このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2015/09/25

Vol.320 ラップ芯の陽ざし



晴れた日には陽ざしを描きたい。
木の間からこぼれる陽ざし。
見上げているとぬくもりが浸みこんでくる。
重なり合いながら、様々な色に変わっていく。
その一画だけが華やぎ、静かな時間が流れて行く・・・。
そんな陽ざしを描くワークショップを海辺の作業所でやった。
テーマは「燃える秋の木」。
全紙大の模造紙に、ローラーで幹や枝を描いていく。
秋空に枝を広げた伸びやかな木を描くには、ローラーの線がどれだけ自由に走っているかがポイント。ローラーは腕の延長、つまりは自分たちの腕をどれだけ自由に動かすことができるかがポイントなのだ。
最初、仲間たちはおそるおそるローラーを押し出していく。
線は走らない。律儀でマジメな線、硬く息苦しい。
でも自由って、ぐねぐね、ふわふわ、突然走りだしたり、ジャンプしたり、そんな線でできているのだ。
もっとリラックス、溶けていく腕の力をそのまま紙に残していこうよ!
で、ボクは仲間たちと一緒に、迷路を走る車のようにローラーを動かしていく。右に左に斜めに・・・ふだんボクらは小さな掌サイズの世界でしか手を動かしていない(生きていない)のがよく分かる。
やがて力が抜けていく。
肩先から腕、指先・・・ローラーの線も自由に走り出す。
そんな風にして線を重ねて木の幹が出来上がると、次は秋の陽ざしを描く。
陽ざしはラップ芯で表現する。断面に絵の具をつけて、紙を叩くようにマルをつけていく。
幾つものマル、陽ざしを数で表すことはできないけれど、とにかくたくさん。
ポンポンポン・・・ラップ芯が軽やかな音を立てる。
無心に紙を叩いていると、幾つものマルの音が重なり合い、まるでみんなの呼吸のように、広がったり、収縮したり、遠く退いていったり寄せてきたり・・・不思議なリズムが生まれてくる。
そのマルに色をつけていく。
クレパスや色鉛筆で色を重ね、それが一人ひとりの陽ざしを作っていく。
言葉も少なくなり、集中した時間が流れて行く。
で、いつの間にか紙の上には秋の午後を彩るような陽ざしが生まれている。
陽ざしは降りつづけている。
「秋ってローラーとラップの芯でできているんだ!」
誰かの声、笑いが広がる。




