このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2015/01/06
Vol.250 こえる
年を越えた
外に出ると半月が海の上に光っていた。
遠く、まっくらな海に大島の灯りがまたたいていた。
なぜかずっと旅をしているような孤独な感情と
離れてしまったところに還る安堵のようなものが込み上げてきた。
天城に続く裏山から、落ち葉を踏む音がして通り過ぎていった。
鹿や栗鼠や猿たちはどんな年を越しているのだろう?
空は澄んでいた。
満天の星が輝いていた。
星が降るという使い古された言葉が素直に身体に浸みてきた。
何十億年も前に生まれた光が、
いま自分の中に流れ込んでいることに、命の道が見えるような気がした。
ゆっくり息を吐いた。
冷え込んだ外気が肺に広がると、身体と闇の境界はなくなってきた。
森の動物たちもこんな風に闇と同化し、夜の時間を移動しているのだろうか?
ゆれる木々の枝先を渡り、凍える落ち葉の海を越え、
命を食べ、命を与え、睦びあい、あらたな命を継いでいっているのだろうか?
私の中に降る光は、どんな命を継いでいっているのだろう?
深夜、一人目覚め、
山と海の溶け合う闇の中で心を開いていると、
過ぎてしまったことも、これから出会っていくことも、
同じ一つの物語で、
それは空から降ってくる小さな星の光の一つに過ぎないことが分かる。
30年前、
いまと同じように澄み渡った新年の闇の道を歩き出したのだ
小さな黒いリュックサックを背負い、
山に向かう峠道を越え、
見知らぬ街を抜け、
ひとり、
星を数え、
時に歌い、
海辺では、
百年も生きている貝の話を聞き、
防砂林に住むネコの師匠にも出会った。
そしていつのまにか
髪も白くなり、
背中のリュックもほころびてきたけれど、
仲間たちの色彩や線や形がいつも元気づけてくれた。
「ほら、目の前の一本の道、それをこえていくんだよ」
「命を紡ぐようにさ、一歩、その一歩、それが君の物語だよ」
深夜、
降り続ける星の光の中に立っていると、
太古からの石や羊歯や生き物の物語が身体の中に広がってくるような気がする。
2014/12/26
Vol.249 暮れる
暮れる
日が暮れる
年が暮れる
ワタシも、
仲間も、
あなたも暮れる
夕餉の小さな鰯も
赤子に添い寝する父も
深夜の路地を徘徊する家なき母も
あしたの夢も
きのうの悲しみも
とぎれたままの世間話も
暮れていく
遠くでくしゃみをする人も
膝を曲げて静止した人も
逆立ちのまま生きたかった人の
傷だらけの膝小僧も
そのまま暮れていく
街も
山も
海も
海辺の防砂林も暮れる
みんな暮れる
言葉を失った君は
暮れるものを
虚ろにみながら
きょうも
青い手を描いた
ゲームの密林に迷い込んだ君は
一枚の黄色い点描画を残し
いまも消息不明だ
大切なものは
溶けていく思い出の闇空に飛んで行った
そして
踏み出したワタシの一歩も暮れていく
2014/12/23
Vol.248 現代を生きる有一展への呼びかけ
先日、刺激的?な話し合いの場に参加した。
その集まりの正式名称は、「現代に生きる井上有一展(仮称)・呼びかけ人会議」という長くてかた苦しいものだが、有一を通し一人ひとりの言葉で、いまの時代の感触や表現について語り合うことができた。
井上有一(1916~85)については、もう何度もこのコラム欄に書いているのでご承知のことと思うが、1950年代~80年代の日本の書界に伝統的な技法を越えた表現としての領域を切り開き、書のみならず日本の様々なアートシーンの先端を疾駆した稀有の書家、表現者である。
その作品はいまも日本国内よりも世界において高く評価されている。
そんな有一が、2016年に生誕100年を迎えるにあたり、彼が後半生を過ごした湘南の地で有一作品の現代的な意味やその作品を検証し、現代を生きる有一を浮き彫りにする展覧会を作ってみたいという有志が集まり、呼びかけ人会議が開かれたというわけだ。
ワタシは、すでに本欄(「きょうのまねきねこ236号」)にも書いているが、有一の線と仲間の線が、その発想や手法など全くかけ離れた処から生まれたにもかかわらず、その線は、その一本の線でしか存在しえないぎりぎりの地点でつながっていることに感動し、有一に関わろうと思ったのだ。
「現代に生きる有一」については、1枚の写真と作品によってワタシの中に存在する。
それは、地べたに這いつくばるようにして、書を書いている裸の有一の写真だ。
55年も前に撮られたものだが、筆は地べたに突き刺さり、文字は書きあがることを拒否しているように見える。
その筆は現代にも突き刺さり、仲間もワタシもそのように地べたに這いつくばり、一人ひとりの表現を刻んでいきたい・・・そんなことを思わせる写真である。
もう一点は「貧」という作品だ。
有一は生涯にわたって64点の「貧」を書いたと言われている。さまざまな評伝読むと、わずか2時間半の空襲で10万人を超える人々を焼き殺した東京大空襲の地獄の光景が骨のように突き刺さり、その後の彼の表現に影響を与えていることが分かる。
教え子の泣き叫ぶ絶叫をそのまま紙に刻み込んだような「噫横川国民学校」の作品を見ていると、すべての文字が「貧」の文字と重なり合い、震え始めるような幻想に囚われる。
「貧」はそんな彼の朽ちることのない骨であり、不条理の世界に生きる姿勢のようだ。
有一が逝って30年、日常化する暴力と貧困の現代にあって、有一の「貧」は毅然と、そこに立っている。
もちろん、有一への関わり方は各人各様である。
有一に関心を持たれる方々がそれぞれのアプローチの仕方で、現代に生きる有一を浮き彫りにしていくことが出来たら、どんなにユニークで面白い展覧会ができるだろう?
