このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2015/06/19

Vol.295 今年も咲いてくれた



早朝、ベランダに出ると一斉にサボテンの花が咲いていた。
うっすらとピンク。
内部から光を放つように静かに立っている。
触れてはいけない。
触れると一気に崩れそうな繊細な花だ。
匂いはない。
花芯に何かが宿っている。
命のようなもの
膝まづいて眺めていると、ゆっくり陽が射してきた。

毎年、初夏に咲く。
なんの要求もしない。
何にも手入れしないのによく咲いてくれる。
別にボクのために咲いているわけではないのだろうが、そんな風に思う。
二日前から花茎が伸びはじめ、
昨夜はつぼみも膨らんでいた。
そのふくらみの中に宿っているものを考えながら眠った。

その日は一日落ち着かず、なんどもベランダに出た。
花は先端から少しずつ枯れていく。
みずみずしかった花弁の先端にゆがみが現われ、わずかに光が失われていく。
溶けるように花は垂れていく。

夕方、ベランダに涼しい風が吹きわたる。
花はすべて首を垂れ、声を失っている。
命の終りの一つの姿。
人生を早回しの映像で見ているような気持になる。

花の名まえはモモハナタンゲマル…と言うらしい。
花屋が付けた不似合いな名前。
違うだろう。
毎年めぐってくる、
小さな命に励まされて、
ボクらは今年も夏を迎える。





2015/06/16

Vol.294 鯨は自由である



6月に入った日曜日、
太陽の家祭りで「大きな鯨を描こう!」っていうワークショップをやった。
入れ替わり立ち替り訪れる人たちと2m×7m位の紙に、一匹の大きな鯨を描いてみようという試みだ。
鯨のおおよその輪郭は、4月にやった「手作り筆で雨ニモマケズ・・・」というワークショップで雑巾筆を使って描いていたので、この日は鯨の胴に10cm四方のマス目を描き、そこに、好きな色や模様や文字を描いてもらってマス目を埋め尽くし、多くの人の想いが響きあう一匹の鯨を生み出してみようというわけだ。
マス目の数はおよそ300。
縦2m弱、横7m弱の紙を体育館の床にそのまま敷くと、真ん中あたりのマス目に描くことが難しくなるので、二分して、その周りに集まって好き勝手に描くことにした。
紙の周りにはクレパスや絵の具、色鉛筆、サインペン、筆代わりの綿棒、ポンポン筆、パレット・・いろいろなものを転がしておく。
参加者一人ひとりにこのワークショップの趣旨を説明することは困難なので、スタッフが紙の上に乗って、黙々と模様を描いていく。
それを見て、自分も描きたくなれば勝手に画材をとって描いてもらう。
どんなところに幾つ描いても自由。
飽きれば自由に去っていく。
そんなやり方。
鯨を二分しているので、何を描いているかも分からない。
ただ純粋にマス目に好きな模様や色を塗っていく。
まず集まってくるのは子どもたち。
描いている人の背をじっと見ていて、「描いてもいいんだよ」と声をかけると嬉しそうにクレパスを手に取り何やら描きはじめる。
すると急に子どもたちが一斉に集まりだし、それぞれが好きなところに陣取り、好きな絵を描いていく。
まるで、昔、路地裏の道一杯にロウ石やチュークで迷路や怪人二十面相、鉄人28号(古いなあ)を夢中になって描いている子どもたちそのまま。
時々、隣の子の絵を見て何かしゃべりだす。
何を描いてもいい・・・というのに戸惑っていた大人たちもおずおず絵筆をとって何やら描いていく。
雑誌の写真を切り取って貼ったり、マス目を越えて長い線を描きはじめる子も現れたり・・・
そうなったら、もういつのまにか他の人が描いたマス目なんかもどんどん塗りつぶしていって、そこはなんでもありの色彩と線の解放区になる。
いいんだよねえ。
開放されていく、
解放していく時間、場所、
絡み合った手や目線や身体の動き・・・。
最後にみんなで一斉に鯨のまわりに海を描く。
雑巾やハケで絵の具だらけになりながら、子どもたちも色彩の海を泳ぎだしている。
いいんだよなあ。
ボクは子どもたちを乗せた鯨がゆっくり泳ぎだす海原を想像する。





