このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2015/03/17

Vol.270 暮れていく春



つま先辺りにまで来ていた昨日の春が、
きょうは足首あたりでふわふわしてる。
この時期は、どうにもモノウイね。
年をとるとますますひどくなる。
でも君たちを見ていると、
「まあ、そんな感じで生きていればいいか」って
ゆるゆるな気持ちになる。
黄砂が吹く朝、
燃えるゴミを両手に持って外に出ると、
腰をふりながら路地の角にきえていくのは
濃い化粧好きの女王熊である。
パステルカラーのフリルを見たような、
見なかったような快活な気分になる。
風化する一方の記憶の砂を
少しばかりばらまくために散歩に出ると
いつのまにか膨らんだ木蓮の
やわらかな和毛に包まれているのはラクダの君である。
君のシルエットが
幾つもに分裂しながら曇天の空に登っていく。
ああ、そんなキャラバンの人生も悪くないなと思ったりする。
耳鳴りが
透明な五線譜のように
沖に向かって遠ざかっていく深夜、
ふくろうである君は
岸辺にとり残された小さな貝の
ため息の物語をボクに聞かせてくれる。
ゆるゆるの動物たちよ、
修正ペンで描かれた君たちの
まる、さんかく、しかく
君たちのおかげで
春の一日は
足下を照らす灯りのように
いとおしく暮れていく。




2015/03/13

Vol.269 うつらうつら



手元に小さな詩集がある。
哲学者鶴見俊輔の「もうろくの春」という詩集。
ボクは個人的には彼を知らないが、遠くから彼を見たことは何度もある。小太りで眼鏡をかけ、時々目を細めうなづく彼は、昔のムーミンに出てくる、ユーモラスで一癖ありそうな生き物のように見えた。カリカリとがった文化人や学者の中で異色の存在だった。
そんな彼が80才の時に出版したという小さな詩集が年月を経て、漂着するようにボクのところに流れ着いたのだ。
それを持って海辺に出た。
北風が強いので、防波堤近くのブロックの隙間に身体を押し込み、ひらがなの多いページを開いた。
陽のあたる紙の上には、彼のことばが虫の糞のように、まるく、転がっている。
ことばの一個ずつに、やわらかな灰色の影がついている。
うまくことばが追えない。
で、しかたなく目を閉じて、陽射しの温もりを感じていた。
まぶたの裏には橙色の層が広がっていて、そこをせっせと太った虫のような彼のことばがいったりきたりしている。
するとみえてきた。

「寓話」
きのこのはなしをきいた
きのこのあとをたどってゆくと
もぐらの便所にゆきあたった
アメリカの学者も知らない
大発見だそうだ
発見した学者は
うちのちかくに住んでいて
おくさんはこどもを集めて塾をひらき
学者は夕刻かえってきて
家のまえのくらやみで体操をしていた
きのこはアンモニアをかけると表にでてくるが
それまで何年も何年も
菌糸としてのみ地中にあるという
表にでたきのこだけをつみとるのも自由
しかしきのこがあらわれるまで
菌糸はみずからを保っている
何年も何年も
もぐらが便所をそこにつくるまで

「かたつむり」
深くねむるために 世界は あり
ねむりの深さが 世界の意味だ

そうなんだ、
そんな風に世界はできているんだ。
そう思うと、なんとなくありがたい話を聞いたような気持になり、ボクはうつらうつらした。




2015/03/11

Vol.268 雨の日のワークショップ



3月7日の朝はあいにくの寒い雨だった。
ボクは近くの林から採ってきた背丈ほどの木枝10本をバッグに入れてバスに乗った。
土曜日の朝ということもあり、バスは比較的空いていてホッとした。
ボクの隣にはおばあさんが座っていて、とつぜん木枝に手を伸ばし、それを撫ではじめた。
邪魔なのかなと思って、立ち上がろうとしたら、木枝をギュッと握って離そうとしない。
おばあさんの表情は穏やかで不快な様子もない。
昔を思い出すように木枝を触って頷いている。
ボクはそのまま黙って座っている事にした。
バスが駅に着き、降りるときになってもおばあさんは木枝を離そうとしないので、乗客が降りるまで待って、木枝をおばあさんにさし上げる事にした。
おばあさんは嬉しそうに表情を崩し、人ごみの中に消えて行った。
ワークショップ会場の蔵まえギャラリーには30人を超す人たちが集まってきた。
小さな子どもたちから80歳を越す先輩までいろいろな人たち。
ワークショップの始まる前からみんなの好奇心が土間や和室を流れ始めている。
声を張り上げ、説明を始める。
「ほら、こんな風に木の先っぽに筆やスポンジ、へちまなんかをつけて何にも考えずに線を引いていってくださあい。何か書きたい文字があればそれを書いてもいいですよお。きょうはとにかく筆を作ってかくことを楽しんでくださあい」
どこまで言葉が届いているのか分からないけれど、みんなが動き始める。
自在な動き、もう言うことはない。
それぞれが自分のスタイルでかきはじめている。
紙は手で好きな大きさにちぎり、
雑巾を丸めた筆は太い線を、
しなる竹の先端につけた綿棒は細いかすれた線を、
くしゃくしゃに丸めて展げた紙にはくしゃくしゃの折れ跡が墨と交わっている。
うつむいたり、正座したり、身体を捻じ曲げたり、一人ひとりの描くスタイルは、それがもう一つの線のように自然で美しい。
「もう紙ないの?もっと描きたあい!」20m近く合ったはずのロール和紙はいつの間にかなくなっている。
「紙がなくなったら新聞紙に描いてってくださあい!かいたものの上ににどんどんかき足していってもいいよお」
そんな風にして1時間半が過ぎて行った。
いつのまにか雨が上がり、ガラス越しに薄日が射していた。
足元には重なり合った文字や線が散乱し、増水した濁流のように波打っている。
それを見ていると、なぜかボクは朝のバスのおばあさんのことを想った。
おばあさんは、雨上がりの路傍に座り、水たまりの上に木枝で何かをかいている。
ボクはその線を見たいと思ったが、うまく像を結ばない。
それでも、ボクはおばあさんとももう一つのワークショップをやったような気がして嬉しくなった。




