このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2015/05/29

Vol.290 待っている時間



天気予報が五月の夏日は過去最高になりそうだと報じている。
確かに、毎日のように朝早くから夏の陽射しが埃っぽい露地を白く照らしている。
路に並んだ鉢植えの花は見えない熱気の薄膜に包まれたように色を失い元気がない。
ボクも浅い息をしながら、日々を暮している。
みずみずしいもの、
鮮烈なものが欲しくて仕方がない。
で、誘われるように海辺に向かう。
小さな河口の突堤に座り、水平線を見ている。
海を見ているのではない。
空を見ているのではない。
二つの青が接する、一本の線を見ている。
ボクが座っている河口も陸と海が出会う境界だ。
その境を一本の川が流れる。
川は海を流れ、やがて海の青に包まれるように終息する。
その向こうから、何かが現われるのを待っている。
「おまえさんも小さな川のようなものだな」
時々、突堤の横に座って辻堂のネコの師匠はボクに言う。
「生ごみや自転車や発泡スチロールなんかを抱えながら、海に向かうしかない生活用水のような川だ」
ネコ師匠の目は細くなり、遠くの水平線を見る。
「そろそろ、お前さんも河口に出て、やがて消滅する」
それでいいのだ。
ボクはその時を待っているのだろうか?
海辺で風に吹かれていると、
時々、仲間の手を想う。
絵筆や色鉛筆を握った手だ。
仲間の指先から、
線や色彩がゆっくりしたたり、にじみ、走りはじめ、
やがて何かの形を成していく、
遠くの感情や想いや記憶・・・
フェースの時間、
ボクはそんなものが、現れてくるのを待っている。
海辺に座っていると、
フェースの仲間たちも、海や空のような気がする。





2015/05/26

Vol.289 街をさまよう魂



ある日、彼のお母さんが「Kがこんなものを書きました」と何枚かの紙に書かれた彼の文章を見せてくれた。
サインペンで書かれた強い文字。
文章の初めに絵文字で書かれた警告マーク。
パッと見ただけで、何かをやってしまって、これはまずいぞとオロオロしながら書いた反省文?の気配が伝わってくる(笑)。
ちょっと紹介しよう。
(絵文字)警告&捨てるな
(絵文字)感電危険、触るな!&(触れるなの絵文字)
無断でほかの人の物を絶対に捨てたり、触ら無いいで下さい。
誤ってそれを捨てたり、触ると、その人に迷惑がかかったり、
思わぬ感電や火災などの事故に至る恐れがございます。
又、法律や条例などで厳しく処罰されます。
*万が一その人の物を捨てたり、触った人は警察署へ即通報します。
反則金:2兆6千5百4十7億3千万4千3百6十9円以上&
懲役:2十3年8カ月半以上!
(絵文字)火気危険!
切羽詰まっている。
この反則金と懲役はあまりにも過酷だ。
ああ、まずい!
Kの焦っている心境が伝わってくる。
何をやったのだろう?
聞いてみても、Kは「人の物に勝手に触ってはいけません。法律や条例で厳しく罰せられます」不安げに視線をそらし、機械音のように応えるだけだ。
作業所で何かをやらかしたんだろうか?
或いはフェースや作業所の行きかえりに人様のもの?に手を出して叱られたのだろうか?
ボクは街中を足早に歩く彼の姿を想像する。
画材や描きかけの作品をいっぱい詰めて、バックパッカーのようにあふれだしそうなバッグやカバンを両手に、人ごみの中を歩く彼の背中を思い浮かべる。
夜の電車のホームや改札口で往ったり来たり、突然立ち止まり、何かをじっと見て、頭の中のシャッターを切る。
それから独り言や歓声をあげてジャンプしたり、走ったり・・・彼の中の感性がフル回転し、それは時を置いて、彼の絵や言葉の表現になって記録される。
彼のそんな絵や文章を見ていると、ボクは一つの精神がスクッとたちあがっているのに心を打たれる。
そこには自由を求めて彷徨する彼の魂がある。
今年、彼は終電を待つ新宿駅ホームの様子を絵に描いた。
ホームに立ち尽くす疲れた人々の間には、ピンクの目をした象やのっぺり顔のキリンが紛れ込んでいるのだけれど、誰も彼らの存在に気づいていない。
ノイジーで、ひ弱なボクらの感性を逆なでするようなタッチだけれど、奇妙に心に残る絵だ。
その絵が今年の藤沢市美術展の秀作賞に選ばれた。
彼の絵も街を彷徨し始めたのかもしれない。