2015/09/18

Vol.319 同調したり、邪魔したり



先週の土曜日、横浜のぷかぷか村で2回目のワークショップをやった。今回は「自由なクジラを描こう!」。大きさは180×300cmのちょっとした大作?
事前にアート屋わんどの住人のみなさんに、雑巾を丸めた筆で紙いっぱいにクジラの輪郭を描いてもらい、からだにはマス目をひいてもらっていた。
でも、そのクジラ君、ちょっと線が硬い。自由に海を泳いでいるというよりも、紙の上に貼り付けられたみたい。マス目に描かれた絵模様もきっちり丁寧にマス目に描かれていて、一つひとつは面白いけれど、パッチワークされた旗みたいで、マス目に閉じ込められている。
で、このクジラ君が自由に海原を泳いでもらうようにするのをこの日のワークショップのテーマにした。
集まってきたのは、ぷかぷか村の住人と地域の小さな子どもたち、普段は一緒に何かを作ったり、遊んだりすることはないメンバーだ。
ぷかぷか村の住人はどちらかというと大人しくて自分のスタイル、ペースで淡々と描いていく人たち。一方、子どもたちは3才から5才の子どもで、やりたいことはどんどんやっていく人たち。
この人たちが、クジラ君の上でどんな活動を展開するのか、ぶつかりあって、ちょっとしたバトルでもあったら、クジラ君もエネルギーを得て海に泳ぎだすかもしれない・・・そんな期待を持ってスタート!
今回は隠し味に、ちょっとしたオリジナル筆を使った。例えば、木枝の先に雑巾を括り付けた筆やポンポン筆など・・・簡単には色や線が思い通りには描けないいつわものの筆たちだ。それを使うと、みんな自分の既成イメージで描くのをあきらめ、結果的に今までにない自由な線や色が生まれることが多いのだ。
いざ始まってみると、クジラ君の上には2つの表現スタイルが現われた。一つは、ゆっくりマス目に描いていく丁寧型。もう一つは線から線へ、色から色へ、マス目なんか越えて自由に塗りつぶしていく奔放型。
この2つの表現潮流、どちらが圧したかというと、当然奔放型。3歳の子どもたちの圧勝である。ぷかぷか村の住人の描いた月や星、女の子といった絵の上を一気になぐり描きで塗りつぶし、「お終い!」の合図まで止まることはなかった。躊躇なんてない。
ボクが感心したのはぷかぷか村の住人の態度。もしかしたら、「自分の描いた模様の上には描くな!」って怒るかなと思ったら、泰然自若。みんなに合わせ、自分もなぐり描きのスタイルに変えていったこと。ボクなんかとは器量が違うねと感心。
ワークショップを終えてOさんから感想メールが届いた。
「楽しかった、面白かった、描きたい自分に出会えました。線を引く、右手で、左手で、目を閉じて、いろいろやりました。色を塗る、指で、ポンポン筆もたたく、こする、転がす、とにかく色をなすりつけました。気持ちよかったです。枠を出たい、はみ出したいとずっと感じていました。今そんな心理なんだと思います。隣で描いている人の気配を感じて同調したり、ちょっと邪魔したりしながら描くのが面白かった。全て個人的感想です。」
ワークショップの醍醐味がそこには書かれている。
いまクジラ君はどこにいるかというと、アート屋わんどの壁で、ゆうゆうと泳いでいるのである。




2015/09/15

Vol.318 貝に出会う



今年の夏は多くの人に出会った。
多くの場所にも出会った。
もちろん、そこに生まれた時間(物語)にも。
出会いは一過性のものもあれば、時間をかけ新しい世界につながっていくものもある。
出会った時は盛り上がったのに時間が経てばすっかり色あせていたり、
静かな出会い・別れだったのが、時間が経つにつれしだいに存在感を増していくというのはよくあることだ。
そこにはボクらの人智を超えたものがある。
必然的な偶然/出会うための熟し切った時間・・・そんなものが分岐を決定づけるような気がする。
それを人はシンクロニシティって名付けたりもしてる。
出会うべきして出会う偶然・・・それがあるからこそ、出会いは楽しいのだ。
雨台風が記録的な被害を関東にもたらした朝、
ふっと、ボクはこの夏出会った四国の彼?(彼女?)のことを想った。
この数日をどんな風に過ごしたのだろう?と思ったのだ。
彼は人ではない。
貝なのだ。
出会ったのは、ボクが子どもの頃、毎年泳ぎにいった海岸の岩場。まったく偶然にその近くを通り、たまたま時間が空いていたのでそこに寄ってみたのだ。
50年ぶりに行くとそこはブロックで埋め尽くされ、小さな工場と漁港になっていて、砂浜はほとんどなくなっていた。
僅かに岩場だけが残っていて、そこに彼はいたのだ。
子どもの頃、泳ぎ疲れると岩場に行きツブと呼んでいた小さな貝を採っては煮て、小枝で刺して食べた。彼は、そのツブ一族の末えいなのだ。すっかり変わってしまった風景の中で、彼が生き続けていたということがボクには嬉しかった。
波に洗われる彼を見ていると、水中を泳ぐ子ども時代のボクの手足や岩場で冷えた体を温める気持ちのよい時間を思い出した。
彼に出会って以来、彼とボクは小さな物語を紡ぎ始めている。
テーマは「出会い」。
海底から見上げる月光や星の光。
海の音。
砂浜で出会った少女。
交わした約束。
そんなことをポツリ、ポツリ、ボクに語る彼の話はしだいに輪郭を持ち、彼の時間とボクの時間は共振し始める。
図鑑で調べると、彼はクボガイというらしい。
久保君?
学者が付けた名前はつまんないね。
彼を何とよぼうか?
ボクは彼と遊び始めている。




