このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2015/02/10

Vol.260 空から降りてきた石?



不思議な絵だなあ。
大きな直方体のかたまりのようなものが画面の真ん中にデーンと置かれて、その前に13人?の小さな人たちがずらっと並んでこちらを向いている。
気になるな、そのかたまり。
何だと思う?
人物の大きさと比較すると、かなりの大きさだよねえ?
とっても重そう。
その表面にKOUKIさんの粗い筆跡が縦横に走っている。
光の移動によって色合いが絶え間なく変化してるように見える。
透明感があって美しい。
まるで黒曜石みたいな輝きだ。
こんな大きな黒曜石があったら、昔の人はカミサマの石って感じで拝んじゃうだろうね。
黒っぽいシートをかぶせているようにも見えるけれど、彼らにとってはとても大切なものかもしれない。
小さな人たちはそれを守っているようにも見えるよね、手をつなぎ合ってさ。
やはり、この人たちも気になる。
彼ら、一見パターン化されているけれど、髪型や服装や手足など一つひとつ違うように描かれている。
KOUKIさんが気持ちを入れて描いているのが分かる。
KOUKIさんは描きながら夢中になると、視線を宙に漂わせ手をひらひらさせるんだよね。軽やかな手の動きに導かれて、立ち上がり、身体が不思議なダンスしているみたいに動き出す。
ボクには、そのKOUKIさんの動きとこの人たちがどうしても重なっちゃうんだよね。
KOUKIさんは、この人たちとは別にもう一人、気になるヒトを描いている。
ゴーヤのような目鼻のない凸凹した顔の緑色のヒト。
手足や体型はほぼ同じだけれど、このヒトたちは宇宙人みたいだ。



KOUKIさんは話をしてくれないから、本当のところは分からないけれど、もしかしたら、この二人の絵のヒトは同じ人で、その時その時に顔を変えているのかもしれない。
で、KOUKIさんもその一人じゃないかなって思う時もあるよ(笑)。
彼らには、ボクには入っていけないところで自由に生きている人のような軽やかさがあって、実はうらやましい。
小さな人たちがKOUKIさんの頭の中に現れる時、この石も空から降りてきて、KOUKIさんの後頭部の辺りに浮かんでいるのかもしれない。
まるで彼らを乗せ、宇宙から降りてきた石の船のようにね。
どうして彼らは現れてくるんだろう?
フェースには、KOUKIさんとは違った小さな人たち(リトルピープル)を描き続けているI.タカシさんもいるけれど、気になってしようがない。
いつの間にかボクの身の回りをウロチョロ。
記号のように連続してつながり、現れたり消えたり・・・。
彼らはどこからか、何かを運んでるのだろうか?
何か、大切なメッセージ。
KOUKIさんの黒い石はその謎を解くブラックボックスのように、透明に輝きながら、ボクの中で膨らみ始めている。




