このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2015/04/21

Vol.280 ワークショップは生きている



先週末、海辺近くの「太陽の家」を会場にして二つのワークショップを行った。
内容は同じ。
手作り筆で線や文字の表情を楽しむ。
参加してくるメンバーは違う。
一つは月一回の連続ワークショップに参加しているメンバーで、2、3才の小さな女の子や放課後の活動に参加している中学生、施設の介助員さんや保育士さん、地域のお母さんなどで、もうすっかり顔なじみになっている。
もう一つは、「現代を生きる井上有一展」のワークショップの一環で、公募参加の不特定の人たち。フェースの仲間もこちらに参加している。
二つのワークショップを二日間連続で持つようにしたのは、もっぱらボクの都合によるものだけれど、今回のワークショップが体育館の二階のフロアに新聞紙やシートを敷いたり、かきあがった文字や線を乾かすスペースを用意したりと、結構準備が大変なものだから、一回の準備、後片付けで済むようにという思惑もあった。
二日連続でやるのはきついだろうなあって不安はもちろんあったけれど、まあどうにかなるだろうっていつもの楽天的な気分で、潮風に吹かれながら駅からの道をふらふら歩いて会場に通った。
上天気で砂の飛ぶ初夏のような陽射し、公園の松林の中で折れた枝を拾って、これは今日の筆代わりになるな、なんて考えながら歩いていると、いつのまにか日常の自分からワークショップで遊ぼうとしている自分に変わっている。
この解放されていく感じが好きで、この気分で参加者を迎えることができたら、ワークショップは成功なんだという確信が生まれる。
(そう、ボクのワークショップは、もうこの時点で始まっていて、あとはどんどん参加してくる人たちを巻き込んでいっしょに遊ぶだけなのだ。)
「きょうはみんなで作った筆で、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を一文字ずつ書いていきましょう!雨の模様や風の顔が浮かんだらそれも描いてくださあい!」
「きょうは井上有一の『どうじょうはどじょうで』を書きましょう!水の中のあめんぼうやフナやゲンゴロウが見えてきたら、それもどんどん描いていってくださあい!」
紐の先っぽや竹ひごの先の綿棒、太い雑巾筆からいろいろな表情の線が生まれ、身体にまといついてくる。
「どんどん線を重ねていきましょう!思いのままにどんどん紙いっぱいに広げていきましょう!墨で真っ黒になっていいから遊んじゃいましょう!」 そんなことを二日間、叫びながら参加者が描いた線や文字や模様の水辺を走り回った。
掌や足裏に逆さ文字が文様のように付いて、ボク自身が動く線のようになる。
参加者も同じである。
大きな紙の上に、手足を汚した仲間たちが声をあげ、走り出し、交叉し、線になり、響きあっている。
賢治や有一は、自分の言葉がこんな線になって自由に動き回り、人々の顔を輝かせるようになることを想像したことはあったのだろうか?
畑の土を憂鬱そうに見下ろす賢治の顔や口をへの字に結んだ、怖そうな有一の顔が浮かんでくる。
で、ボクは二人に伝えたい気持ちに駆られる。
「あなたたちの言葉は、こんな風にいまも生きていますよ」と。
彼らは少しは微笑んでくれるだろうか?




2015/04/17

Vol.279 わたしをよくみたまえ



「わたしをよくみたまえ」
チロルハットをかぶったちょうネクタイしはワタシにいう。
そういわれてもこまるのである。
みているのだけれど、
ほんとうにみてるのだろうかっていうきになるのである。
みているじぶんがおかしいんじゃないかっていうきになるのである。
「なにをとまどってる?」
「ほら、めのまえにいるじゃないか?」
いや、あるべきところにない。
いや、ないわけじゃないけれど、かたよっているのである。
それではどうにもおちつかないのである。
「ほら、よくみたまえ」
「わたしをみたまえ」
いわれればいわれるほどこまるのである。
にげだしたいきになるけれど、
いつのまにか
やんわりあみをかけられておいこまれている。
にげだすにはおそすぎるのだ。
「ふふふ、きがるにいってくれていいのだよ」
「おかしいならおかしいといってくれていいのだよ」
いや、たしかにおかしいといえばおかしいのだけれど、
ほんとうにおかしいのかといわれれば、
やはりおかしくないのかもしれない。
いちどいってしまえば、
とりけせないことばはある。
ついだんげんしてしまったことばのせいで、
やわらかなあいまいさでなりたっていたせかいが
いっきにくずれてしまうことはよくあることで、
そんなかんようのないセカイは、きらいなのである。
まるで
ぐらぐらしているせかいは、ワタシのことばひとつにかかっているようなきになるのである。
「ほら、もっとよくみたまえ」
「もっともっとみたまえ」
「めをそらさず、わたしをみたまえ」
なぜそんなにおいつめてくるのだろう?
ここはほうていなのだろうか?
さばかれているのだろうか?
チロルハットをかぶったチョウネクタイしは
えたいのしれないほほえみをうかべながら
ワタシのことばをまっている、
さいばんかんのように・・・。




