このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2016/01/15

Vol.335 アート初めに考えたこと①



5日がフェースのアート初めだった。
夕方6時に仲間たちが集まってきた。いつものように淡々と画材を広げ、描きはじめる。
すっかり暮れた窓からはさっきまでシルエットになって浮かんでいた丹沢の山並みも消え、駅ビルの灯りや商店街の灯りがまたたき、冬の夜空に昇っている。
黙々と描き続ける仲間や身体からあふれてくる叫びをあげて、机のまわりを回る仲間をみていると、ボクの大切な時間の一つがここにあるんだという気持ちになってくる。
その日は6人のお客さんが来た。昨年の2月からアート活動を始めたという支援施設のアート担当の職員さんが4人、それから体験を希望された中学一年生の女の子とお母さんだ。
スペースは少し窮屈になったけれど、仲間たちは初対面のお客さんにナーバスになることもなく、「やあいらっしゃい」って感じで心を開いて話し込んだり、お母さんたちともすぐに打ち解けてにぎやか、やわらかでゆるやかな空気が生まれる。
カエルの画家のとしきさんは、街頭似顔絵かきのいい機会と一人ひとり順番に机の前に座ってもらって顔を描いている。下地を塗った紙に修正ペンで一気呵成に描いていく。いい感じ、何となく似ている・・・そう思わせる。
尚矢さんは施設職員のお姉さんと何やら嬉しそうにずっと話し込んでいる。
ああ、なんだろうね?このふわっとひらいたやさしい時間。
ボクはいつも感心してしまう。
なぜ世界はこんなふうな時間に包まれないのだろう?

2日ほどして、見学の職員さんたちからメールが届いた。そこには、仲間たちが生き生きと描いたり絵について嬉しそうに話しをする様子が印象的だったこと、アートを全身で楽しんでいるんだなと感動したことなどが描かれていて、ボクも嬉しくなった。
そんな中で、とても率直な一つのメールがボクの目にとまった。
・・・私は障がい者支援に携わり6年近くが経とうとしていますが、仲間たちの可能性に気づくことがどれだけあっただろうか?と考えさせられることもありました。今年度から今の職場に異動になり、何も経験がない中でのアート担当になりました。もう9ケ月が経とうとしていますが、お恥ずかしいことにいまだに指針もはっきりしていない状況です。今回このような機会を与えていただいたことで、自分の目的をはっきりさせることができたように思います。ありがとうございました・・・
それに加えて、2つの質問が書かれていた。それはアート活動に携わる施設職員さんの多くが直面する内容に関わると思うので紹介しておきたい。
●私たちの施設では重度障がいの方が多く、手で何かを持つこともできない方がいます。そのような方々へアートの楽しさや完成する喜びを伝えたいと考えています。どのような方法でアプローチすればよいでしょうか?
●私はアートに関わる職種に携わったことがありません。技法や手法、アートセンスが分からない指導者はどのような方法で技法やセンスを磨けばいいのでしょうか?
まっすぐで、とても大切な質問。
で、ボクは正月ボケした頭を絞って返事を書いた。
でも長い返事なので、今号には掲載できない。
次回に回したい。
ボクは、今年もゆっくり流れ始めた。





2016/01/08

Vol.334 冬の林のなかで



年が明けた。
あらたまった感慨のようなものはないけれど、それでも過ぎていく日は新鮮である。
澄んだ冬の林を歩きながら、年を越えることに祝祭的な意味を見ようとしたのは人類の知恵なのかもしれないと思った。
取り返しのつかない後悔や欲望にまみれながら、おろかな日々を過ごすワタシたちが、せめて年に一度位、謙虚に反省する機会を持とうと設定したような気がするのだ。
それは個人にとどまらず、地球大の反省の時であってほしい。
今年は『エンデを旅する/希望としての言葉の宇宙』(田村都志夫・岩波書店)を読みながら年を越した。
この本の中で作者は、エンデの希望についてこんな風に語っている。

・ある時、エンデは「希望とは超自然的な徳なのだ」と語った。そして、なぜ超自然的かというと、希望とは「・・・だから」持つものではなく、「・・・にもかかわらず」持つものだからだ、と力をこめて話した。
 つまり希望とは、順風満帆、すべて調子よく進んでいて、希望を持つ理由があるから持つのではなく、苦境にあり、万事休す、なにもうまくいかない、希望なんて持つ理由がどこにもない時、そのような時にこそ湧いてくるものだからと言うのである・・・。
『世界はいつの瞬間でも新しく創られる』
『絶望の時、まさにその時こそ希望が生まれる』
そのように言い切れるエンデがうらやましくもあった。

