このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2015/04/03

Vol.275 想いは風にのせて



昔、仲間たちと描いた絵の画像がメールで送られてきた。
「風の道」と題された壁画だ。
いまも丘の上の学校の玄関先に飾られている。
見ていると、20年近く前の仲間たちと過ごした日々が蘇ってくる。
風の通り道にある学校だった。
桜の季節になると終日、花びらが丘を吹きぬけていった。
鳥たちの影が教室の窓をよぎっていった。
鳥や花や風が学校の建物に閉じ込められているボクたちを誘惑していた。
ある日、
そんな誘惑に誘われるように、ボクたちは絵を描きはじめたのだ。
玄関先の広いフロアーに、2枚のベニヤ板を広げ、
アクリル絵具やクレパスで風に吹かれる花々を描いた。
車椅子に乗った子どもたちや
横になったままゆっくり手を開く子どもたち、
飛び跳ねることの大好きな中学生や思春期の不安な想いにゆれる高校生たちが
好きな色で1本のなぐり描きの線を描いた。
好きな時間に、
好きなスタイルで、
好きな色を一筋描いて、
自分の日常に戻る仲間たちが増えていった。
その線は100本になり、1000本になり、
やがて数えきれない数になって、空に拡がっていった。
空には青い鳥が舞った。
空を引っ掻いているような不安な鳥たち。
指に絵の具をつけ、
寝転がりながら、
言葉にならない声をあげ、
青い叫びを塗りたくっていった仲間たちが空を舞っているのだ。
ボクらの想いはどこに届けられたのだろう?
送られてきた絵を見ていると、
丘の上の淡いピンクの建物に閉じ込められた仲間たちの
歓びや悲しみや怒りや絶望が
いまも風にのって吹きわたっているのが
ボクには分かる。




2015/03/31

Vol.274 『反アート入門』を読む



花の影が揺れる午後、
昨年の秋から手元に置いて、指でたどるように読んできた本を閉じた。
三つの季節が流れていた。
共感したり、反発したり・・・いくつものイメージが湧き上がり、沈んでいった。
もうそのイメージのほとんどは蘇ってこない。
しかし、フェースの仲間たちと絵を描く時間を持つように、
ワタシはこの本を開く時間を楽しんだ。
芸術という国家や宗教、ビジネスと表裏一体となった権威をひき降ろし、
アートという浅薄な言葉を嫌悪し、
それでも目をそむけず、言葉を絞り出している。
著者はワタシよりも一回り若い気鋭の美術評論家?椹木野衣さん。
ワタシは、ぎこちなく言葉を紡ぎだす著者の姿勢に人生の淡い愉悦のようなものを感じていた。
一節引いてみよう。
・・・畢竟、人生の至言などというものは、「人はみなひとりで生まれひとりで死んでいく」ことに尽きると言えます。(だから個性ではなく孤生と書いたほうがいいのです。)わたしが、芸術は元来その人の生き死にと表裏だというのは、そうしたことにほかなりません。ピラミッドとかギリシア・ローマ彫刻といったものは、時には神話や権力のほうに傾きすぎて、この弧生と呼ぶべきものを、科学とは異なる仕方ですが同様に打ち消してしまいます。芸術においてわたしたちが取り戻すべきなのは、そうした壮大で根拠のないフィクションではなく、石のようにかたく孤独な人の生の結晶と呼ぶべきものなのです・・・。

「石ノヨウニ硬ク孤独ナ生ノ結晶トデモ呼ブベキモノ」・・・
ワタシは冬の陽射しの下で、その言葉をイメージしながら、うつらうつらと季節を過ごしたのだ。
ワタシの中には、仲間たちの作品が幾つも浮かんでいた。
TARO画伯の絵に、最近現れた触覚のある三頭身の黒い人・・・
少しずつ成長し、世界に散らばっていく「種の人」・・・
かたくなに一方向に歩んでいくリトルピープルたち・・・・
作品たちは、まるで湧水のように現れてくる。
しょう紅熱のように斑点の浮かぶ病んだモナリザ・・・
画面に焦点を合わせたまま静止する青い手・・・
(ああ、そういうことなのだ)

・・・だから、そのような弧生の現れとしていま、わたしの念頭に漠然とあるのは、誰もが参加することができるような、何か流動的な生そのもののような芸術です。それが日々、日常のものであり、かつ創作者と鑑賞者が交換可能であるような芸術です。文字どおり、それは万人のものです・・・。

多分、著者の念頭にはないだろうが、ワタシが仲間たちと一緒に生き、年を経ていきたいと願っているフェースofワンダーの活動は、この言葉の延長上にあるのだ。
それから、いま現在進行形で取り組んでいる「現代を生きる井上有一展」展も。
そんなことを想いながら、
ワタシは花の影を栞にするようにページを閉じた。




2015/03/27

Vol.273 仲間たちの作品を見ていると…



仲間たちの作品を見ていると、
生きていることを忘れるときがある。
ふうっと風が吹き、
目の前にある作品が見えなくなる。
線や色彩や形が
うっすらと崩壊し、
作品を持っていた私の手や
作品を見ていた私の目や
作品を見ていた部屋も
私がそこにいた時間も
音もなく消滅する。
ながい間、
翻弄されてきた不安や怖れ、
欲望、悲しみ、希望、喜び・・・
私を形造っていたそんな輪郭線も喪失している。
かって、
私だったものがいた場所を流れていた
センチメンタルな青い息も静かに途絶え、
ガランとしたものが転がっている。
命名されることもなく
そのままに、転がっている。