2015/06/12

Vol.293 六月の川を下る



週末、自転車で小さな川沿いの道を海まで下った。
およそ35kmの南風が吹く道。
初夏の陽ざし、
川には生まれたばかりの鯉の魚影が見える。
緑の濃くなった枝に鳥たちの飛影、
花々がいたる所で揺れている。
風も光をはらんでいる。
その中をゆっくり走った。
命が流れている一本の道だ。
浅い川の水面を低く飛び交うセグロセキレイやツバメ
ときにカワセミ、
鳥たちは水の中の輝きや空に消える一瞬の輝きに変わる。
色とりどりの花々も、風の中に鮮やかな色彩を溶かし、
それぞれのやり方でもう一つの大きな生命を創り出している。
道沿いにあじさいの群生、
水を入れた田には大きな空が映っている。
人と人たちが棲む四角い家々、
鳥と鳥たちが棲む子宮のような巣
虫と虫たちが棲む入り組んだ迷路、
魚と魚たちが棲む水の中の凹凸、
それらが、ジグゾーパズルのように組み合わされて、
一枚の世界が成り立っている。
ペダルを踏み続けるボクの身体も、その絡み合った生命の一つの命なのだ。
藤沢に入ると、街なかにハンドルを切る。
「破片のきらめき」というドキュメンタリー映画を観るためだ。
東京足立病院や平川病院など精神科病院内で半世紀近くアート活動を続けてきた安彦講平さんとその仲間たちの活動の様子を撮り続けてきた映像。
会場の蔵まえギャラリーの土間は、暗幕を張り巡らし、ぎっしりの人たち。
小刻みに体をゆする人やじっとうつむいたままの丸い背、背筋をぴんと伸ばして静止している影が重なり合って一つの濃密な空間を作っている。
壁に投影された、表現者の言葉や作品に包まれていると、ボクは何十年も前のアングラと呼ばれていた野外のテント劇場を思い出した。
風の吹く夜のテントを出て、あの時の役者や人たちはどこに行ったのだろう?
書を捨て、街にでて・・・行方不明になったままだ。
そんな感傷的な気分に浸りながら、映像を見ていた。
上映の後、安彦さんと少し話す機会があった。
「病者」と呼ばれる人たち、「障がい者」と呼ばれる人たち、「健常者」と呼ばれている人たち・・・アウトサイダーアート、アールブリュット、ピュアアート・・・
幾つものレッテルを貼り替え、見えぬ閾を再生産し続ける社会に疲れ、それでも表現という一本の道を歩いてきた安彦さんの言葉には、出会うべくして出会った同行二人の道を往く遍路姿のようなものを感じた。
夕方、海辺に出た。
自転車を砂浜に放り出すと、ゆっくり傾いていく鴇色の空を見ていた。





2015/06/09

Vol.292 100年の美しさ



先日、「墨に導かれ、墨に惑わされ 美術家・篠田桃紅102歳」という番組を観た。
映像は毛の長い筆で、斜めに線を引く桃紅さんを映し出していくところから始まる。
緊張した厳しい映像だ。
白髪、痩躯、
榛色の格子縞の着物を着た桃紅さんが一本の古木のように見える。
巨樹ではない。
時の岸辺にすくっと立っている。
そこにあるだけで、風雪が感じられるようなしなやかさを持った美しい木。
桃紅さんは筆を持ち、
紙にそってゆっくり流れるように身体を傾ける。
淡墨の線が
削りだしたような桃紅さんの指先から生まれる。
30cmもあろうかと思われる筆毛は
墨を吸ってなまめかしく、
桃紅さんの掌の中で、
若女の黒髪を束ねたようにぬめぬめ光っている。
映像は、そんな桃紅さんと筆を執拗に映しながら、著書「墨いろ」のことばを重ねていく。

墨は重ねても一回性の重なりで、下の墨は消えない/
人は一刻一日と生きて、一つの生涯となるのと同じように思われる/
人がかくという仕草には、祈りに似た孤独の形がある・・・

もう、それだけでボクは背筋を伸ばして画面に見入ってしまった。
桃紅さんは、今年103歳になるのだという。
103歳というのは、ボクにとってはめまいのするような歳月で、
例えば月面のような枯れ野を想ってしまうのだが、
桃紅さんからは、
まだ何百人もの赤子を身ごもることができるような
女性、母性のゆたかさ、みずみずしさを感じてしまう。
冒頭で「映像は決して自分の真実を映すことはない」と断りながら、
撮れるものならとれ・・・という風に、
気負いもなく映像に身を晒す桃紅さんの強さやしなやかさは、
この時代の希望の草木のように見える。
1時間の番組なのだが、フェースの仲間と過ごした、たかだか25年の歳月が映像の下から浮き上がってくるような気がした。
100年!
若女の肌のような桃紅さんの線を見ていると、
有一が100年生きたらどんな線を生んだのだろう?
と想う。





2015/06/02

Vol.291 描く人たち



時々、
ボクの居る場所は砂漠のようになる。
ボクの姿、形をささえていたものが風化し、
砂になってさらさら流れ、
ボクは、
消えていく手足を眺めながら、
その視線も
いつかは姿を消すことを
抗うことなく受け止めている。
それを教えてくれたのは、
ボクを訪れる、描く人たちだ。
描く人たちは、巡礼を続けている。
彼らは、
巡礼道の傍らにうずくまっているボクの前に来て、
紙を広げ、
頭を垂れ、
黙々と手を動かし、
底の見えない溝や穴を紙にうがち、
風をつかみとって、バリバリ破りながら紙に貼りつけ、
ちくちく、指先から紡ぎだされる線を編み込んで、
やがて遠い旅の果てを想う旅人のように、
静かに息をつき
紙に残されたものをしばらく眺め、
去っていく。
彼らの残した
描線や色彩や形象は、
つねに呪文のように不可解だけれど、
それも無言のままに
去っていく。
ボクは取り残される。
何かが訪れ、
何かが去っていった、
記憶も
砂のようにさらさら流れ、
その時、
残るのは
深い孤独だ。