ワタシの小さな窓からは、2016年は憎悪に満ちた戦火や際限のない富の収奪、取り返しのつかない環境破壊など不安や絶望に満ちた世界のようにしか見えないけれど、エンデが語る希望を何度も反芻していると、闇の中に一条の道のようなものが見えてくる気がする。
地面に膝まづいて枯れ葉をまさぐっていると、エンデの言葉がどこかに転がっているような気がする。
昨年の落ち葉が雨に打たれ、腐葉土になり、やがて木々の根元を包む土になり、何百年と時を重ね、地層になっていく。そんな地中深くで、昔からエンデのように黙々と希望を掘り起こしている人びとがいたと想像すると心が温かくなる。
ワタシも気負うことなく、先人たちの背を追いながら日々を生きていきたいと思う。





2015/12/25

Vol.333 手について/Gさんへの手紙



よく晴れた年末の午後、有田から来られた白磁作家のGさん夫妻と、葉山の神奈川県立近代美術館と来年1月閉鎖される鎌倉の近代美術館を回った。
葉山では若林奮の作品を見て、日の暮れた鎌倉では人気のない森閑とした美術館の建物を巡り、鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭の闇の中のかがり火と舞いを見た。
夜、ボクはGさんに向けて手紙を書いた。

「(行く先は)頭ではなく、指先が知っている・・・」
Gさん、あなたはうつむき加減にそんなことを語ったような気がする。
長年、あなたが磨き続けていたのは、そんな指先を持った手のイメージなのだろうか?
その指先に任せれば、頭のイメージを越えた形がおのずとあらわれる。
土に触れた長い年月の先に、そんな手をあなたは持つところまで来たのだろうか?
あなたが向かっていく形。
それはあなたの手が導くところに在るのだろうか?
形は作られるのではなく、脱皮を繰り返し、やがて在るべき形を現す。
あなたの手は、そんな変容を繰り返す形の産婆のような働きをするのだろうか?
寡黙なあなたの言葉を待ちながら、ボクは思う。
手がそんな働きを果たすために、手は手であるための場(舞台)を必要とするのではないかと。
その場を設えることこそ、これからのあなたの大切な仕事なんじゃないかと。
ボクは聴力を失ってから、ボクを呼ぶものたちの声を聴くことに敏感になったけれど、
あなたの大きな手を見ながら、ボクはあなたの手があなたを呼んでいるような気がしてならなかった。
手は手であるために、あなたに場を求めている。
30年前に死んだロシアの映像作家A.タルコフスキーはこんな言葉をボクらに残している。
『私が取り組んでいる芸術が可能なのは、それが私を表現するのではなく、私が人々と触れ合いながら掴むことのできるものを自らのうちに蓄積させている限りにおいてなのだ。』
閉ざされた自己ではなく、外界に開かれた状態である限りにおいて、表現は生き続けることができる・・・永遠にing(現在進行)なのだと。
言いかえれば、あなたの手はあなたの中にあるのではなく、あなたの外にあるのだ。
例えばあの夜、話題になった薬壺(骨壺)。
あなたの手はその形を生み出すための場をあなたに求めているのかもしれない。
頭に浮かぶイメージはいろいろある。
灰になった魂を包むもの、生と死の時間を燃焼する炎、死の先に広がる宇宙のひろがり・・・それから、あなたが言った残されたものへの救済と祈りの形。
それらを薬壺の形として生み出すのはあなたの手だ。
あなたが場をつくり、手は思考し、しかるべき形を生み出していくだろう。
そのような手に、ボクは嫉妬する。
来年、ボクも呼ぶ声に向かって進んでいこうと思う。





2015/12/18

Vol.332 見えないものがつながっていく



生きてると、いつも何かと何かがつながって、それが思わぬ形になって現れたりする。
それが「もう少し遠くまで行こうか!」とボクの疲れた背を押してくれたりする。
例えば狛江のナナの家から来たこんなメール。
「・・・きょう、市役所に障がい者週間の展示に行ってきました。9月のワークショップで(まねきねこさんと)一緒に作った秋コレファッションショー、頂いた雑誌に掲載されていたホワイトツリー(子どもたちは“クリスマスの森”と名付けました)を飾りました。ホワイトツリーはできたてホヤホヤです。ただの発泡スチロールが自然のものを加えるとオシャレになるのですね。プラバンは京浜東北線やシャチ、野球のスコア表、忍者まで!わちゃわちゃとにぎやかになってだいぶ目立ち、他団体の方からもたくさん褒められました。今年はまねきねこさんのアイデアをそのままいただいたので、来年は私たちも柔軟な発想で楽しい作品を考えようと思います・・・作品はいかがですか?」
ボクは無機質で直線的な壁に囲まれた市役所の一画に、仲間たちの元気のいい自由(自遊)なアート空間が登場した様子を想像する。
それはノイジーだけれど変幻自在の豊かな音や色彩、動きで観る人を包み、何かを心に残していくだろう。
来年は、ナナの家からどんな奇抜な作品たちが市役所や街の中に飛び出していくのだろう?少しずつ狛江の街の中にそんな作品たちが日常のように姿を現し、いつかは当たり前に駅のベンチに座っていたり、ケーキ屋さんのショーウィンドーを覗き込んでいたりする、そんな街が生まれたらいいなあと思うのだ。
で、ボクはメールの返事に横浜の緑区にあるぷかぷか村の『アート屋わんど』でやった『アート富士』のワークショップの様子を報告した。
それは12月に入った水曜日の午後のとても寒い日で、余り集まらないんじゃないかと思ったけれど地域の幼稚園に行っている子どもやお母さん、学校帰りの小学生、それからぷかぷか村の仲間たちがてんでに集まってきた。
で、みんなで大きな紙の周りに座り、チラシを切ったりはったり、プチプチスタンプを富士山の周りにばんばんスタンプしたり、ぐるぐるなぐり描きをはじめたのだ。
すると、やりながら絵もみんなもどんどん発熱して、もう活動はマグマ状態!『アート富士』は噴火寸前になったのだった。
そんな風に地域の子どもたちやお母さんたちとぷかぷか村の仲間たちが押しくら饅頭でもするようにアートを楽しむ時間はたまらないなあとボクはすっかり嬉しくなった。