仲間たちの作品を見ていると、
まっすぐにあふれてきたものの、
匂いや重さや声や
あるがままのそれらを
受け止めることがどんなに困難で
どんなに深い喜びに満たされるものかを
教えられる。

仲間たちの作品は、
そんな風にして私を解体していく。
私を解放していく。




2015/03/24

Vol.272 木蓮の舞う朝



日曜日の朝
いつもとは違う道を歩いて駅に向かった。
春先の青空が広がる道。
丘の上の公園を抜けると、遠くに高尾の山や街が広がって見える。
片すみにはベンチがあり、誰も座っていないのに妙に華やいでいる。
ベンチを覆うように木蓮の枝が伸びていて、白い花が揺れているのだ。
近づいて見上げると、春の空に花びらは鳥のように見える。
昔、このベンチに座り紙飛行機を飛ばした春の午後があった。
やわらかな手足を持て余し、どんなところにも行けると思っていた頃の、
みずみずしい日々の大切さも知らなかった。
ただ、空に向かって投げ上げた紙飛行機の行方をじっと見守っていた、
その頃のボクがいまもそこにいるような気がする。

木蓮の花が咲く季節は、
仲間たちの心身にも微妙な波が広がる。
フェースに集まってくる仲間たちの数も減っていく。
ポツンと空いた椅子を見ていると、
見えない籠に閉じこもり、
青いため息を垂らし、
昏く燃えている仲間の背が見えるような気がする。
どんな言葉をかけていいのか分からず、
不在の椅子のまわりをおろろと回る自分がいる。
それでも、春はいたるところで命の芽吹く季節だ。
その朝、
様々な色を重ねて、一心に新しい「種の人」を描く仲間や
画用紙に描かれた一本の美しい虹を満足そうに見て微笑む仲間の姿に
ボクは心打たれた。
ここにも木蓮の白い花びらは降り注いでいるのだ。

時は様々な貌をして、ボクらの間を流れて行く。
静かに花びらを落とす木蓮の下にいると、
そんな時の流れが見える。




2015/03/20

Vol.271 もう一つの作品



先週、太陽の家でシュレッダー紙を使ったアートワークショップを行った。
集ってきたのは太陽の家で働く保育士さんや支援員さん、地域ボランティアのお母さんや子どもたち。それから今回は放課後、施設を利用している中学生や高校生など障がいのある仲間たちも飛び入り参加。
今回は、水性接着剤(ボンド)を使ったので大変だった(笑)。
シュレッダー紙を水で薄めたボンド溶液につけて、ダンゴ状のボールを作っていくのだけれど、べたべた感がすごい!おまけに、古くなったボンドをこの際使い切ってしまおうということで、それを使ったから酸っぱい匂いが充満(笑)。
やる気満々の飛び入り参加の仲間たちも、うわーって感じで退いていく(笑)。
それでも「さあやろうぜ!」と声をかけてスタート。大きなおにぎりのようなものからテニスボール、小さなにぎり寿司くらいのものがどんどんできてくる。
それを草原をイメージして緑色に塗った模造紙に貼り付けていく。それから、丸く切った色紙をそのシュレッダーの上に貼りつける。そこに目鼻をつける。
何を作っているかというとシュレッダー紙の羊たち。
1時間もすると、50匹の個性のある羊たちが草原を群れている。
最後に、床や机に飛び散ったシュレッダー紙やボンド、絵の具をみんなで雑巾を持ってふき取っていく。片付けがワークショップのメインの活動だなとついつい思ってしまう(笑)。
(参加された皆さん、本当にお疲れ様でした!)
帰りの電車の中、ボクはうつらうつらしながら、その日のワークショップを振り返った。
その日、ボクの心に最も残ったものは、制作現場に生まれている優しさに満ちた空気感のようなものだった。何と表現したらいいのかよく分からないけれど、それに包まれていると、自分が自分らしくいられる・・・そんな感覚的なものだ。
ボンドのべたべたが嫌な人は、羊の色を塗ったり、雲を切り取ったり、シュレッダー紙を集めたり、水洗い場にパレットやバケツを持って行ったり・・・みんなが自分のリズムで自然に動き、休憩し、いつのまにか羊たちが生まれている。
活動から疎外されたり、パニックになったりという人が一人もいないのだ。
一人ひとりが、自分の想いで活動に関わっていっていいんだという、あるがままの受容感に支えられている。
きっとそれは、その場限りの一期一会的なワークショップでは生まれっこないものだ。
積み重ねていって初めて生まれてくる微妙な感覚だ。
普段は同じ施設を利用しながら、一緒に活動することもなかなかかなわない人たちが、仕事を離れ月一回のワークショップに集まり、一つの作品を協働で作っていく1時間ほどの時間を過ごす。そこでは支援者―被支援者という日常の関係も超え、制作をとおして自分であろうとする楽しさ、心地よさを感じていく。
それを積み重ねていくことで生まれるやわらかな関係、空間、時間。
そんなものがその日のワークショップに現れてきていたのかもしれない。
それは作品とは違った形でみんなが作り上げた、もう一つの作品のようだ。
電車の揺れに眠りに落ちながら、ボクはニヤニヤしていたかもしれない。