このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2015/08/18

Vol.310 長い宿題



空に白い雲。
夏休みには宿題はつきもので、
それを終わらせなければ、
本当の夏休みは来ないような気がしていた。
それから半世紀以上たっても、その気分は変わらない。
いつからだろうか?
人生の宿題のようなものをボクはいくつも抱えていて、
半分投げやりになりながら、夏の終りの少年気分を持て余している。
この夏、
そんな宿題の一つをやっと片付けた。
Kさんと約束した「青い石を持つカエルの話」という絵入りの短い寓話をまとめることができたのだ。
Kさんの絵を念頭に、ストーリーを書いてから1年半以上が経っていた。
Kさんから、絵をもらってからでも1年が経っている。
時間のかかった長い宿題だった。
その間、OさんにもKさんの絵の背景を依頼してたりしたので、ボクには相当のプレッシャーがあったのだ。
終わってみると、もっと早くやればよかったのにと思うのは宿題の常で、まあそんな風にはなかなかいかない。
出来上がったものをプリントしてKさんに送ったらメールが返ってきた。
「青い石を持つカエルの話、届きました。読ませていただきました。よいと思います。それにしても泣き虫タキヲの物語(以前、Kさんらとワークショップ形式で作った話)の時も感じましたが、物語の中の時間の流れ方が不思議です。基本、池の周りの生き物たちと青い石を持つカエルの話だと思うのですが、もっと大きな生命の流れ~宇宙、そして青い石・地球へと繋がっている。私が、最初に“ヨハネによる福音書を思わせます”とメールしたのも、4つある福音書の中でヨハネのは他と違い“共観福音書”ではなく、いのちとか光りとかが一つのキーワードになっているからです。私の絵!を丁寧に扱っていただきありがとうございました。初めは色鉛筆の絵から入り、後半からOさんの背景と重なり、読んでいるといろいろなことを感じます。ありがとうございました。」
ボクは聖書のことはよく分からないけれど、Kさんは喜んでくれたのだろう。
それだけで、ボクは報われたような気がする。
他人からみれば、人生の宿題というにはあまりにも些細なものかもしれないが、当事者にとっては宿題というのは結構重いものなのだ。





2015/08/14

Vol.309 ユーミンよりもオキーフ



今年の暑さは、心まで蝕んでくる。
例年なら伊豆のあばら家にいて、未明のわずかな合い間、
ひんやりとした水のような時間が訪れるのだけれど、今年はそれがない。
淀んだ熱気がいつまでも小さな家を包んでいる。
開け放した窓には、未明の澄んだ暗がりがない。
濁った薄闇が山肌に貼りついたままだ。
夏の頂きが見えない。
いつもならそろそろ夏の果てが崩れていくのを体で感じる頃だが、その気配もない。
で、板の間に寝転び、
「オキーフの家」という写真集を繰り返しながめている。
というよりそこに書かれたオキーフの看護人だったクリスティン・テイラー・バッテンという人の文章を読み返している。
オキーフが40年の長きにわたって暮らしたニューメキシコの乾いた空気、陽射し、事物の影が克明にそこには描かれている。
すこし長いが紹介したい。
「強烈な夏の日ざしの中で、気持ちの余裕のない人にとって、この砂漠はけちな土地に思えるだろう。こんなにも寛容な土地なのに、その贈り物を容易には受け取れないのだ。ここでは、こまやかな注意を払い、集中し、神秘や、世界と一体であるという考えについて開かれた視野を持つことが要求される。」 「100年あったら、1日に見るよりもたくさんのものを、見ることができるのだろうか。
1本のはかなげな花が暑さにぐったりしながら立っている。1本の、ありふれた、まるい、オレンジ色の花が、乱入者に踏まれたと見え、その花びらは暗い色になっている。この花はここでしなび続け、土に還るまで色を変え続けることだろう。」
なんという奥深い描写だろう。
暑さにへばって、板の間にゴロゴロしていては申しわけないのである。
で、私は立ち上がり、水ぶろにつかる。
そこからは煙ったような相模湾が見える。
一人、窓辺に顔をつきだし、溶け出していくような夏の風景を見ていると物悲しくなる。
もう私には夏休みはないのである。
人に言わせれば、一年中夏休みのうらやましい身分なのだそうだが、終わりのない夏休みは夏休みではないのである。
時たま、境界のない海と空の間をタンカーが過ぎていく。
しかし、ユーミンの歌は聞こえない。
ソーダ―水の向こうに新しい季節は見えない。
で、いまの私にはユーミンよりもオキーフなのである。
晩年、視力を失ったオキーフは石や骨の肌触りを愛したというが、
私も石の手触りを秘かに愛しているのである。





2015/08/11

Vol.308 会話(おしゃべり)



「いましたいことってなあに?」
この一年ですっかり痩せてしまったKくんは、
うなだれていた頭をゆっくりもたげてボクを見る。
答えはすぐにはもどってこない。
黒目勝ちの大きな目。
こけた頬に灰色の影がななめにかかっている。
「なにがしたいですか?」
すると、うなづくように頭をふる。
まるできみの頭蓋の中でボクのことばを転がすように、
頭をかたむけ、ぐるぐる。
それから、ボクの言葉を単音にして一つづつ切っていくように呟く。
「ナ・ニ・シ・タ・イ・デ・ス・カ・ア?」
目がぬれている。
夜の水面のように揺れている。
少し鼻水が垂れ、無精ひげの上で光っている。
「少し描こうか?」
「カ・コ・ウ・カ・ア?」
小さな音が還ってくる。
井戸に小石を落とすように、
遠くできみの声が響く。
きょうはあまりにも暑いので、
さっきまでグラウンドで聞こえていたサッカー少年たちの歓声も消え、
補聴器をかけたボクの耳に
きみの小さな声も、よくきこえる気がする。
ボクはひしゃげた色鉛筆箱を開け、きみの前に差し出す。
「何色にする?」
きみは目線をはずしたままうつむき、手を出そうとしない。
爪の伸びたきみの指も痩せて、しなびた草の茎のように見える。
「何色にしようか?」
ボクはもう一度ことばをかける。
すると「ナ・ニ・イ・ロ・ニ・シ・ヨ・ウ・カ・ア?」
きみの言葉が壁にバウンドしたボールのように還ってくる。
「そうだねえ。この色にしよう」
「コ・ノ・イ・ロ・ニ・シ・ヨ・ウー」
スケッチブックには、行く先のない迷路のような線が描かれている。
昨年から描き続けている小さな色と線の交錯した時間がそこにはある。
夏、
冷房のくぐもった音が聞こえる廃校の教室で、
ボクらの会話は
そんなふうにして深まっていく。