2015/03/06

Vol.267 時を積み上げる



水俣に住んでいる友人からちよっとうれしくなるメールが届いた。
作業療法士でもある彼は、かの地でお年寄りのデーサービスや障がいのある仲間たちの支援事業を重層的に展開する一方で水俣病の語り部もやっている。
とても忙しい日々を送っている人だ。
そんな彼が以下のようなメールを送ってきたのだ。

「きょうのまねきねこ」拝見しました。
最近は、私は前や上ばかり見て、次の時間を気にして生きている感じですが、
まねきねこさんは、自分の手足が届く足もとだったり、隣だったり、風や雨や落ち葉など、自然が自分の身体を通り過ぎる時間そのものの中で生きている印象です。
先日は、久々の時間休を取り本屋で好きな本を大人買いしました。
気の向くままほしい本を買うことができる今は幸せと思いました。
少し力を抜くことができました。

抜粋だけれど、ボクはとてもいい文章だなと思った。
水俣の地に根ざして、協働、共生のつながりを作ろうと30年近く突き進んできた彼の構想力や実行力、意志力に、ボクはいつもただただ驚嘆するばかりなのだが、そんな彼がこんなに素直に自分を見ている、その視線が澄んでいると思ったのだ。
誤解のないように補足しておくと、「前や上ばかりを見て」という言葉は、彼が一般的な意味での上昇志向、ステータス志向の持ち主ということでは決してない。
彼は一つひとつ石を積むように、地域の人々と共に生活し、共に老いていくことができる空間を作ってきた人なのだ。「上」というのは、彼が構想しているそんな重層的な空間(共生社会作り)を建築中の建物のようになぞらえていったものだ。
額に汗し、石を運び、積み上げ、未完の建物を見上げながら、まだまだこれからだなと自分を律して日々を生きている彼の姿が浮かんでくる。
そんな彼が、休暇を取ってほしかった本を大人買いで買ってしまう。
その時に感じた小さな幸せ・・・
そんなあるがままの自分を認めると、少し力が抜けたような気持になる。
微妙な心の流れ、それを言葉にして送ってくれる。
それがボクを嬉しくする。
これも見えない一つの共生空間なんだろうなあとボクは思うのだ。
多分、ボクらのまわりには同じような見えない無数の糸がはりめぐらされていて、様々な情報や想いや感情がひと時も止むことなく走り回っているのだろう。
それは、時に見えない鳥かごのようになってボクらを閉じ込め、息苦しくさせたり、疲れさせたりするけれど、そこに積み重ねていく時間をボクらが持つことができた時、そこにはもう一つの希望や共生空間が生まれるかもしれないと思ったりする。
この「くすくすミュージアム」が生まれて3年近く、ボクらは少し時間を積み上げることができたのだろうか?




2015/03/03

Vol.266 エイトさんの鳥をみながらEric Claptonをきく



よく晴れた朝、
窓辺に椅子を持ち出してEric Clapton(EC)を聴く。
友人が送ってきてくれた「UNPLUGGED」というライブ盤。
一曲目のSigneの冒頭から口笛や拍手が聞えてくる。
それから軽くステップを踏むようなアコースティックギターの音
ベランダの洗いたてのシーツが風をはらみ、影と陽射しを室内に送ってくる。
青空と白と灰色のシーツの色
ボクは手に持ったエイトさんの鳥の絵を眺める。
一枚目は黒と青と緑の鳥
赤い靴が可愛くて、少年っぽい鳥だ。
目から黒がはみだし、涙のように見える。
泣いているのだろうか?
少しうつむいて、じっと我慢している感じ。
何かを思い出し、後悔しているのかもしれない。
羽を広げ、そのまま飛び立っていくのをためらっている。
ECはゆっくりTears in Heavenを歌っている。
前世期のイギリスのブルースだよ。
天国の涙
小さな君もそんな涙を流したことがあったのだろうか?
これから何度、そんな涙を流すのだろう?
丁寧にリズムを刻んでいくECの指の動きが波のように広がっていく。
朝の風には潮の匂いが混じっている。
もう一枚のエイトさんの鳥をみる。
こちらは明るい硝子タイルのような鳥。
分割され、増殖していく色彩、
まんまるな深緑の目、
Kの逆さ文字のような脚
鮮やかなスカーフをひるがえして何かを待っているのだろうか?
疑いを知らない無垢な魂が手の中に置かれている。
身体を傾け、ゆっくり手を動かしているエイトさんの静かなシルエットが浮かぶ。
禅僧のように描くことだけに集中しているフォルム。
言葉を話さないエイトさんのことばがこの絵の中にあるのは確かなのだろうけれど、ボクはまだそれを聴くことはできない。
曲はいつのまにかRunning on Faithに変わっている。
ドラムと絡み合って流れて行くスローなギターとECの声。
あわただしい日常を漂白するような冬の朝の時間。
陽射しがセーター越しに肩先をあたたかくする。
ふと北大西洋から渡ってきた風を感じる。
もちろん行ったことはないけれど、ECの生まれたイギリス南東部にあるサリー州の海辺の坂道には、いまも君のようにうずくまって夢見ている少年がいるにちがいない。