2015/02/06

Vol.259 大切な時間



長い間、フェースに集まる仲間たちと一緒に絵を描いていると、紙面に向かう時の息づかいや指先に向かって流れる集中力のようなものが見えたような気になることがある。
その一瞬に声をかけたり、筆や絵の具のチューブを差し出したりする。
うまくいけば、それで仲間の想いが一気に紙面にあふれ出る。
紙面に色彩や線が走り出し、交錯し、はじけて、何かが姿を現してくる。
しばらくすると、また停滞が訪れる。
意識は拡散し、彼の視線はいろいろなものの上を漂っている。
ワタシには触れることのできない宙を飛んでいる。
ワタシは、彼が還ってくるのを辛抱強く待つ。
その時、孤独を感じる。
暮れていく海辺に座り、心細さに耐えている少年のような気持ちになる。
河口の砂州が、潮の満ち引きに合わせ姿を現したり隠したりする、そんな大きな呼吸の中で、小さな孤独に向かい合っている。
それが仲間たちとワタシの基本的なスタンスだ。
それがワタシに大切な時間だ。
北風の吹く夕暮れ、駅前ビルの一室。
きょうも仲間たちが集まってくる。
仲間たちは作業所の衣を脱ぎ、生徒の殻を破り、自分に戻る。
それからその日の紙に向かう。
一人ひとりの中にその時間の呼吸が生まれる。
小さな想いが集まり、あふれだしそうになる。
その時だ。
それまで止まっていた手の中のローラーが突然走り出す。
紙の上に盛られた赤い絵の具がローラーに伸ばされ、鮮やかな火の帯になって拡がっていく。
それが突然反転し、やがてかすれ、静止する。
すると、無造作に机の上に放り出した絵の具のチューブをつまみ上げ、驚くほどの量を紙の上に絞り出し、またローラーで伸ばし始める。
それまで火のように燃えていた紙の上に黒い芯のようなものが現れる。
ローラーは斜めに走り、垂直に下り、いくつもの炎の暗い影がいたるところで踊っている。
すごいものが現れてきたなと思う間もなく、それは黄濁し、緑濁し、紙の底に沈んでいく。
やがて彼の手は、しだいに緩慢な動きになり、ローラーから離れる。
ワタシはまた待つのだ。
その繰り返し。
すっかり暮れた夜に浮かぶ巨大な水槽のようなビルの一室。
仕事や学校を終えた仲間たちがそこに集まり、あやしい夢を見るカエルやロシアの大地に点在する農家や砂漠の四角い顔、木々の間に遍在する光の粒つぶを産みだし続けている時間を誰が知っているだろう?




2015/02/03

Vol.258 おろおろ歩く



未明、目を覚ますとつらいニュースが流れていた。
ISに囚われていた後藤健二さんが殺されたという。
身体の奥深いところを引っ掻いていくものがある。
じっとしていられず、近くの林をやみくもに歩いた。
前々日に降った雪がまだらに残り、湿ったモノトーンの静かな時間が水のように流れている。
地面には、朽ちた葉が重なりあい、にじみ出てくる冷たい水が足裏を濡らす。
人影のように立つ木立が微妙に姿を変えている。
どこに自分が向かおうとしているのかわからない。
息苦しくなり、胸にたまったものを石のように吐き出す。
嘔吐するように身体を折り、息は地面に落ちる。
涙が出る。
鼻汁が出る。
嗚咽するように身体が震え、止まらない。
しゃがみ込んで耐えていると、
地面に葉脈を残した朽ち葉が無数に広がっているのが見えてきた。
これが土なんだ。
こんな風に生きているものは絡み合いながら朽ち、モノになり、土になり、石になり、水になり、やがて虫やカエルや猫や草や人になる。
人には気の遠くなる時間と小さな命を越えた見えないサイクル、
それら全部をひっくるめて、それが生命なんだと不意に何かとても大きなものが見えたような気になった。
それが一瞬、身体の中にひろがり、つき抜けていった。
すると、気管につまっていた息が崩壊し、ゆっくり本来の呼吸が戻ってきた。
なぜか最近、辻堂の防砂林に隠遁するネコの師匠に会っていないことを思い出した。
本格的に寒くなり、師匠はどんな冬を過ごしているんだろう?
海辺に捨てられたテレビのサンドストームの画面を見ながら、今朝のニュースを見ているのだろうか?
師匠は何ていうのだろう?
河口に流れ着いたバス停の時刻表を見ながら、来るはずのないバスを待っていたおばあさんは、うまくバスに乗れたのだろうか?
もしかしたらそのバスには後藤さんも乗っているかもしれない。
海辺で百年生きている貝は、今朝の悲しみをその殻の模様に刻み込んだのだろうか?
次々と未明の同じ時間を生きている仲間たちのことが頭に浮かんできた。
目の前の一枚の朽ち葉をつまみあげ、空にかざした。
迷路のようになった葉脈を透いて、
暗かった空が割れ、
わずかな陽射しが林に射しこんできた。




