このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2016/02/19

Vol.340 みんなアーティストになっていく



まだ春は来ていないよね?
でもなんだかおかしいのだ。
ボクのまわりは、いろとりどりの花、光のはじける音に満たされている。
どうしたんだろう?
というのは、年が明けてから、フェースの仲間たちの絵が紙から立ち上がり、ボクの周辺を飛び始めたのだ。
まるで冬枯れした地面にいっせいに草花が顔を出し、裸の枝先に芽吹いた新芽が聴いたこともないほがらかな歌を歌いだしている。
そんなものにボクは包まれているのだ。
そのままでいい、
そのあるがままの姿とスピードで、
線を描き、色を生み出し、踊ればいい。
そんな世界の入り口にボクも、やっとたどり着いたのだろうか?
ボクの中には
君たちの手の動きがあって、
君たちの指先からあふれてくる形や色彩を追って、
どんどん遠くまできたような気がする。
きょう、君は
君より大きい君を描いた。
新聞紙を貼り合わせた紙を机にひろげ、君は筆をもって駆け出した。
ボクに追いつけないスピードで、
君はかくれんぼでもするように、描き残した線や色の陰に隠れ、
どんどん遠くへ駆けていった。
きょう、君は
はじめて青と黒で1枚の紙を塗りつぶした。
力を込めた視線で紙を見つめ、
頭を振り、筆を走らせ、紙は厚みのある一枚の扉に変わった。
それから、君は荒々しくその扉を開けて、向こうの世界に入っていった。
ボクはその扉の前で立ちすくんでいた。
きょう、君は
青い猫を描いた。
猫は行儀のよい姿勢で座り、
描かれていない目でボクを見ていた。
ボクも君の猫のように行儀よく座り、君が差し出す絵を待っている。
ああ、
みんなアーティストになっていく。
君たちの身体から湧いてくる花や歌に誘われ、ボクは帰り道を見失ったかもしれない。






2016/02/12

Vol.339 フェードアウトの季節



■曇天、辻堂の海辺
わが猫の師匠も老いた。
突堤に座ったまるい背はますます丸くなっている。
毛艶の褪せた短躯の手足を舐めながら、ボクに言うのである。
「ふーう、老いてまさに知ならんとして、耄これに及ぶ・・・」
(残念ナガラ年トレバ知恵ハ身ニツクケレド耄碌カラ逃レラレナイ。体力、気力ガ追イ付カナイ。ヤリタイコトハ砂塔ノヨウニ崩レテイクダケダ・・・アア)
ためいきをつき、潮風に目を細める。

■深夜、伊豆のあばら家
トタン屋根におちる小枝の音を聴きながら、眠りを待っている。
傷んだ網膜に浮かんでくる映像はない。
鮮烈だった時間の痕跡もなく、積もりつづける砂に囚われている。
補聴器をはずす。
消える森の音。
頭蓋に耳鳴りが生まれる。
砂はやむことなく身体を覆っていく。
やがて、そこに砂の凹凸だけが残されるだろう。

■灯ともし頃、ゆるやかな坂道
「ゆっくりフェードアウトできたら最高だね」
暗い街灯の下、襟を立てた影がささやいて坂道を下っていく。
石畳に座り、くれていく海を見ていた世捨て犬も、いつのまにか姿を消した。
なつかしい思い出も、坂道を転がっていく。
消えていくものの記憶も消える
亡くなった鶴見俊輔は「もうろくの春」という詩集を残した。






