このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2015/10/30
Vol.325 有朋自遠方来 不亦楽乎
いよいよ『2015有一ingアート展』(10/30~11/8)が始まる。
フェースの仲間たちと井上有一の作品をコラボさせたら、どんな世界が生まれるのだろうという極めて個人的な発想からスタートした3年越しの企画である。
来年が井上有一の生誕100周年に当たり、ニューヨークや北京では大規模な回顧展が開かれるということもあり、その一年前に、有一の終焉の地、湘南で草の根のアーティストたちによる公募展を開こうと周辺の仲間たちに呼びかけ、今年1月から8月まで15回の有一体験をテーマに連続ワークショップを重ねてきた。
まさに現在進行形で、有一のアート魂に触発される有一ingの日々だった。
作品は有田や広島など全国各地から64点が集ってきた。
白磁やダンボール造形、染織、書と絵画のコラージュと多種多様。
大きさも2m四方の大きなものからA4サイズの小さな作品まで千差万別。
素材や手法や大きさに関係なく1点、1点の作品が個性を持ち、すっくとそこに存在している。
会場の蔵まえギャラリーの和室に作品を並べてみると、しみじみ「朋(とも)有り、遠方より来る。亦(また)楽しからずや」の気もちになってくる。
当然のことだけれど、作品たちは障がいの有無や技法の巧拙などを越えて、表現されたものとしての矜持を持ち、はるばる自らの力で湘南の海辺まで旅して来たのである。
ここでしか出会うことのなかった作品たちが、一人ひとり固有の言語を持って何やら話しこんでいる。
正確には分からないものの、その情熱、想いの深さは何となく伝わってくる。
そんな彼ら会話の末端にいて、ワタシは深々と頭を下げたくなる。
展示作業は27日から3日間かけて行った。
まあ、これが結構大変な作業なのである。
まずは大きなものから展示していく。
大きなものは真ん中に飾らない、少しずらす。そこには小粒でピリッと存在感を放っている作品を置く。
「富士には月見草が似合う」の構図で配置するのである。
過剰でノイジーなものの隣にはシンプルでさりげないものを置く。
不思議なのは技法や意識を取り払った、天衣無縫な作品はどこに置かれても、その大らかなオーラを発揮して自遊に存在することである。
これはちょっとした発見。
ここに飾ってほしいと場所を要求する作品と「どこでもいいよ」と飄々としている作品が存在するのである。
一つひとつの作品を紹介することはとてもできないけれど、全体としてとてもユニークな世界が表出した。
一見の価値ありである。
国立新美術館で話題の「ニキ・ド・サンファル」展も面白いけれど、「有一ingアート展」も面白い。
両方見れば、「人にとって表現て何なのだろう?」という永遠の疑問が、ワタシたち自身の生き方に関わっていることに気づくかもしれない。
2015/10/23
Vol.324 どんぐりのベンチ
先週の日曜日、天気も良かったので小さな友だちと林を歩いた。
友だちといっても、来年小学校に上がる女の子と三才になる男の子だ。
前日の雨のせいで道はぬかるんでいて、友だちの小さな靴はすぐに泥だらけになった。
「あーあ、よごれちゃった、よごれちゃった。」
小さな友だちは立ち止まり、じっとベージュ色の靴を見ている。
つま先には黒い土がついて、それをふき取っても汚れが広がるだけだ。
「ほんとだ。靴さん、泥さんと遊びたいのかもね」
ボクは慰めるつもりで言ったのだが、二人はトントンと泥の道を踏んづけ始めた。
「ぬる、ぬる、ぬる」
足先で土をこねだして、ああ、これはまずいぞと思ったのだけれど、もう遅い。
靴はしっかり汚れてしまった。
「あれ?あれ?これなあに?」
突然、女の子がしゃがみ込んでぬかるみを見つめる。
「どれ?どれ?」
「あれ!」
小さな指先の向こうにまっくろな泥玉がいくつも転がっている。
3cm位の大きさ、つまみあげると硬い。
クルミだ。
「もしかしたら、宝物かな?少し拾っていこうか?」
「ウン!」
すぐに四つん這いになり、泥の中のクルミさがし。
手も顔も泥だらけになった。
「あーあ、あーあ」
30個位のクルミを入れたビニール袋をぶら下げ、手洗いを探していると、陽のあたる草地に出た。
草地の端には木立があり、その下のピンク色のベンチにも陽があたっている。
