このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2016/06/03

Vol.355 シンクロニシティー



R様
先日は湘南vividアート展にお越しいただき、ありがとうございました。
また貴重な詩集「なみだ」「微笑」をお送りいただき、ありがとうございました。
Vividアート展の後片付けもやっと終わり、静かな気持ちで詩集を開かせていただいております。
読みながら、藤沢蔵まえギャラリーの掘りごたつに座り、ゆっくりと話されるRさんの声と表情も浮かんでまいります。
お聞きした食道癌手術の壮絶な話と重ね合わせながら、詩の言葉をたどっていますと、
二冊の本はRさんの人生の節目節目に縁あって出された大切な言葉の川のような気がしてまいります。
水に手をつけるように読ませていただいております。愚鈍なワタシの指先にもいのちの鼓動のようなものが伝わってくるようです。
それがワタシの身体の中でどのように変容していくのか、いまはわかりませんが、言葉が導きのようなものとなり、暗闇の中にあるワタシの足元を照らしてくれるような気がしております。
Rさんのことは、たまたまTさんよりお聞きし、いつか機会があればお話をお伺いしたいと思っていた矢先のことでしたので、わざわざ展覧会においでいただき、現在の心境などを聴くことができ、不思議な縁(シンクロニシティー)を感じました。
昔、障がいのある仲間たちと三年ほどかけて、般若心経の文字を書き(描き)ため、蔵まえギャラリーの土間壁三面12mほどに埋め尽くす作品展を行いました。
もちろん一つひとつの文字は形を成したものではありませんでしたが、文字を書けない人は書けないなりに、線を走らせ、墨をぶつけ、色彩を放出する、そんな自由自在にデフォルメした文字群でした。
Rさんが刻印された般若心経の文字を見つめていますと、あの頃の仲間たちのいのちの脈動のようなものが蘇ってきました。これもまたシンクロニシティーと重なるものでした。
 二冊の本を手にし、思いますのは、第三詩集のことです。
どんな題名になるのか、どんな言葉がそこに書かれるのか、楽しみです。
癌摘出という大きな試練をのり越えられ、Rさんの言葉の川が海に出るまでの流れを今後も見せていただければ幸甚です。
長くなりました。
つたない感想ですが、お許しください。
お体ご自愛下さい。

2016年5月17日



2016/05/27

Vol.354 巨大フランスパンを作る



5月のよく晴れた午前、久しぶりに横浜/ぷかぷか村のアート屋わんどでワークショップをやった。
テーマは「巨大フランスパンを作ろう!」
3mを超えるフランスパンや野菜を段ボールやチラシで作り、ぷかぷかカフェの壁に貼ろうというもの。
で、集まってきたのはぷかぷか村の住民(仲間たち)やぷかぷか新聞を読んで集まった15人位。
年は、一番若い人は3歳のケンタローさん、一番長老はカメラマンをやった、プカプカ村の村長高崎さんで、年の差は実に半世紀を軽く超えるのである。
(これはちょっと機密事項?なのだけれど、高崎さんはワタシより1歳年長)
とにかく老若男女が絵具を塗りたくったり、チラシを自由にコラージュして、1時間半ほど手足と心を動かして遊ぶのである。
できるかぎりルールは設けない。
周りの人の絵やコラージュの上にどんどん自分の色や線、チラシを重ねっていってもOK。
誰も文句は言わない。
だから、おとなしい仲間なんかは細長い3mのパンの片隅に自分の居場所を見つけて、そこでシコシコ色を塗った、貼ったりしている。
何を言わなくても、そんな活動場所の棲み分けが自然にできるのだけれど、それに構わずどんどん侵犯していくのが3歳、5歳の子どもたちだ。
雑巾を丸めた筆で、丁寧に色を塗っていた箇所を一気に塗りつぶしていったりする。
「あっ、あーあー」そんなため息や悲鳴がいたるところでおこる。
でも、ま、それも仕方ない・・・そんな諦めの表情が仲間たちの顔に浮かぶ。
それがまた人間臭くていいのである。
いつも、ワタシのワークショップは日常の関係やルールを壊して、進んでいく。
だからそんな活動現場に身を置いていると、少し身を引いて見守っていたお母さんやお父さんも、だんだんアーナーキーな気分になってくる。
「もういいや!」
「やっちゃえ、やっちゃえ!」
日常のしがらみから解き放たれて、どんどん自由に絵の具を塗りたくり始める。
色なんか考えない。
塗る場所も考えない。
「もう、どんなにパンになっても知らないぞ!」と自在に手が動き出す。
そうなると、それまで沈黙を守っていたフランスパンもしゃべり始める。
「いいぞ!いいぞ!」
一緒に喜んでいる。
それを外に運び出して、並べてみる。
なんだかわからないけれど、立派な手作りパンと野菜君たちである。