2016/02/05

Vol.338 K君の白いページ



日曜日の朝のフェースにK君のお母さんが手作り絵本を持ってきた。
「Kはいまこんなの作ってるんですよ。表紙と裏表紙だけ描いて中は真っ白ですけれど」
八つ切り画用紙の端を1cmほど折り返して、ホッチキスで綴じた独特な作りの本だ。
表紙にはK君のオリジナルな人物や生き物がカラフルに一杯描かれている。
裏表紙はみんな真ん中に集まって、そこから少し離れて二人の少年がぽつんと立っている。
おや?っと思わせる繊細な構図。
ホッチキスの針跡が異生物の足跡のように点々と続いている。
文字はかかれていない。
言葉を話さないK君の想いがあふれている、ステキな装丁だ。
「何冊も作っているんですよ。」
お母さんに手渡された本をめくると白いページが目に飛び込んでくる
。 5枚ほど続く白いページ。
表紙の絵のにぎやかな明るさとは対照的にまっしろな静寂/空白が続いている。
私はその前でたじろぐ。
そこから先には私が立ち入ってはいけない大切なK君の領域が拡がっているようなのだ。
身体の中からあふれてくるものを捕まえようとして、大きな声をあげたり、手を振ったり、ジャンプしたりするKくんのもう一つの想い、言葉、絵画が、いつかここに描かれるのだろうか?
あるいは、空白という形ですでに描かかれているのだろうか?
「何をK君はここに描こうとしているのでしょうね?」
私は白いページを展げ、お母さんに見せる。
お母さんは戸惑いの微笑を浮かべる。
「私にもわかりません。ただ、何冊も表紙だけを描いて作っているんですよねえ」
「本にしたいのかなあ?本にして伝えたいものがあるのかなあ?」
お母さんも私も黙って白いページを見つめる。
すると、K君がハサミで紙の大きさを切りそろえ、端っこを折り込んでホッチキスで止めようとしている姿が浮かんでくる。
厚手の画用紙を何枚も重ねて、ホッシキスで綴じるのは、そんなに簡単なことじゃない。
何度も失敗しながら、手元を見つめ、力を込めてホッチキスを押しつづけるK君の集中した視線、息遣いが伝わってくる。
それは、私の知らないもう一人のK君の姿だ。
それは表現者の崇高な姿のようにも思える。






2016/01/29

Vol.337 森に迷い込む



年をとると迷いが楽しくなる。
ああでもない、こうでもないと踏み出す前のためらいじゃない。
やってしまってから、ああこれからどうする?とオロオロ、そんな後戻りのできない窮状を楽しむのである。
途方に暮れる時間、心細さを楽しんでいるのである。
どこかで嵩をくくっているのかもしれない。
年寄りの甘えだといわれれば、そうかもしれない。
「何やってるんだよ!」と叱責されれば、微笑を浮かべ、ごもっともと受け流す。
そこには若い衆にはわからない人生の奥行きのようなものがある。
「ま、おニイさん、そんなに熱くならず座んなよ」と隣の地べたを指すのだが、おニイさんには、そんな時間も気持ちのゆとりもない。
若い頃は逡巡よりも一途さがカッコよく見えるのである。
『とめてくれるなおっかさん/背中のいちょうが泣いている・・・』
昔、そんな橋本治のコピー文句に突き動かされてワタシも荒野をさまよった。
いまなら、「何がおっかさんだ!背中のいちょうだ!」と歯牙にもかけないが、若いっていうのは何にも知らないから、ついその狡猾なセンチメントの向こうに何かがきっとあると思い込んじゃう。
甘いね、浅いね。
しかしいまは、そんな一途さはカッコ悪いのである。
わからないならわからないまま、そこで立ちすくめばよい。
しゃがみこんで、足がしびれるまでオロオロしていればよい。
迷い込んでしまえばいいのだ。
人生は森である。
アンリ・ルソーの描いたジャングル「La Reve(夢)」である。
ゴーギャンのタヒチ、「Te Arii Vahine(マンゴの女)」(写真上)である。
わがフェースの仲間、加藤翔太の「サンゴの森」(写真下)である。
一本の道しかないって、そんなに思いつめることはない。
日々、映像となって流れてくる戦火に追われる子どもたちのまなざしは、ワタシの胸をえぐり続ける深い呪詛ではあるが、ワタシは目を閉じ、耳を閉ざし逃げることはしない。
まなこを開け、耳を澄まし、何をしていいかわからない苦さを身体に満たし、オロロと生きるだけである。
大きな流れの中で、迷いの森に踏み込み、行方知れずとなってもよいだけの覚悟は持って老いて生きたい。
フェースの仲間と絵を描いているときも、戦火の子どもたちが浮かんでくることがある。
仲間たちの表現の奥にそのまなざしがあって私を見つめているのだ。
そんなときは立ちすくんでしまう。
見えていたものが、音もなく剥がれ落ち、ワタシはしゃがみこんでその欠片を探している。
時々、それがフェースの仲間たちと生きるワタシの人生の姿勢なんだと思ったりする。






