このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、 「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。

2016/09/16

Vol.370 「BEATLESを描く少年」



ボールペンでBeatlesを描いているKoujirou君の画像が送られてきた。
上半身、裸になって家の壁に一心に描いている。
淡いライトに浮かび上がった腕と影が美しい。
彼と出会ったのは5年前、Koujirou君は小学校4年生だった。
そのころからボールペンで紙に刻むような鋭い線でBeatlesを描いていた。
母親が買い与えたBeatlesカレンダーをボロボロになるまで描き写していた。
一本の線で描くのではなく、幾重にも粗い線を重ねてBeatlesを浮かび上がらせる手法は新鮮だった。
幼い彼がなぜBeatles なのだろう?
どんなBeatlesの曲がお気に入りなのだろう?
どんなリズムが彼の身体を吹き抜け、彼の手を動かしているのだろう?
何かに導かれるようにBeatlesを描く彼の指先を見ていると、いつも時間を越えて寄せてくる波のようなものを感じた。
波に崩れる砂の城をいつまでも繰り返し積み上げている無垢なものがあった。
それから一緒にBeatlesを描く時間が訪れた。
ボールペンだけで描かれていたBeatlesは墨でも描かれるようになった。
修正ペンやアクリル絵具、割りばしの先端、雑巾を巻いた太筆、綿棒や指先でも描かれるようになった。
濃淡の黒い描線をまとったレノンはGet Backを唱える墨染の僧のように見えた。
白い線で描かれたポールやジョージハリソンは光のさす窓際で軽やかにLady Madonnaを踊っていた。
綿棒や指先で描かれたリンゴスターは雨上がりの道をOB-LA-DI/OB-LA-DAを口ずさみながら軽やかに跳びはねていた。
  彼の絵には音楽が流れていた。
そして何年かの歳月が流れた。
ある日、「koujirouは家で絵を描かなくなった」というおかあさんの言葉を聞いた。
フェースで描く絵からも音楽は消えた。
少年から青年へと移行する時期には、絵から気持ちが離れるということはよくあることだ。
誰もそれを止めることはできない。
彼が描いた何枚ものBeatlesの絵を手にして、またいつかBeatlesを描き始める日が来ることを願った。
待つしかなかった。
夏の終わり、送られてきた画像には家の壁一面に描かれたBeatlesが映っていた。
Koujirou君の中に再びBeatlesは戻ってきたのだろうか?
夜、ボクはThe Long and Winding Roadを聴く。
長く曲がりくねった道
君へと続くつらく長い道
少年から青年になっていく君は、その道を歩き始めたのだろうか?



2016/09/09

Vol.369 「ステキなわけありモデルさん」



9月の最初の土曜日、
久しぶりにぷかぷかベーカリーの「アート屋わんど」でワークショップをやった。
作ったのは「2016ぷかぷか秋コレファッションショー」(10月22日開催予定)にでるモデルさんたちとその衣装。
このワークショップ、いろんなところに呼ばれてやっているので、ご存知の方もいるかもしれない。でも、モデルさんたちはご当地ならではの衣装やポーズで登場するので毎回新鮮な気持ちになる。
今回のモデルさんたちはキッチュでエッジが効いている。
横浜郊外の団地の中にあるぷかぷか村をモデルウオーキングするには十分につきぬけている。
ちなみにキッチュというのは、ドイツ語のkitsh(いいかげんなもの、まがいもの)というところからきている言葉で、伝統的な美意識の持ち主には目にもしたくないものらしいけれど、逆にボクなんかは「安っぽくて、けばけばしくて、いんちきくさい?」・・・ああ、それで上等と思ってしまうのだ。
身の回りにあるものを、手当たり次第につなぎあわせて衣装にする。
プチプチシートやエナメルカラーのリボンをフリルにして、頭にはサイズの合わないケバい帽子、化粧だって三つ目のモデルさんもいれば、顔の四倍もある大きなアフロヘアーのお姉さんもいる。
ああ、生きてるんだなあ。
自然体で「わたしはこれで生きてます!」って肩ひじ張らず歩いてる。
もったいぶった権威をふりまくスーパーモデルなんか、薄っぺらに見えてしまう。
「エッジが効いている」という言葉は、よく言えば「先鋭的、いい切れ味、ふっ切れてる」という意味だけれど、高慢ちきなやつが使えば、「ダサいお前らなんかとつきあってられっか」っていうイヤなやつ感満載の言葉にもなる。
ぷかぷか村の仲間たちはのんびり、ゆったり、他者にも自分にも優しい世界を生きてる人たちなので、エッジ感覚とは対極の住人かと思いきや、こんなにも切れ味のいいモデルさんを生み出してしまうのだから面白い。
あるがままに表現をぶつけ合うアートワークショップは、やっぱりすごい。



最後にみんなでモデルさんの名前や経歴を考えた。
これも、面白かった。
例えば、鳴門橋りえという名のモデルさん。35才、子どもは11才を頭に4人。現在、かずやくんという彼氏と熱愛中なんだって。あとで命名者に、「4人の子どもはかずやくんの子どもなの?」って聞いたら、「うーん、それは内緒」。
名前を五つも持つモデルさんも登場。青森出身のホネホネ美人だけれど本当は72才という噂や「ボーダーのベべ」と名のる20代のフランス娘という噂もあるらしい。
他にも、アケミという名前で夜は赤羽のスナックで働いているモデルさんや男女不詳のゲイだという噂もあるモデルさんもいたり・・・・仲間たちの想像力は限りなく拡がっていく。
モデルさんたちもがんばってるんだ。
人間ってあたたかい。



