このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2016/07/08

Vol.360 霧の中で



6月の終わり、1週間ほど伊豆で過ごした。
標高400mほどの山の斜面にある小さな古い家。
バスを降りると霧が坂道を流れていた。
柔らかな湿った空気に包まれ、ゆっくり歩いた。
桑の茂みから鹿が飛び出してきた。
白い斑点のある仔鹿だ。
まっすぐこちらを見て、霧の中に消えていった。
喰いあらした桑の実が道に散乱している。
夏の木立に隠れたような石段を登り、扉の前に立つと、いつも過ぎた月日が頭をよぎる。
過ぎ去ったものはいつも美しい。
雨戸を開けると、かび臭かった室内に水の匂いが流れ込んできた。
霧に閉ざされ、海は見えない。
うずくまった人影のように、山肌に木々が続いている。
深く息を吐いた。
吐いても吐いても、吐きつくせない石のようなものが身体に残っている。
今年も半年が過ぎ、いつの間にか疲れがたまっているのだ。
カザルスのチェロをかけて、少し眠った。
目を閉じていると鳥の鳴き声が聞こえてきた。
カザルスの手の動きに合わせて歌っているような声だ。
鳥も彼のチェロを聴いているのだろうかと、音を消すと鳥の声も消えた。
目が覚めると、赤みを帯びた光が差し込んできている。
木枝をリスの走る気配がする。
夕餉を作る。
一人分のささやかな食事だ。
湯のたぎる輝き
野菜を炒める音
手を動かしているとそれだけで元気が出てくる。
夜、
また霧が出た。
窓を開け放して風呂に入っていると、虫たちが光に集まってくる。
何匹かは湯に墜ちて、手足を動かしている。
窓辺の蜘蛛の巣にかかった蛾が逃れようと羽ばたきを繰り返している。
深夜、
何ものかが庭先に出しておいた残飯を食べに来ている気配がする。
同じ食物を分け合っている家族のような気持になる。
霧の中のひそかな営み。




2016/07/01

Vol.359 海辺のベンチ



6月は藤沢と横浜の長津田で、同時並行の新しい活動を始めた。
仲間たちと1年ほどかけて絵本をワークショップ形式で制作するという取り組みだ。
ここ数年、取り組んで来たワークショップは、出会った人たちと『何か』をその場で創り出す一期一会的な活動だったのだが、それを継続させ『一つのもの』を生み出したくなったのだ。
『一つのもの』、それを絵本にした。
不特定多数の仲間たちと作っていくのだから、絵本といっても、書店に並ぶきれいな絵本というわけにはいかない。
両手を広げたくらいの大きさで、仲間たちの描いたものを貼りつけたゴワゴワ感満載の、厚さが10cm位にもなるような絵本。
それ自体が一つの造形作品にもなるような絵本だ。
子どもだと、ページをめくるのも一人じゃ大変。
本を床に立てて、身体ごと絵本の世界に入っていく。
もしかしたら、そこは色彩や線やことばが絡み合った迷路のような世界かもしれない。
迷い込んだら出てくるのは大変!
そんな絵本をつくりたいのだ。
でとりあえず、そんな絵本世界の入り口を『海辺のベンチ』に設定した。
砂浜にぽつんと置かれた古ぼけたベンチ。
そこから、どんな物語りが始まっていくのかは誰もわからない。
もちろん、言い出しっぺのボクには、大まかなストーリーはあるのだけれど、それはいずれ別のものに変わっていくだろう。
6月、藤沢でも長津田でもベンチからスタートした。
長津田ではトトロの家を思わせるような緑の風が吹く「石黒さんち」で、仲間達やお母さんたちが海やベンチを描き・・・
藤沢の太陽の家では、3歳の子どもから70代後半の地域のアーティストも混じって、色彩と格闘し始めた。
そんなふうにして姿を現した二つのベンチ。
そこからどんな世界が展開していくのだろう?
考えて見えてくる世界ではない世界、
偶然でしか姿を現さない世界、
そんなものの出現を可能にするのがワークショップ形式の制作なのじゃないかと夢見ている。
うまくいかず途方に暮れたときは、一人ベンチに座り、波の音でも聴いていたい。