2016/01/22

Vol.336 アート初めに考えたこと②



前回の続きである。
アート初めのフェース見学に来られたSさんの質問(メール)について書く。
質問は二つ。
●私たちの施設では重度障がいの方が多く、手で何かを持つこともできない方がいます。そのような方々へアートの楽しさや完成する喜びを伝えたいと考えています。どのような方法でアプローチすればよいでしょうか?
●私はアートに関わる職種に携わったことがありません。技法や手法、アートセンスが分からない指導者はどのような方法で技法やセンスを磨けばいいのでしょうか?
アート活動に携わる多くの施設支援員さんの抱える課題である。
以下はワタシの返信メール。
「筆を持てないなどの方にどのようなアート活動が可能なのかということですが、一人ひとりのアート活動の目的をはっきりさせることが大切だと思います。アート活動は作品を完成させることだけが目的ではなく、その活動自体がアートの表現になることが少なくありません。アート活動の目的は一人ひとり違うので、同じテーマで活動していても、その内容、支援の形、その度合いはそれぞれ異なります。
障がいの軽重に関わらず、アートの始まりは活動を楽しむこと。その楽しみ方も、手の動きを楽しむ人もいれば絵の具などの感触を楽しむ人、音楽などにのりながら指導員さんと一緒に過ごす時間を楽しむ人もいて、一人ひとり違うのですが、最も大切なのは障がいのある方に寄り添う指導員さん自身もそれを楽しんでいるかということです。
何かの活動を考えられるときはそのような互いがリラックスできる内容を考えるべきです。一緒に活動される方の嗜好や快・不快、手足の可動範囲や動き方などを私たちが学び、どんな素材で、どんな活動をやればいいのか試行錯誤しながら作っていくことが大切です。
一緒に活動するということはとても大切。それが互いに心地よいものであれば、それが次につながる活動のスッテプになります。
既成の活動ではなく、利用者の方とあなたの関係だからこそ出来るオリジナルなアートを目指すべきです。どんなささいなものでも、どんな小さなものでも、たとえ未完であろうと、一緒の取り組んだその活動自体がかけがえのない大切な時間を持っていて、それは必ず人の心を打つだろうと思います・・・」
「次にアートの指導者についてですが、私は指導者とは利用者が持っている表現の力、楽しみ力を引き出してあげられる人なのだと思っています。アート活動の主体はあくまで利用者であって、指導者ではありません。ですから学校の先生のように作品をうまく描かせるとか正確に描かせるといった技術を教える立場とは全く異なります。極端に言えば作品は何でもあり。その人に寄り添って、その人らしい表現が生まれていればいいのです。で、その人らしい表現とは何か?これがとても難しい。その人ならではの表現とはあるがままのその人から学ぶことからしか見えてきません。それを前向きに学ぼうとする人がよき指導者なのだと思います。
指導者にアートのセンスがあるかどうかではなく、利用者の人と一緒に表現を楽しめるかどうか、その謙虚な姿勢や柔らかな感性こそが問われるのだと思っています。
それには指導者としてアート活動に関わるよりは、一人の人間として心を開き、様々なアート活動を経験していくこと、その積み重ねが大切なのだと思います・・」
ワタシは少々硬くるしい返事をSさんに送ってしまったかもしれない。
何日かして、こんなメールが返ってきた。
「私が勘違いしていたこと(アートのセンスや技術など)が覆されました。私も一緒に試行錯誤していいのだとホッとした部分もあり、私自身が楽しいか?一緒に楽しめるか?ということの重要さ。その中で利用者のよいところやできること、興味あることを拾い上げ、どんどん展開していくこと、制作過程もアートであること。全てがアートである・・・それは、私自身にとっても、非常に嬉しく楽しいことですし、目指したいところだ!と非常に感じました。」
嬉しいね。
Sさん、いつか一緒に仲間たちとアートワークショップでもやりたいね。