*この日のワークショップの様子は、ぷかぷか村の村長高崎さんがhp上にステキな写真と詳しい解説?をアップしてくれていますので、そちらをご覧ください。
http://pukapuka-pan.hatenablog.com/entry/2016/05/22/163602
くすくすミュージアムのfbでも紹介しています。


2016/05/20

Vol.353 出会い



湘南vividアート展が終わって暑い日が訪れた。
今回のVivid展は、ゴールデンウィーク開催にしたためか、今までになく多くの人が訪れてくれた。
FMヨコハマやJCOM湘南、新聞各紙などメディアで紹介してくれたこともあるかもしれない。
懐かしい人、初めての人、心に残る出会いがボクにもあった。
その出会いは過ぎ去った時間やこれから始まる時間が交錯する不思議なエネルギーに満ちている。
出会いは人間たちだけではない。
作品たちとの出会いも深いエネルギーに満ちている。
作品たちは慎み深い人間よりも慎み深く、同時にアウトローだから、ボクのやわな感性は鋭い爪に引っかかれ、ねばねばした唾液に包まれ、右往左往し、疲れ切る。
それでも作品たちの輝きやむき出しの想いはボクを魅きつけてやまない。
作品たちと対峙していると、彼らは容赦なくボクを解体していく。
植え付けられた美意識の階層
追従を強いる権威構造
意味のない評価信仰
理解したがる脳
あれやこれや
etc
解体される自分を見ていることは爽快だ。
解体された後にどんな自分が残るのかはわからない。
どんな世界がひらけていくのかもわからない。
そのワカラナイ感がボクの人生を作っていく。
晴れた朝、
風の吹く海辺に立つと、
青に染まる水平線を見ているように、人生を見ている裸の自分がいることに気付く。
それは喜びのひと時だ。
ああ、
それでも
どんな鮮烈な出会いも少しずつ日常に埋もれていく。
熱い陽ざしの道を歩きながら、
ボクはギャラリーの薄暗い土蔵の小さな窓から広がる、仲間の描いた青空を思い出す。
小さな白いブラウスに刺し子された赤い糸の圧倒的な流れを思い出す。
出会った作品や人たちは、いまどんな時間を過ごしているのだろうと思ったりする。