2016/06/24

Vol.358 あーとする月曜日



今年の3月からちょっと面白い試みを開始した。
相模原市内の精神障がい者の自立生活支援を目的とした地域活動支援センターカミングというところでアートを始めたのだ。
まずは集まってきた人たちと会の名前を決めた。
「なにがいいかなあ?」といろいろ思いつくままの名前を挙げてみるが、どうにもつまらない。
考えるのにも飽きてきたところで、背筋を伸ばして「あーあ」と大あくび。
「あっ、それだ!それでいこうよ」とひらめいたのは「あーと(あくび)する会」。
リラックスして、おしゃべりを楽しみながら自分の表現を探していこうという趣旨のネーミングである。
集まってきたメンバーは、それぞれに絵を描いてきているけれど、一人で描くのにあきたらないというか、一緒に描くことでもっといろいろな意見や表現方法をみんなから学んでいきたいという人たち。
とてもまじめでワタシなんかの出る幕ではないのだが、その気持ちはわかる。
表現者は孤独なのである。
表現はその人以外にはありえない切実な活動ではあるが、それを継続していくことは難しい。
いつも直面するのは自己満足とか独りよがりの表現になっていないかという不安。
もっと気楽に表現を楽しめばいいのだけれど、のめりこめばのめりこむほど苦しくなる。
苦しくなれば逃げ出せばいいのだけれど、逃げ切れない。
表現の想いは心に残るのである。
表現というのは本来、自分を解放するためのものである。
それが逆転し、自分を縛ったり、自虐的に否定してしまうのだ。
で、「あーとをする会」の代表、Hさんはワタシを呼んだのだ。
「きてくださいよ~」
「え~、自分たちでサークル的に楽しくやればいいじゃん」
「いやあ、自分たちだけではできないんすよ」
そんなやり取りの末に月一回、月曜日に活動支援センターカミングを訪れることになったのだ。
先日の月曜日、ワタシは自転車を走らせ、三回目の「あーとする会」に向かった。
蒸し暑い曇天、横浜線沿いの静かな道を走る。
すると、散歩のような気分でペダルを踏んでいるリラックスした自分がいることに気付いた。
「なんだ、(自分も)しっかり楽しんでいるじゃん」
そう思うと、あーとする月曜日の午後も悪くないなと心が軽くなった。
その日のテーマは「火、水、石」。
Fさんは二本の川が交わる不思議な光景を描き、Yさんはアルプスの麓を流れる澄んだ水を描いた。




2016/06/17

Vol.357 水俣の風に吹かれながら



気持ちの良い風が吹く六月の午前、
出水の子どもたちとチラシを破って、ピザを作った。
出水市は水俣から14km南に下った海辺の街。
1年9ヶ月にわたって、チッソ本社前で水俣病の理不尽さを訴え続けた川本輝夫さんの長男愛一郎さんが、デーケアーセンターや訪問介護ステーション、発達支援ルームなどを開設し、共に生きる地域づくりを展開している街だ。
愛一郎さんは30年を越える古くからの友人。
水俣病を人間の欲望が生み出した事件としてとらえ、一人ひとりの人間を大切にする地域作りやその人らしさの回復を目指し、リハビリ活動を中心に地道に取り組んでいる。
その愛一郎さんから「今度、発達支援ルームを開設したので、地域のお母さんや子どもたちとワークショップをやってもらえないか」と声がかかったのだ。
ワタシにとっては10数年ぶりの地で、水俣病の公式確認から60年の年に再び訪れるのも何かの縁かもしれないと思いながらの出立だった。
『ここすてっぷ』と呼ばれる支援ルームに集まってきたのは、就学前の子どもたちやお母さん、支援員さんを含めて20名ほど。
どこでもそうだけれど、お母さんも子どもたちも壁際に貼りつき、何が始まるのだろうと不安そう。
きっと、生まれて初めてのワークショップなのだ。
で、そんな時はくどくど能書きは垂れない。一気に活動に入る。
この日は、模造紙を破って、ピザの生地作り。紙をノリやセロテープで貼りあわせ、丸や四角のピザ生地を作る。
適当に貼って、適当な形にしていく。この適当感、自由感がみんなに浸透したら、ワークショップは成功間違いなし。
例によって絵具を手で伸ばしたり、ポンポン筆で叩いたり、柔らかな活動が続く。
生地の上にはウィンナーやトマトや卵が乗るかと思いきやゴリラやアイスクリーム、好き勝手にチラシから切り取ったいろいろなものがてんこ盛り。
ま、いいか。
みんなで出来上がったワークショップ特性ピザを鑑賞したら、今度は本物のピザ作り。
子どもたちはワークショップとは打って変わり、しっかりやり方を聴いている(笑)。
戸外に設けられた本格的なピザ窯の周りで、子どもたちは自分でトッピングしたピザが焼きあがるのを持っている。
子どもたちの顔は新緑の陽ざしに輝いている。
一度は壊れた美しい世界が再びよみがえりつつあるような気持ちの良い風がそこには吹いていた。