2015/04/14

Vol.278 冷たい雨、あたたかい絵



昨夜から降り始めた雨は樹上の桜を小気味よいほど散らしていた。
白い花びらが道を覆い、
水たまりに浮いた桜は風を受けてわずかに揺れていた。
水面に映った灰青色の空が暗く光っていた。
毎年のことだが、
桜が散る雨は無残な死をイメージさせる。
散乱した白い花びらが、無数の弾痕を思わせるのだ。
日常に隠れている痛みや傷口が冷たい雨に打たれている。
しゃがみ込んで
指先に濡れた花びらをはりつけた。
目の前に持ってきて、じっとみていると、
青いため息のようなものがなめらかな白い花弁に浮き上がってくる。
この季節が人をつらくさせるのは、この青のせいなのかもしれない。
毎年そんなことを想う。
そんなことを想いながら、どうにか生きてきた。
この朝もそうだった。
で、その朝、
ボクは、とりあえず重い一歩を踏み出す。
それから次の一歩。
足下の4月の空を踏み砕く。
イチ、ニ、イチ、ニ・・・
桜を蹴散らしているうちに、仲間たちのところに辿りつくだろう。
(「行キ暮レレバ、トリアエズかけ声ナノダヨ」、そうボクに教えてくれたのは、辻堂の防砂林に住むネコの師匠だった)
そんな気持ちで仲間たちの待つフェースの現場に行くと
中学生になった彼女が
ホワイトボード一面に何かを描いている。
鼻歌は聞こえないけれど、
軽やかに
嬉しそうに

ダンスをするように とてつもなく自由な線を描いている。
海の絵だ。
水面はゆれゆれ
自由気ままにケレンミなく、ゆれて広がっている。
空には強い海風が吹きわたっている。
圧倒的な波の音に包まれる。
それを見ていると、
今年もどうにか生きていけそうな勇気がボクの中に湧いてきた。




2015/04/10

Vol.277 有一の「魚行水濁」



「きょうのまねきねこvol.255(海上翁の言葉)」が「六月の風」という海上雅臣さんが編集発行人をされている冊子に掲載され、3冊ほど、五島研悟さんを経由して送られてきた。
41年前に創刊され、通算243号になるその冊子は「湘南の墨跡」展特集で、海上さんの講演「教師としての井上有一」が補足されて文章におこされている。
それを読んでいると、有一の「魚行水濁」という書に付されている言葉に目がとまった。

げんごろうはげんごろうで
水すましは水すましで
あめんぼうはあめんぼうで
なまぬるい水はにごっている。
うきぐさはゆれて、
どじょうは上がっては下っているのは
そうなっているからでべつにたいしたことではない。
ふなはどじょうとはかんけいないから
スーっとうごくとどろがゆれて水がにごる。
コレを魚行水濁というのである。
うきぐさはゆれている。
ただそれだけである。

冬寒に戻った四月の窓辺でゆっくり声に出して読んでみると、
ぬるんできた池の生命のリズムが身体に浸みこんでくる。
170の文字。
その数をわずかと言うべきかどうかボクには分からないが、
老いたワタシが小石を拾うように、
ゆっくりゆっくり読んでいっても、
最初に口にした「どうじょうはどじょうで・・・」のイメージが消える前に
最後の「ただそれだけである」に辿りつく。
それはなぜか、ほっとした安寧である。
有一の「魚行水濁」の世界は円環し、
どこが始まりで、どこが終りか分からなくなる。
それでいつまでも、もごもご読み続けている。
まるで、
人生を閉じるために、
祖母や父が口にしていた念仏のように・・・。
げんごろうはげんごろうで
水すましは水すましで
あめんぼうはあめんぼうで
なまぬるい水はにごっている・・・
ああ、
濁りも美しいのだ。
淀んだ水も美しいのだ。
全ての命は宇宙を抱えている。




2015/04/07

Vol.276 秀一さんの暴風警報



「はい、これでおしまい!」
目の前に突き出された絵を見て、ボクは息をのむ。
秀一さん独特の顔のまわりで何かが揺らいでいる。
髪の毛?
いや違うな。
もっと繊細なもの。
幽かだけれど強いメッセージがどこかに向かって流れ始めている。
それが何なのか、
読み取れないボクは不安に囚われそうになる。
この絵が描かれた時、
確かにボクは秀一さんの目の前にいたのだけれど、
こんな風に表情を変えていく絵に気づかなかった。
あの時、
秀一さんはボクの顔を見てしゃべり続けていた。
「きょうはどこから来たのですか?辻堂ですか?相模原ですか?」
「風は吹いていましたか?暴風警報は出てましたか?」
「ブロックが飛びますよ。辻堂行きのバスはありますか?」
「どこから出てますか?」
途切れるのをおそれるように疑問符付きのことばを放ち続け、
色鉛筆を握った手は動き続けているけれど、
視線はボクの顔のとどまったまま、
絵を見ることは全くしない。
それから突然、
「はい、おしまい」
秀一さんは絵をボクに突き出したのだ。
草色の太い線が4本、暖簾のようにまっすぐ垂れている。
その奥には視線をそらした赤い目の人物がいて、
草色の涙をながしているように見える。
男のまわりには形を成さない不安な線が渦巻き、下降し、
目まぐるしく方向を変えている。
「暴風警報ですか?」
「そう、暴風警報です。暴風警報は辻堂にでましたか?」
「この人は泣いてるの?」
「そうです。泣いています。暴風警報が出ましたか?バケツが飛びましたか?」
抑揚の少ない秀一さんの言葉を聞きながら、
ボクは秀一さんの暴風警報は何をボクに伝えようとしているのだろうと思う。
その夜、
小田原―熱海間のJR東海道線は強風のために運行を停止した。