「ブーン!」
突然、子どもたちは両手を広げ走り出す。
小さな二つのグライダーのように右、左に草地を滑空し、ボクはついていけない。
「ブーン、ブーン、ブーン」
彼らはベンチに着地する。
それから、とつぜん木の下にしゃがみ込んで何かをひろい始める。
どんぐりだ。
「いっち、に、いっち、に」
小さな手でドングリをつまみ、ベンチに並べていく。
10個ほど並べるとドングリは倒れ、息をこらしてまた並べはじめる。
やせて頭のとがったどんぐりやまるまる太ったどんぐり・・・、いろいろなどんぐりがベンチに整列する。
4列縦隊。
傾いた陽ざしがベンチの上に五線譜のような長い影をつけている。
「このままにして帰ろうか?」
小さな友だちはうなづく。
三人で手をつなぎ草地を歩き出すと、女の子がつぶやく。
「トトロがどんぐりさん置いていったっておもうかなあ?」
「夜、おほしさんが見つけてくれるかなあ?」
夕空に金星が輝きはじめる。
2015/10/16
Vol.323 気がふさぐ日
気がふさぐ日は、ガブリエル・バンサンの絵本や画集を開くことが多くなった。
ベッドの下に積み上げている本の中から、バンサンの白っぽい本いくつかを引き抜いて、
窓際の日の当たる床に広げ、じっと表紙絵を見ている。
『アンジュール』、『砂漠』、『裁判所にて』『老夫婦』。
振り向いた犬のチョコレート色の垂れた耳、見開いた目、足下の影、かすれた風のような数本の線、
亜麻色の空と枯竹色の砂丘、その間を往くラクダに乗った二つの影、ガンドゥーラ(民族衣装)をまとった父と子、
口元に手を当て何かを考えている禿頭の判事、背後の影の中でうつむいている書記官、斜めに射しこむ陽射しが作っている裁判所の大きな空間、
人気のない午後の部屋、人の座った形をそのまま残している二脚の古いソファ、サイドテーブルの冷めたティーカップ、火を落とした暖炉の上に置かれた卓上時計、
見慣れたそんな絵に視線を落とし、訪れてくるものを待っている。
コーティングした表紙に陽射しが反射して光っている。
そこに指を伸ばし、バンサンの描いた描線をなぞる。
指先のわずかな陽のぬくもり。
裸足の指にも日は当たり、峡谷のような影が指の間に生まれている。
手元にあった『砂漠』を手に取る。
LEDESERTの下に印刷された赤紫の砂漠という文字
そっと頁をめくる。
この「そっと」という感覚は、ボクにとってバンサン特有のものだ。
乱雑に開くと、本の中に閉じ込められているバンサンの視線や静かな空気は逃げてしまう。何度もの経験でそのことを知り、彼女の本を手に取る時は深呼吸でもするように呼吸を整えようとする自分がいつのまにかいる。
本を開くと、見えてくるのはこちら側にある悲しみや喜びではなく、その向こうに広がっている圧倒的な空白の広がりだ。
滲み出していくような諦念、
太古から流れ続けている時間、
それらと拮抗してあやういバランスをとっている、
ボクらの小さくかけがえのない生活。
それさえ見えてくれば、もう頁をめくる必要もない。
気がふさぐ日、
ボクはそんな風に
ガブリエル・バンサンの本を開き、
訪れてくるものを待っている。
2015/10/09
Vol.322 みんながいる、それがはじまり
目の前には、黒い紙にオレンジ色で大きく×印をつけたK君の作品があって、ボクはもう何日もそれとにらめっこしている。
2015有一ing展に出品する作品で、彼は同じような絵を何十枚も描き、それをパウチしてお母さんがボクに預けていったのだ。
パウチすると彼が塗り込んだ下地の黒の筆跡が浮き出して、入れ墨をした皮膚の不思議な文様のように見える。
黒い皮膚の文様・・・そんなイメージは今朝浮かんできたもので、昨日まではなかった。
昨日までボクが見ていたのは、×印の意味だったり、何十枚もクレパスで黙々と×を描いていく彼の姿だったりした。
日によって印象は変わり、その度にボクは翻弄される。
フェースの仲間たちの線や色彩を見ていると、いつもそうだ。
線や色彩がボクを呼ぶことがあり、それに導かれるように仲間たちの世界に入っていこうとしている自分がいる。
そこは簡単には行きつくことのできない何処かで、そこまで行かなければ仲間と本当の時間は持てないのじゃないかと思いつめているところがある。
仲間たちと一緒に絵を描いて生きていこうと決めて25年以上が経ち、いつの頃からか、仲間たちが描いたものにはかけがえのないメッセージがあるんだと思うようになった。