2015/05/22

Vol.288 パプーシャの黒い瞳



岩波ホールに「パプーシャの黒い瞳」を観に行った。
実在したジプシー初の女性詩人パプーシャの、
一族を追われた過酷な人生を美しい映像でたどった映画だ。
観るのはこれで二回目。
最初に観た時は、不覚にも冒頭の三分の一位を眠ってしまった。
日が過ぎていくうちに、何か大切なシーンを見落としたのではないかと気になり始め、週末には上映が終わるので、早く行かなければという切迫した気もちに変わっていた。
普段なら、気になっても神保町まで、もう一度足を運ぶなんてことはないのに珍しいことだった。
もしかしたら、パプーシャがボクを呼んでいたのかもしれない。
監督のヨアンナ・コス=クラウゼとクシシュトフ・クラウゼの名前は、ポーランドのアールブリュットの画家「ニキフォル」の生きざまを描いた監督としてボクの中には刻まれていた。
「パプーシャ」も「ニキフォル」も表現する魂を、美しい映像と音楽で編んだ作品だ。
監督のヨアンナは昨年12月に亡くなり、彼の作品としては遺作となったけれど、ボクは二つの映画が同じ主題を追っていて、死んでもその行方を見つめる監督の強い視線を感じた。
それが何なのか簡単には言えないけれど、監督が見ているのは、あふれてくる表現に導かれて生きていく一つの確かな生、社会的な名声や富とは関係のない過酷な厳しい道なんじゃないかと思う。
それをボクらは「どうしてそこまで・・・」という痛切な想いで見てしまうのだけれど、いつのまにかその背を追って自分も生きていきたいと思ってしまう。
想いを越えて、歩まなければいけない道、
それは確かにあるのだ。
どのようにつらく孤独であっても、歩んでいくしかない道。
(その道をボクらは歩んでいるのだろうか?)
映画の最後に流れるパプーシャの詩にその答えがあるのかもしれない。
イツダッテ飢エテ/
イツダッテ貧シクテ/
旅スル道ハ悲シミニ満チテイル/
尖ッタ石ガ裸足ノ足ヲ刺ス/
弾ガ飛ビ交イ、耳元ヲ銃声ガカスメル/
全テノじぷしーヨ/
私ノモトヘオイデ/走ッテオイデ/
大キナ焚火ガ輝ク森ヘ/
全テノモノニ陽ノ光ガ降リソソグ森ヘ/
ソシテワタシノ歌ヲ歌オウ/
アラユル場所カラじぷしーガ集マッテクル/
私ノ声ヲ聴キニ/
私ノ言葉ニコタエルタメニ・・・

灰の中の熾きのようにモノクロの静かで熱い映像と
風を切り裂くような鮮烈な音楽は、
ボクの中に亀裂のようなもの、
そこから広がる、もう一つの荒野のようなものを
残した。