2015/01/30

Vol.257 Gさんへの手紙



きのう、みかん届きました。
ありがとうございました。
たくさんのみかんがダンボールの中で押し合いひしあい、そのつやつやした黄色い輝きを見ていると、あなたの住む佐賀の温もりを感じます。
ところであなたが書いていた鉄塔の画家、
いつも帽子を目深にかぶり、姿を隠すように父親や母親につきそわれてフェースに来ます。
寡黙で、絵を描きたくない時は窓辺にいて、遠くの風景を見ています。
昨年春に高等部を卒業し、いまは作業所に通っているのですが、まだ自分の居場所を見つけられず、一人の世界に閉じこもりがちのようです。
彼の繊細な鉄塔に惹かれる人は結構います。
孤独な想いが鉄塔を通して世界に発信されていて、それを受信する人びとが存在するという事実。そのことが、フェースofワンダーという小さな営みを続けているワタシのようなものにも慰めを与えてくれます。
表現という一人ひとりの困難な道を辿っていけば、いつかは大きな時間や感情とつながり合っているという希望がそこにはあるように思われるからです。
鉄塔の画家の絵を見てあなたが感じられる「不幸のかたちはさまざまだけれど、幸せのかたちは単純なんだ」という想い。
それを読むとワタシは「よあけ」というユリ・シュルビッツの絵本を思い出しました。
夜明け前の湖におじいさんと孫の少年が小さなボートをこぎ出す。ひろがるさざ波、かすかに染まっていく湖面、湖上の静かな時間・・・それだけの話ですが心に残ります。
幸せという一つの形を伝えてくれているようです。
あなたの好きなG・バンサンの作品にもやわらかな描線の向こうに広がる人生の感情のようなものが感じられます。
今年に入ってずっと枕元に彼女の画集や絵本を置いていますが、なぜか長時間それを見続けることができない。ぱらぱらとめくって気になるページがあると、しばらく眺め、それから自分の歩んできた人生のシーンを思い出したりしています。
あまり世間では話題に上がりませんが、彼女が本名のモニック・マルタン名で描いている油絵も結構好きです。人生の一瞬を切り取った簡潔な構図、色彩、流れていく時間に対する静かで謙虚な姿勢が伝わってきます。
ああ、まさしくワタシとは正反対なのです(笑)。
彼女の写真を見ていると、若い頃よりも年をとってからの表情が美しい。
澄んだ視線がまっすぐ伸びているのです。
もしかしたら、ワタシは彼女に恋し始めているのかもしれません(笑)。
彼女のような絵本を制作することは不可能ですが、仲間たちが教えてくれた大切なことを少しでも残すことができればと思っています。
新作の焼き物、楽しみにしています。
ではまた
まねきねこ拝




2015/01/27

Vol.256 待つ人びと



ああ、
みんな疲れているね。
小田急線新宿駅午前零時三十分、
30cm四方の小さな空間に立ちつくし、
わずかに口を開き、
視点の定まらない目を宙に漂わせ、
じっと最終電車の到着を持っている。
駅のベンチには
脱力した両肩を垂らし、
猫背の背骨を背もたれに押し付け、
崩れそうになる身体をどうにか保持し、
忍耐強く待ち続ける人びと。
日付が変わった深夜零時35分、
3分後には相武台行の最終電車が出発し、
4分後には向ヶ丘遊園行の最終電車が去っていく、
17分後には経堂行の電車が姿を消していく。
まるで人生のように電車たちも逝くのだ、
かくじつ?にね。
ああ、
つらいね、
この絵、
イコン(聖像画)なのだろうか?
救いはどこにあるのだろうか?
魂を失った人びとは、
白い抜け殻のように透きとおり、
何かの到来を持っている。
疲れと沈黙と虚無の時間が流れている。
ネオンカラーのような極彩色の灯りは、
人びとの形をした不在を静かに照らしている。
その間を一匹の象が水のように流れている。
象の目だけが見るべきものを見ている。
きょうも一日が終り、
またきょうが始まる・・・

この「待つ人びと」を描いたのは、KAZUYA画伯。
電車、駅フェチで、彼もさまよいながら連作のように駅の構内を描き続けている。
彼の絵は描かれたものだけが存在する絵ではない。
見えない穴のようなものが浮遊していて、ワタシたちの凡庸な頭では考えられないものが現われたり、いた筈のものがいつの間にか姿を消していたりする。
「待つ人びと」を見ていると、世界はそのように存在し、ワタシも何かを待つ一人なのだということに気づく。