差し出した。
「これで描いてみますか?」
「うっ」
彼は筆を受け取り、たっぷりと墨を含ませると、筆を紙の上に突き立てるように置いた。
それから、筆を見つめ、固まったように動かない。
筆先に異様な力が感じられた。
「大丈夫?」というと「うっ」というのでそのまま見ていた。
長い。静止した時間が長いのだ。
やはり止めようと思って、彼に手を伸ばそうとした時、ゆっくり筆が動いているのに気づいた。
墨がにじみ、紙は破れかけていた。
それでも彼は筆を見つめた姿勢を崩さず、長い時間をかけて10cm位の線を描くと、ぐらっと傾いた。
「終わり?」「ぐっ」
充血した目で私を見て、横になった。
どれほどの時間が経過したのだろう?
10cmの線を描くのに人は1秒もかけない。
しかし彼ははるかに長い時間(たぶん3分ほど)をかけ、倒れた。
それを描いた人とは音信不通になり、もう会うことはないかもしれないが、私に線の重さを残していった。
書家の井上有一の線にも同じような重さを感じることがある。
二人の線は、多分対極にあるとこらから発生し、その呼吸する速度も全く違うものだが、偶然私の中に重さを残し、それがどういう意味を持つのか私には分からなかった。
ある日、有一の文章の中に「あっ!」と思うものを見つけた。
「純粋なるが故に孤独な、孤独なるが故にあたたかく、底からにじみ出るような字を書きたい私は、アウトサイダーでありたいと思うのである。」
有一はそう意志し、日々絶筆の思いで鍛錬し、線の重さを残していったのだ。
あるがままにあることで孤独、あるがままにあるが故にあたたかく・・・二人の線は私にその重さを伝えているような気がする。
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