2015/08/07

Vol.307 なつかしい家



昔、ワタシも子どもだったのだ。
暑さがきわまり、息をつくのも面倒になる頃、
埃っぽい陽射しを逃れるように、井戸端で時間を過ごした。
そこにはイチジクの葉が茂り、蜂やかみきり虫なんかも葉影で一休みしていた。
緑陰というのだろうか、
影の中から道端に光るビー玉や入道雲の湧く空の頂きを見ていると、
火照った身体がやわらかな暗さに浸されてくるのが分かる。
海辺の町にはいつも潮風が吹いていた。
貸本屋から借りた本を仲間たちとイチジクの木にもたれて回し読みした。
遊びにも飽きて、話すこともなくなると、汽笛や飛行機の音が聞こえてきた。
そんな時は時間がとまっていて、いつまでも夏休みが続くような気がした。
井戸水は少ししょっぱい味がした。
井戸につけて冷やした西瓜は格別だった。
深い井戸を覗き込むと、ひんやりとした水の匂いがした。
暗闇に目が慣れてくると、水面が揺れているのが見えてくる。
その黒い水面の下には、生活の断片が堆積していた。
何年かに一度、底をさらうと、セルロイド人形や印版の皿、錆びた刃物なんかが出てきた。
誰が使ったか分からない刃物には、気味の悪い魅力があった。
半日かけて砥石で磨き、それが硬く光りはじめると、何度も指を刃に這わせた。
井戸端は大人にも子どもにもオアシスだった。
縁台を持ち出して、ハサミ将棋や金転がしで遊んだ。
やがて大人相手に本将棋を打つようになった。
貸本屋で借りる本も「少年」や「冒険王」から「怪人二十面相」になった。
夏の暮れていく路地の闇が大人になっていく秘密の迷路のように見えた。
その道を通って少しずつ仲間たちが消えていった。
それから何年が経ったのだろう?
いまのボクにはそんな井戸端はない。
でも、暑い一日の終りに、無意識で水の匂いのする井戸端を探していることがある。
見つかるはずもない。
迷路に迷い込んだ旅人のようにため息をつきしゃがみ込む。
すずやかな木陰の下のゆっくり時間が流れる場所。
そんなものがどんなに大切なものだったか今になって分かる。





2015/08/04

Vol.306 世界をカッポするファッションマヌカン



またまたワークショップの話で恐縮です。
先週、横浜市磯子区役所の機能訓練室で区内の小中学生や保護者の方々と「みんながデザイナー!マイ・ファッションショー」なるワークショップをやった。
磯子区役所内でアートワークショップをやるのは初めてということで、集まってきたメンバーは興味津々。
部屋に入れなくて廊下にうずくまっている子どももいたけれど、見本のファッションモデルや手足の長いダンボールマヌカンを取出し、説明を始めると、おや、何だろう?という感じで集まってきた。
ボクはそんな時の子どもたちの顔が大好きだ。
ここで、何だつまんないと失望させてはいけない。
わくわく感に火をつけねばならない。
で、面白おかしく実演をはじめる。
ブルーシートにひろげたダンボール人形に黒の絵具を盛り上げ、Tシャツを切った布で塗りこんでいく。
「ほら、どんどん黒くなってきた!絵の具がなくなったらまた絞り出して、ゴシゴシ!」
「あっ、手も黒くなってきた!手も真っ黒になった方がいいんだよ。手でこんなふうに塗っていったっていいからね」
「手を汚しちゃいけない」「色は筆で塗るもの」という既成概念をここで一気に崩してしまう。
子どもたちがウンウン頷きはじめたら、今度はきれいなカラーグラビアを破って、黒くなったダンボールマヌカンに貼っていく。
「ウーンどんな模様にしようかなあ?このお姉さんの唇、貼ってみようかなあ?」
「帽子やネックレスも欲しいねえ、こんな風にバッグも作ってみたら?」
イメージを広げていく。
子どもたちのやる気と想像力がふくらんだところで「じゃあ始めよう!」
大きな声で活動スタート。



子どもたちのエネルギーと発想は、どこにもないファッションを創り出していく。
手が三っつあったり、ひらひらのフリルが体中を覆っていたり、そのアナーキーさがたまらない。
お母さんたちも、それにひきづられ手の動きが速くなる。
切ったりはったり・・・普段とは違った自由感のある動きに変わっていく。
部屋の熱気はどんどんヒートアップ。
みんなの身体から、とくべつなエネルギーが流れはじめ、カラダや顔が光りはじめる。
脳内物質のなんという波動なのだろうか?
ひらめきがいたる所で飛び交い、交錯し、はじけている。
で、どんな作品が出来上がったかというと、もう言うことなしの輝くファッションなのである。
リラックスし、口笛を吹きながら、世界を闊歩するマヌカンたちなのだ。