2016/05/13

Vol.352 ニキフォルのようなまなざし



第三回湘南vividアート展では、仲間たちは似顔絵かきにも挑戦した。
普段はまず出会うことのない作家たちと絵を見に来られた方が似顔絵を通して交流してほしいという願いがあったのだが、それはあくまで主催するボクら側の想いで、もちろん仲間たちの希望ではない。
それに観客から彼らの画風が、どれだけ受け入れられるのかも全く分からない。
遠くから画材を携え、似顔絵を描きにきたのに全くお客さんがつかないということもある。
それだと申し訳ないなあという不安もあっての挑戦だった。
結果は10人の作家が挑戦し、絵を描いてもらいたいと作家の前に座った人数は50人を超え、売り上げゼロという作家は一人もいなかった。
中には、FMヨコハマの生放送で似顔絵かきについて触れたこともあり、「ラジオを聴いて描いてもらいに来たよ」という人も複数いた。
結果としては、やってよかったという想いがボクには残った。
彼ら自身の感想は、これから聞いてみなければわからない。
話しをしない人や言葉を使わない人もいるので想像するしかないかもしれないが、介助の人たちや保護者の方々から送られてきたメールを読む限り、またやりたいという前向きなものが大半だった。
ボクの印象に残ったのは彼らの真剣なまなざしだった。
お客さんを前にして、小さな紙に描いていく彼らがボクには自立した一人の表現者に見えた。
彼らがここまで来ているのかという嬉しい驚きもあった。
似顔絵かきをやるにあたっては、フェースに見学に来た人やヘルパーさん、自分の親ではない人をモデルにして15分くらいで顔を描く練習を何度もやった。
初めての場所(ギャラリー)で、初めて会った人を前にして、絵を描くという行為自体が仲間たちを不安に陥れることは十分に予想できるので、目の前に人が座る/「描いてください」と依頼される/紙に顔を描くという一連の行為を経験則として、事前に受け入れてもらいたかったからだ。
初日は表情も硬く、なぜ描かなくちゃいけないのか納得できず、気持ちの荒れる仲間もいたが、二回目からはそれを受け入れ描く枚数も増えていった。
中には、お金をもらうことで似顔絵の味をしめ、自分から「描きに行こう」といいだす強者も出てきた。
描き終わり、お客さんから「いくらですか?」と聞かれ、まっすぐ手を突き出し「300円!」と不愛想にいう仲間の姿を見ていると、ボクは48年前に亡くなったポーランドの画家ニキフォルを思い出した。
彼も小さな駅前で、チョコレートやたばこの包み紙の裏に描いた自分の絵を行きかう人の前に突き出し、その日のわずかな生活費を稼いでいたのだ。
仲間もニキフォルも描かずにはいられない表現者たちだ。
その作品は評価を求めない作品だ。
ギャラリーの土蔵や掘りごたつに座り、修正ペンやアクリル絵具、水墨で一心に筆を動かく彼らを見ていると、もしかしたらこの光景こそ、第三回湘南vividアート展のもっとも心打つ作品(パーフォーマンス、表現)なのかもしれないとボクは思った。
いつか、仲間たちの居住する駅前で似顔絵を描いている彼らの姿が日常にならないかとボクは夢見る。




2016/05/06

Vol.351 ミュージックデー/特別な時間



4月30日、松島みかさんのオペラ「カルメン/ハバネラ(恋は野の鳥)」の張りのある歌声がふすまを取り払った和室に響き渡った。
最初の一声で、鴨居やイーゼルや土壁に飾られた作品たちがぶるっと身を震わせ、「な、な、何だ?」と目を見開いた。
「恋は野の鳥、だれも手なづけやできない・・・おどしたって、すかしたってどうにもなりゃしない・・・規律なんてなんのその、つかんだと思えば逃げてゆく・・・あたしを好きになるならせいぜい用心しなよ」
男たちを嘲笑するカルメンのセリフに、土蔵の壁に飾られた森山画伯の人物像がガクンと傾く。
みかさんが口にくわえたバラの花を観客に混じった賀来さんにポーンと投げる。
賀来さん、バラ一輪片手に恥ずかしそうに下を向く。
いいねえ、いいねえ。
土間や帳場、土蔵を恋の歌が輝きながら吹き抜けていく。
そう、その日はいくつもの風が吹いたのだ。
Kippisのやわらかなギターやオカリナ、ウクレレ、子どもたちの歌声は春風のようにやさしく耳元をくすぐり、
みちこ&サムさんのバイオリンとベースギターによる映画音楽に、みんな目を閉じて昔を想い、
賀来さん助さんのリコーダアンサンブルは澄んだ水が流れるように美しかった。
初夏を思わせる日差しが障子にゆれていた。
特別な時間。
ひざを突き合わすような距離で展開する音は見えない衣で観客を包み込んでしまう。
衣の中で、体や心が溶け出す。
発熱するそれら、
流れ出すそれら、
それは、観客と演奏者が一体化することで成立する、一つの創造世界なのだ。
人の声も一つの楽器、色彩、描線なのだとしみじみ思う。
最後にみんなで「明日があるさ」を合唱。
(確かに作品たちも歌ってた)
大きな声が響き合う。
床の間を背にした小さな、小さなコンサート。
そこには、日常にはない祝祭の時間をみんなで創りだしているような特別な感動が生まれていたような気がする。