2015/09/11

Vol.317 秋には



9月にはフェースに来る仲間たちの数が減る。
それは毎年のこと。
夏が過ぎ、身体の中の熱いものが姿をけし、
少しひんやりした陽射しや風に吹かれると、
何かがいなくなっていることに気づくからかもしれない。
それまで見えていた自分の居場所も遠ざかっている。
仲間たちは、そんなことにとても敏感で、
一人ぼっちに慣れたさびしがり屋だから、
一度、遠ざかったフェースにわざわざ足を運ぶことはなかなかできないのかもしれない。
遠ざかっていく仲間たちにボクの声はどこまで届くのだろう?
「ここにいるよ、みんなここにいるよ!」
かける声は浅く、すぐにかき消えてしまう。
遠ざかる背に本当にかけたい言葉はそうじゃない。
「また会おう。何度でもまた巡り会おう」
そんな言葉だ。
仲間たちの時間とボクの時間はフェースの場所で交叉し、そこに小さな世界が生まれ少しずつ、ここだけの時間を積み重ねていく。
遠ざかった仲間たちの時間は離れて行くのではなく、大きな弧を描きながら、またフェースと交差する・・・そんな風にしてボクらは生きている。
それが姿を見せなくなった仲間たちにかける言葉なのだ。
去年の夏から姿を見せなくなったHが気になって仕方がない。
何度も家に電話しても、出てくれない。
家人に様子を聞いても「まだ体調が悪くて、仕事にも行ったり来たりなんですよ」というばかり、会わせてくれない。
ボクはHの抱えているつらさをボクは分かち持つことができていないという罪悪感のようなもの抱えて二度目の夏を過ごした。
罪悪感というのは間違っているかもしれない。
それは自分本位の感情で、Hにとってはボクの勝手な思い込みに過ぎず、傲慢なのかもしれない。
秋、
廃校になった小学校の教室で仲間たちと静かに絵を描いていると、
不在のHの木椅子に澄んだ陽射しがあたっている。
影は、背もたれの木目に貼りつくようにまっすぐ床に落ちている。 
座板は白く静かに光っている。
そこにHはいない。
窓から高い青空が広がっているのが見える。
ボクは口を閉じたまま、呼びかける。
「また会おう、何度も巡り合おう」と。




2015/09/08

Vol.316 一日



夕暮れ、
気がつくと、季節が流れていた。
今年は、夏の頂きを見ることはなかった。
夏が崩れていく日々を感じることのないまま、薄闇で虫は鋭く響いている。
夕餉の匂いが路地を流れている。
季節に置いていかれたような寂しさがある。
オールズバーグの『名前のない人』を読みたくなる。
夜更、
浅い眠りのまま、伸ばした身体が流れていく。
補聴器を外した耳に耳鳴り、砂塵を上げて近づき、遠ざかる。
オキーフの砂漠の家が見える。
耳鳴りは、『ねっこのルーティ』のクライヒトのようにさまよっている。
朝、
雨がしぶきを上げて開け放した窓辺を濡らしている。
開いたままの本もすっかり濡れている。
ランボーの『地獄の季節』」(小林秀雄訳)。
ブロンズ色の少年ランボーが口を閉じて右上方をにらんでいる。
161年前に生まれた少年が見ているものは、いまもボクらの少し先にある。
そっと頁をめくる。
・・・ああ、季節よ、城よ、無垢なこころが何処にある。
水に濡れた文字が指に絡んでくる。
言葉はひび割れ、過ぎていった幾つもの像を結び、消えていく。
午後、
電車に乗って海辺に出る。
雨はやまない。
海辺に人かげはない。
波打ちぎわを歩く。
一本のロープの上を歩いている人生が見える。
伊豆も箱根も雨雲に閉ざされ、
灰色の霧の中を一匹の犬が通り過ぎていく。