2016/09/02

Vol.368 「風の中を」



サーフィンでもするように太平洋上でUターンをして、日本を縦断していった台風10号。過ぎ去ってしまえば、もう8月も終わりだった。
なぎ倒された木々や田畑を横目に
湘南海岸に向かう川沿いの道を自転車で走っていると、
突風のように吹いてくる大風の中に、
この夏描いた作品や仲間たちの姿が見えたような気がした。
彼らは一瞬あらわれ、
風に舞い、
一気に雲の切れ間の青空に消えていく。
確かに風の中には仲間たちの声や筆の走りが見え隠れし、
でも、きっと自転車を止めれば見えなくなるだろう。
で、ボクはペダルを重くする向かい風にさからいこぎ続けたのだ。
印象に残っているのは、海辺のワークショップで波を描いていた3歳の女の子の青。
勢いあまって足にも波を描いている。
繰り返す青、
ブルー、BLUE・・・
頭上の夏空よりもあおい青、
遊んでいる、あお、青・・・。
これがきっと彼女の最初のアート作品なのだろう。
いろんなことが一気に頭をよぎっていく。
新宿や高田馬場のビル群の上を吹き抜ける夜の風もあらわれた。
海に向かう風とは違った、荒々しい風だ。
床に座り込んで、
保冷パッドを頭に巻き
肘には何枚もの消炎鎮痛パップ、
発熱するアート魂を鎮めるようないでたちで、
BIGBOX、タカノフルーツパーラー、新宿アルタの、
見えない風を描き続ける、
そんなKさん
「これでよろしいですか?これでよろしいですか?」
苛立たしそうに色鉛筆を走らせ、
棟方志功の風神図のように不敵な笑みを浮かべて、
風の中をかけ抜けていった。
ああ、8月は、風の荒ぶる月なんだ。
ボクは海に向かって一心にペダルをこぎ続ける。




2016/08/26

Vol.367 「美しいかたち」



あたりまえのことだけれど、美しいものに基準はない。
これは美しい、
あれは醜悪、
これは浅い、
あれは深い・・・
そんなものに惑わされる季節は過ぎた。
仲間たちの表現が生まれる時間に立ち会っていると、
一本の線のなかに
それが生まれて来る朝の陽ざしや
口さきからもれるつぶやき、
こずえを吹き抜けて来る風、
まぶたの絶え間ない震え、
コントロールの利かない筆先・・・
そんなものがそこに含まれていることに気づく。
それが一本の線の美しさを作っている。
仲間のすがたも美しい。
補助具で、
あふれて来るエネルギーを紙の上に流している少女の指先。
微笑んだ一瞬の口もと。
モップ筆で、
身体のリズムを紙の上に刻んでいる少年のダンス。
折れ曲った手首と筆先の絡み合う音楽。
ただ、
生きていること、
それだけで十分にワタシを勇気づけるものが、
そこにある。
夏の明けがた、
まだ会ったこともない青年が夢に現れる。
薄明りの室内で、供物を差し出すようにプラスチック片を頭上にかかげ、
さらさら落としている青年。
静かな水浴のようにも、祈りのようにも見える。
プラスチック片のきらめきが逆光に浮かびあがる。
その行為、
その美しさこそが、
彼の表現なのだとワタシは確信する。




2016/08/19

Vol.366 「草むらに平和をひろう」



夏の頂きは過ぎたのだろうか?
未明、通り過ぎていく夏の背なかのようなものを思い浮かべる。
例えば、路地の送り火、
水枯れした浅瀬の石の影、
乾いた道に点在する古釘のようなミミズや虫の死骸、
褪せていく草の緑、風、
盆を過ぎる頃になると、そんなものを求め彷徨し始める。
それを拾ったのも、そんなあてもない歩行の途中だった。
ねこじゃらしの生えている草むらの中に、
ぽつんと置かれたピンクのベンチがあって、
ボクはそこに座って風や草の動きを見ていたいと、突然思ったのだ。
で、泳ぐように草むらの中を進んでいた時、それが光ったのだ。
ガラス片よりもなめらかな光で、ボクに合図をするように光ったのだ。
それはすぐに見つかった。
銀紙のような光、それがねこじゃらしに囲まれ揺れている。
ああ・・・声をあげそうになった。
その表面に丸く、PEACE JAPAN TOBACCO INC.と文字が浮き上がっている、
中心には、オリーブの小枝をくわえた鳩、
なつかしいピース缶の蓋だ。
何度も表面の汚れを指でぬぐい、陽ざしのかげり始めた夏空にかざした。
身体に奥深く隠れていた少年時代の夏が蘇ってきた。
まだ戦後の匂いが色濃く残った夏休みの空だ。
(シケモクって言葉、その苦みをいまの人たちはどれだけ覚えているのだろう?)
夜、
ピース缶の模様を鉛筆でこすって紙に浮き上がらせた。
洗練された平和の商業デザイン。
しかし平和ってこんなにきれいな姿をしているのだろうか?
ボクは閉鎖された津久井やまゆり園の建物を思い浮かべる。
月あかりの荒れ地に浮かび上がる何百もの難民テントを思い浮かべる。
それから不意に、今年6月に訪れた唐津で養蜂業を営むYさんの山小屋に飾られていたエミリー・ディキンソンの墓石のフロッタージュ紙片を思い出す。
(それは若きYさんがアマーストウェストの墓地に行って直接、赤紫色のクレヨンで写し取ってきたものだ)

心の上を影がよぎる
ちょうど日盛りに
雲が大きな太陽を包むときのように・・・
それは思い起こさせる

ボクはE.ディキンソンの好きな詩の一節を思い出す。