2016/06/10

Vol.356 水俣資料館にて



5月末から6月初めにかけて九州を回った。
心に残る人々や風景、甦る時間に出会うことができた。
中でも、繰り返し心に刻まなければいけない言葉たちに出会うことができたのは幸いだった。
その言葉たちは水俣病情報センターから資料館に向かうスロープの壁に展示されていた。
4年前に亡くなった原田正純さんの言葉である。
紹介したい。
「水俣高校に公害教育に熱心な先生がいました。この先生がある日、智子さんのあの有名なユージン(スミス)の『母子像』の写真を示して、いかに環境問題が大切か、環境を護らないとこのような不幸な子どもが生まれるということを話しました。
ところが、その教室には智子さんの一番下の妹がいたのです。その妹が手を挙げて『その写真はわたしの姉です。姉のことをそんな風に言わないでください』と泣きながら発言したそうです。
その教師はもともと差別の問題や公害問題に熱心な教師でした。その発言でこの教師は頭をガーンと殴られたような感じがしたといいます。
そして、今まで自分たちがやってきた運動は何だったのか深く反省させられたそうです。
この教師は一から出直そうと考えました。わたしにとっても今までの水俣病の反公害キャンペーンを考え直す一つの契機になりました。
確かに、企業や行政の怠慢や人命軽視政策によって胎児性水俣病のようなことが繰り返されるなら、それは明らかに犯罪だと思います。許されることではないでしょう。
しかし、そのことが障害を持っている人々の存在を否定すること、差別になってはならないはずです。
わたしも含めて反公害運動は障害を持つことは不幸だと決めつけてはいなかったでしょうか。
何故不幸か、なぜ不自由なのかということに一歩踏み込んで考える時が来ているように思えます。」
(「宝子たち」原田正純 弦書房 2009年)
この後にも原田さんの「宝子」たちへの想いを綴った言葉が続く。
その一節。
「わたしが『どうしてあんな母子像の(ユージンスミスの入浴)写真を撮らせたの』と聞いたことがありました。そのとき良子さんは『よかじゃなかですか、あれを見た人が、政府のえらか人、会社のえらか人が見て、環境に注意してくれらすなら、この子は世間様のお役にたっとです』と言われました。そして、『それになあ、先生、智子が私の食べた魚の水銀を全部吸い取って、一人でからって(背負う)くれたでしょうが。そのためにわたしも後から生まれたきょうだいたちもみんな元気です・・・・』と言われました」
読みながらワタシは身体の輪郭が溶け出していくような感覚にとらわれた。
壁面の展示写真やパネルから無辜の人々や宝子、魚たちが表れ、館内を泳ぎ出しているような気になった。
外に出て、丘の上にある水俣メモリアルにのぼった。
緩やかな段丘の上を何十個もの銀球が、遠くに見える水俣湾に向かって転がっているようにオブジェが飾られている。
その丘に座り穏やかな海を見ていると、銀球は水銀の玉のようにも、殺された命たちの魂のようにも、星々のようにも思えた。


2016年5月17日