そのような展覧会をぜひ多くの方々と作っていきたい。
そこには大きな美術館やギャラリーが企画する展覧会とは違った楽しさや豊かさが必ず存在します。
関心のある方はぜひ、くすくすミュージアムまでご連絡をください。
2014/12/19
Vol.247 気になる、きになる
今年一番の寒気団が日本列島を覆っている朝、
ゴミを出しに通りに出ると、いつもと違う冷気にゾクッとした。
「ああ、来ている」と、
天気予報でやっていた大きなシベリア寒気団の端っこに触れた気になった。
見えない冬の訪れ人。
ゴミ捨て場の水場も凍っている。
そっと蛇口に指を差し込むと、指先が身震いした。
見えないけれど、確かにいる。
シベリアの広大なタイガ樹林の白い衣をまとい、
海を越え、日本のこんなごみごみした露地裏にまでやって来たんだと、
その冬の人を想ってみた。
どんな顔なのだろう?
透明で、硬い冬の青空にふっと現われたり、
遠くの丹沢の山並みの上あたりで、すっと消えたりしてるんだろうか?
細く繊細な手を伸ばせば、富士山の白い頭なんか簡単につまんだりできるんだろうか?
ああ、気になる、きになる。
気なると言えば、この絵もそうだ。
余りの寒さにゴミ捨て場から駆けもどり、頭まで炬燵にもぐりこみ、
散乱している仲間の作品から4枚の絵をつまみあげた。
ほら、この絵だよ。
おどり お て い る よ
おどり の お ている よ
おどり おろで る の
とつぜん絵は歌いだす。
なんだよ?
酔っぱらっているのか?
茶髪で、オレンジ色のTシャツと黄色のパンツというのもタダ者じゃないけれど、
やけに幸せそうじゃないか!
右や左によろよろして、笑ってる。
灰色の等圧線のような帯が、この幸せそうな人にまとわりついて、
まるで空から降りてきた天女の衣のように不思議な動きをしている。
見てると、
もしかしたらこの人は、冬なのに、南に帰るのを忘れた能天気な夏の人なのではないか?と思い当たる。
で、夏の人がいるならば、冬の人はいないのかと、
ボクは仲間の作品を漁りはじめる。
ああ、気になる、きになるのだ。
冬の人はどこに隠れているのだろう?
2014/12/16
Vol.246 いっしょに流れていく
師走は、見えないものが姿を現す月なのだろうか?
それは、年末の仕事に追われる仲間の疲れたため息だったり、
フェースの帰り、一緒に道を歩く仲間の前かがみになって揺れる背だったり、
無精ひげの生えた口元をせわしなく舐める舌先の動きや
眉毛を抜いてしまった顔に浮かんでくる奇妙に間延びしたうす笑い、
爪を噛み過ぎて血のにじんだ指先や
陽ざしの中に浮かんでくる血管の浮いた手の震え・・・だったりする。
若かった仲間にも
いつの間にか月日が堆積し、
師走の風の中に疲れが、
淡い影のように、身体から浸みだしている。
そんな日曜日の朝、
駅前のフェースに行くと
1人の少女がホワイトボードに青いマーカーで絵を描いている。
「なに描いてるの?」ってきくと、
「シ・マ・ウ・マ!」
切り離したタイプ文字のような言葉が返ってくる。
大きなホワイトボード一面に、
足の長いキリン?じゃない、シマウマが描かれている。
でも、その身体の模様は、どうみてもキリンだけれどね。(笑)
ためらいのない、簡潔ですっきりとした青い描線。
小さな目と微笑みを浮かべているシマウマの口元を見ていると、
「うん、そうだね」と納得してしまう。
少女は6年生。
来年は中学生になる。
ボクは、はじめて彼女と会った五年前の日を思い出す。
目の澄んだ小さな女の子で、背いっぱい、ホワイトボードに手を伸ばし、
形にならない短い線を繰り返し描いていた。
ボクは小さな女の子の言葉を聞き取ることが出来ず、
女の子も何かを叫んだり、とつぜんしゃがみこんだり、
絡み合った毛糸玉のような二人の時間を過ごした。
二人とも、まだ新鮮な草のようだったのだ。
そんな女の子も、いまは手を伸ばすだけで、
らくらくホワイトボードに草原や雲やシマウマを描くようになった。
ローマ字や数字や漢字交じりで、絵の説明を書くようになった。
そんな風に月日は流れたのだ。
で、ボクはというと、
クリスマスの音楽が流れる師走の街を風に押されるように歩いている。
「雨は夜更け過ぎに、雪へと変わるだろう・・・」というフレーズに、
若かったころの自分を探し、ため息をついたりしている(笑)。