するとナナの家から、こんなメールが来た。
「次は富士山ですか!まさか(富士山が)SALEになっているとは!(写真③のアート富士参照)ぷかぷかさんの作品はダイナミックでパワーがありますね。クリスマスケーキやおせちなどおいしそうなチラシがたくさんある今日このごろ。(私たちも)チラシ集めを始めますね・・・」
ああ、これはスゴイ!ワークショップを通して、互いに会ったこともないぷかぷか村とナナの家が目に見えない根っこのところでつながろうとしているのかもしれないとボクは驚嘆する。
きっと大切なものは、こんな風に見えないところでつながり合って、ある日、突然姿を現すのだろう。
ボクは来年のゴールデンウィークにやる『第三回湘南vividアート』にもナナの家やぷかぷか村のアーティストたちが登場することを夢見始めている。




2015/12/11

Vol.331 来たるべき作品展



先週末、来年のゴールデンウィークに開催予定の「第三回湘南vividアート展」の実行委員会を持った。今年は、あたらしい実行委員の人も集まり13名。どんな作品展にするか、いろいろ面白い議論が噴出した。
従来のように作品を公募し、展示し、見てもらうという作品展は転換点を迎えている。
既成の価値観、権威で作品を飾り、その前で観客が感心する・・・そんな一方的な展示形式は、権威自体が足元から崩れている現代では、会場に足を運んでも本当の感動を生まないだろう(というのが、ボクの考え)。
ボクらが求めているのは、美術評論家や大学のセンセ達の言説を通して、「素晴らしい!」と知的感動に浸る、そんな受動的な感動ではない。
観る人と作品がフラットに交流する、能動的で感覚的なもの。
日々、シンドイけれど、とにかくどうにか生きてるよ・・・そんな日常に直接触れてくる人肌的な感動のような気がする。
(『シンドイ』という感覚・・・多分、ボクらは文明史的な個人(国家、コミュニティー)の解体状況に生きていて、あたらしいボクらが登場するための脱皮段階にいるのだ。その仄暗さは大きな時代的感情になって地球を覆い始めている・・・)
たった一つの作品(ワーク)に出会えば、あしたに向かってもう一歩足を踏み出すことができるかもしれない・・・そんな刹那的な出会いを求めて、人々はギャラリーや美術館を彷徨しているのかもしれない。
湘南vividアートに関わってから、ボクはそんな時代の声を体現するような作品展は可能なのだろうかとずっと考えてきた。
来たるべき作品展・・・、
それは限りなく作品と個人の境界を取っ払っていく迷宮のような形をとるかもしれない。
見えてくるのは、誰もが表現者になっていくという道と作品を媒介にして、観る人であると同時に表現者であるような対話と行為が編みこまれていく、二つの道だ。
そこから無数の表現路地が派生し、絡み合い、人肌空間が醸成されていく。
そこには展示期間中にも創作され続ける永久機関のような未完成作品や不特定多数の人の関与によって変化し続ける作品群も登場するだろう。
それは作品に触れる、表現に介入するという形をとるために、既成の芸術概念や聖域に対するタブーを破ることにも繋がっていくだろう。
一方で表現を取り引きする古典的な領域にも新たな活路が拓かれるかもしれない。
会場内を放浪する似顔絵かき、いたる所に不意に現われるミニ市場・・・まあいろいろなスタイルで闇商いが行われるだろう。
そこでは誰もが自分というものを問い直しながら、迷宮を巡ることになる。
不意に出会った作品や作家に話しかけ、作品の断片を手に入れようと言葉を尽くし・・・或いは、現在進行形の変容作品に干渉し・・・少しずつ自分が解体され、変容していく蛹のような自分に出会う。
ああ、そんな風な作品展はできないものか?
12月の湘南vividアート展実行委員会では、メインのキャッチコピーが採択された。
『すべての垣根をこわせ!』・・・である。
ボクの中に、壊すべき内なる垣根は星の数ほどありそうだ(笑)。