ボクがそのメッセージを聴かなければ、誰がそれを聴くんだという思い上がりも心のどこかにはある。
そのメッセージが現実世界でどんな意味を持っているのかは誰も分からないけれど、一つの命がそこにあるというだけで大切にされなければいけないのと同じようにメッセージも大切にされなければいけないんだということくらいはボクにも分かる。
偏った知識や感性で一方的に理解(解釈)しようとすれば、仲間たちの線や色彩は身をかたく閉ざし、ボクたちを拒否する。
これまでボクは「あるがままに(仲間たちを)受け入れることから全てが始まる」ということをいろいろな所で喋り、本にも書いてきたけれど、それは一面的だったのかもしれない。一方的に受け入れるなんてことは傲慢で、ボクが受け入れられるために、ボク自身をどれだけ解体したのか、そのことが問われているのかもしれない。
ボクはK君の×印を見ながら、そのことを思った。
すると、ずいぶん昔、教員仲間と出した「みんながいる、それがはじまり」(アドバンテージサーバー社)という演劇ワークショップの本のタイトルが浮かんできた。
そうなんだよなあ。
ボクもみんなのひとりなんだよなあ。
仲間たちがボクを呼んでくれていると思うとボクは涙が出そうになった。
2015/10/02
Vol.321 やさしい人たちのワークショップ
9月の長い連休の中日(9/21)、狛江市にある「ナナの家」で「ナナ’ズ コレクション 2015」なるワークショップを行った。
内容は本紙のvol.306に紹介したダンボールを切り抜いたモデル人形にチラシやグラビア写真を貼ってファッションショーをやること。
集ってきたのは、ナナの家を中心に集まっている「やさしい人たち」。
ナナの家を利用している仲間たちや保護者の方々、職員スタッフ、それからナナの家を卒業?していった仲間たち、スタッフのOG、OB達?だ。
実はボクはナナの家が何をやっているかよく知らないのだけれど、学校に通っている仲間たちの放課後のデーケアーや一人ひとりに合わせた生活支援をきめ細かくやっているなあという感想を持っている。
行政では間に合わない不意に突発する緊急な日々の支援は、いつもこうした「やさしい人たち」によってどうにか支えられているのだ。
もちろん、「やさしい人たち」というのはボクの勝手な造語で、一般的に言われている「こわい人」「やさしい人」の「やさしい人」を指しているのではない。
利用者とか支援者といった既成の一方的な関係を越え、喜びや不安、楽しさといった生の感情を共有し、大切にしていこうとしている人たちのことをそう称しているのだ。そうした人たちには独特のオーラや匂いのようなものがあり、それを感じるとボクは出会えてよかったなあといつも思う。
ナナの家でも、そんな「やさしい人たち」が集ってきてくれた。
さて、ワークの様子。今回のダンボールモデルさんは、等身大と言っても2mを超す人もいて、衣装作りはちょっと大変。みんな気合を入れて、紙やチラシを貼っていった。すぐにブルーシートの床は足の踏み場もない混乱状態!時々マットの上を前転する人やソファに座って音楽を聴いては活動に戻る人、それぞれが自分のスタイルで取り組み、あっという間に1時間半の活動時間は終了した。
最後にモデルさんたちを天井から吊るすと、おお格好イイではないか!
音楽を流し「ナナ‘ズ コレクション2015」のショータイムに移る。みんなで曲に乗りながらモデルウオークで歩く。最初は恥ずかしがっていたけれど、そこは「やさしい人たち」、すぐに腰をフリフリ歩き出した。
ワークショップが終り、ナナの家のEさんからメールが来た。
「こんな風に“心を開く時間”が必要だと思いました。Kさん(ボクのこと)のアートにはみんなで創る楽しみがあるのが魅力。私が参加したお父さんのチームでは、お母さんとのやり取りが垣間見られ、お二人が葛藤しながらも娘の大好きなものを入れ込むことで折り合って制作しているのが大変面白かった。あのアートなTシャツの元職員の相方は、職人肌の卒業生。この相反する2人がキーパーソンになってどんなものを創り上げるのかも大変面白いことでした。一言で言って、社会の縮図体験でした。しかも心を開いて楽しめる人の勝ちです・・・」
「やさしい人たち」は、「心を開いて楽しめる人たち」でもあるらしい。