2015/05/19

Vol.287 ワークショップ、クラゲになる



先週の金曜日、定例のワークショップを太陽の家で行った。
平日の夕方なのに30人近くの地域の子どもたちやお母さん、放課後活動の中高生、作業所の支援員さん、それから遠くから来られた人たちが集まってきた。
いつもは3歳の子どもと来られるお母さんが、きょうは珍しく一人で参加されていたので、声をかけた。
「娘さんはどうしたの?」
「きょうは家の人に預けてきました。前回も参加していなかったので、きょうはどうしても参加したくて、急いで仕事を終え自転車で来ました」
汗ばんだ顔に笑顔が浮かぶ。
いや嬉しくなるなあ。
アートワークショップの種が、こんな風に参加されている人たちの中に育ち始めているんだと思うと勇気づけられる。
そういえば、このワークショップの窓口になっているSさんからは「ファシリテーターを務めた会議の冒頭で、ダンボール積みのワークショップを30分ほどでやったら、すぐに、その場の雰囲気がなごんで、和気あいあい。会議も大成功でしたよ!」という報告もあった。
いろんな形で種は芽吹き始めているのだ。
その日の内容は型紙を使ってクラゲの世界を表現すること。
7mの黒いロールペーパーに何百匹ものクラゲを描くちょっと大きな活動だ。
4つのグループに分かれ、上下左右、好きなところからどんどんクラゲを描いていく。
型紙を使って色鉛筆で色を塗り、好きな模様を描いていく。
型紙だから形なんか、気にすることはない。
クラゲ気分になって、ぷかぷか、ゆらゆら、自分のスタイルで描いていく。
触手は割りばしに木綿糸をとりつけたしっぽ筆で描く。
(その触手は男の子の発案で「ビリビリ」と名付けられた。)
作業室に笑い声が絶えない。
小さな子どもたちと支援員さんが絵の具のつけっこをして遊んでいる。
のんびり浮かんでいる水族館のクラゲたちとは違って、この日のクラゲはとてもエネルギッシュ。
べたべた、とんとん、ぬるぬる、ごしごし・・・まあ、音にするとそんな感じの動きになって、どんどん生まれてくる。
海辺近くの空がオレンジ色から薄紫に変わる頃には、白の絵具でおとなしく描かれていた「ビリビリ」も、いつの間にか青や赤の触手にとって代わり、クラゲたちはスターウォーズのようにあらゆる方向に飛び交っている。
水族館の癒やしの雰囲気なんてどこにもない。
描き終わって壁に貼ると、アンモナイトや三葉虫、イカなんかも姿を現し、妖しく光りながら黒い紙の上を泳ぎまわっている。
ボクたちの身体の中には、まだこんな原始の海が存在しているんだなあと妙な感動を覚えながら、ワークショップは終わった。





2015/05/15

Vol.286 風に吹かれていると



5月の台風が低気圧に変わって東方海上に抜けっていった朝、
丹沢を遠くに見渡す尾根緑道を自転車で走った。
30度を超す気温になると、天気予報は報じていた。
森の道は昨夜の雨に洗われ、木々の緑が輝いている。
南風が吹きぬけて、
蜃気楼のように八王子や橋本や厚木の街が白く揺れて見える。
若かった頃、いろいろな想いを身体に埋め込むようにして、
うつむきながら暮らした町だ。
木陰のベンチに座って、火照った身体を休めていると、
不意に、その頃棲んでいた古いアパートの狭い階段や
軋む木製の扉、北向きの小さな窓越しの灰色の灯りなんかが現われてきた。
二度と戻ることはあるまいと思った町、通り、部屋・・・
折れ曲がった路地を突き当り、暗く湿った廊下の奥の傾いだドアの向こうに閉じ込めてきた苦しい日々・・・。
それを懐かしい歌でも聴くように思い出している自分がいる。
過ぎた時間が霧散し、消滅するなんてことはないのだ。
想いを込めた時間は漂うのだ。
「ああ、人生だね」
それは、そんな言葉でしか表現できない。
風に吹かれていると、
尾根道を散歩する人たちが「おはようございます」と次々と声をかけてくる。
何となく親近感のあるたどたどしい言葉だ。
ボクも「おはようございます」と頭を下げる。
その内、目の前を通り過ぎる人があまりにも多いので、もしかしたら近くの作業所の散歩なのかもしれないということに気づいた。
何人かがグループを作って、支援員さんらしき人と一緒に歩いている。
彼らを見ていると、ボクの身体はみずみずしいものに満たされる。
ボクはいまここにいるんだという安らかな気持ちになる。
果てない時間の海を漂いながら、
一条の川をめざして泳いできた自分がここにいるんだという気持ち。
通り過ぎる彼らと目で挨拶をしていると、
「あれ?K先生じゃない?」
突然、しゃがれた声をかけてきた人がいる。
見上げると麦わら帽子をかぶり、首にタオルを巻いた中年の男の人だ。
陽焼けした顔に欠けた白い歯がまぶしい。
「お久しぶりです!」
25年近く前の養護学校の卒業生だ。
「おお!O君か?よく分かったねえ!」
ひ弱で寡黙だったO君がお百姓さんのように力強く目の前に立っている。
思わず握手をして、顔を見ると無精ひげや額の辺りに白髪が見える。
ボクはかけがえのない大切なものを見た気になった。
君も立派に生きてきたんだ!
そう思うと、熱いものが込み上げてきた。