このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2016/10/21
Vol.375 「鴉の夢」
秋が深まってきた。
実際にはどこにも行かないのに、なぜか旅に出ているような漂泊の気持ちが強くなる。
冷たさを増してくる風のせいだろうか?
刈り残された稲穂に我が身を重ねたりする。
未明の寒さに目覚めると、枯れ木になった手足が荒れ野に転がっているような風景が見えて来る。
さびしいのだろうか?
自問すると、「そんなことはないよ」・・・それに抗う気持ちが突き上げて来るけれど、心のどこかで、「もう認めてしまっていいんだよ」という声をきいている。
現実感のないボーとした頭の中で、
「これって現在の人類共通のさびしさじゃないか」とも思ったりしている。
冷えた手足の先には中東の荒れ野が広がっている。
冷えた未明の風が難民のテントを揺らしている。
荒れ野の冷気から身を守るように、ありったけのぼろ布や毛布にくるまり、子どもたちはどんな夢を見ているのだろうか?
ぬくもりが欲しい。
ボクは頭から布団をかぶり、膝を抱えて背を丸める。
テントの中の子どもたちも、同じような姿勢で眠っているのだろうか?
決して奪われることのない希望を抱える卵のような眠り・・・。
そんな眠りをボクが手にすることはもうないだろう。
さびしい・・・とつぶやきながら、浅い眠りに逃げ込んでいく。
朝、
うっすらと蒸気の立つ川沿いの道を歩く。
白く枯れた木に鴉たちが止まっているのを目にする。
近づいても、動こうとしない。
こんな吹きっさらしの河原で寒い夜を過ごしたのだろうか?
身を縮めてじっとしている彼らは夢の残骸を抱えて、まだ眠り続けているようにも見える。
彼らは風景にあけられた黒い穴のようだ。
そこから滲み出してくる彼らの夢は、ボクと同じ寂しさの匂いがしているかもしれない。
2016/10/14
Vol.374 「屁のような朝のうた」」
雨雲が海辺の街を覆った朝、波打ち際に打ち上げられた腐木のような気分で目覚めた。
すぐには起き上がる気にもならず、枕もとの金子光晴の詩集を開いて、ぼんやり頭に文字を流していた。
すると『屁のような歌』の「偈」が目にとまった。
人を感動させるやうな作品を
忘れてもつくつてはならない。
それは芸術家のすることではない。
少なくとも、すぐれた芸術家の。
すぐれた芸術家は、誰からも
はな(・・)もひつかけられず、始めから
反古(ほご)にひとしいものを書いて、
永恒に埋没されてゆく人である。
たつた一つ俺の感動するのは、
その人達である。いい作品は、
国や、世紀の文化と関係(かかはり)がない。
つくる人達だけのものなのだ。
他人のまねをしても、盗んでも、
下手でも、上手でもかまはないが、
死んだあとで掘出され騒がれる
恥だから、そんなへまだけはするな。
光晴がいう「すぐれた芸術家」という言葉と重なってくるのはフェースの仲間達である。彼らは人を感動させるために描いているのではない。彼らの表現したものは「誰からもはなもひつかけられず、反古にひとしいもの」かもしれない。もちろん「国や世紀の文化」とは関係(かかわり)がない、「永恒に埋没されていく」無名の人たちである。
そして、みごとなまでに彼らの表現は「他人のまねをしても、盗んでも、下手でも、上手でもかまはない」のである。何でもありの表現なのである。
光晴とフェースの仲間たちが出会うことがあったら、どんな世界が生まれただろう?
光晴の金壺眼が戸惑ったり、見開いたりするのを想像すると、ついニンマリしてしまう。
ピカソや井上有一もそうだけれど、仲間たちと会わせてみたい表現者たちはどうしてあんなに頑固でいたずらっ子そうなじいさんなのだろう?(笑)
2016/10/7
Vol.373 「汀を往くもの」
10月1日、千駄木の団子坂をのぼったところにある「記憶の蔵」というところで、DVD『大きな井上有一』を観て、有一の表現とフェースの仲間たちの表現がクロスする地平を探す小さな集まりを持った。
20人も入ればいっぱいになる古い板張りの蔵は、昭和初期の芝居小屋のような怪しい薄暗さとひんやり感があり、最近のボクのお気に入りの場所だ。
その暗がりで、久しぶりに有一が特製の大きな筆をもって床に敷き詰めた紙の上で格闘する姿を見た。
墨汁を含むと20㎏はあるという太筆を、声をあげながら片手で持ち上げ、筆の命ずるままに身体を動かしていく。
床に黒い亀裂が生まれる。
墨の飛沫は黒い血のようにも、焼け焦げた穴のようにも見える。
ボクは人ではない、生きものがそこにいるように有一を見ていた。
有一は自分を狼と称することがあったようだが、画面の有一は狼ではない。
獲物を求め、群れをなし荒野を走る動物ではない。
哭きながら、自分が何ものであるかを探している・・・
ジブリの『もののけ姫』のでいだらぼっち、人間の欲望によって切り落とされた首を探してさまよう、あのなにものか・・・そんな風に見えた。
その後、Hさんの制作風景のDVDを観た。
力みのない淡々とした10分の画像。
6畳ほどの何もない一人暮らしの部屋に座り、アクリル絵具を指で伸ばしていくHさん。
柔らかな午後の陽ざしに浮かび上がってくる家族の肖像、自画像。
薬のせいで小刻みに震えながら、小さな声で言葉を拾うように、
ゆっくりゆっくり、離ればなれになった家族についての想いを話し始める。
描くことが家族への想いにつながっていることを信じ、絶望し、
不安な夜、不安な朝、不安な午後を越えて、
歩んでいくしかない、表現者としてのHさんがそこにいる。
有一の吠えるような墨痕、
Hさんの震える指先、震える言葉、
それらを見ていると、余分なものを捨て去ること、
捨てて、さらに捨てて、
揺れながら、
泣きながら、
いのちの汀を往くしかない、
その姿は美しいと思った。
2016/09/30
Vol.372 「九月の風」
いつのまにか九月が終わる。
この“いつのまにか感”はこの時期特有の感覚のようだ。
九月のある朝、今年もまたオールズバーグの絵本「名前のない人」を読みたくなる。
それは、記憶を失った男が農園の紅葉した木々の中に一本だけみずみずしい緑の葉をつけた木を見つけ、自分の失った時間、記憶を取り戻すというシンプルな物語だ。
美しい秋の木々と記憶を取り戻した男の表情が印象的だ。
季節に取り残された感覚が忘れていた人生の大切な一瞬を鮮やかに浮かび上がらせる。
九月は不思議な月だ。
そんな手紙や文章に出会うことが多い。
風が秋とともに私たちにそっと運んでくる贈り物なのかもしれない。
そんな手紙の一つを紹介する。
唐津で養蜂業を営んでおられるYさんから送られてきたものだ。
■先日は絵本(「ねっこのルーティ」)をお送りいただきまして誠にありがとうございます。
お礼が遅れましたこと、お詫びいたします。しかしながら、単にお礼を申し上げてよいものやら、考えておりました。
つまりページをめくるごとに想像を彼方へと誘う力に圧倒され言葉を失ったから、というべきでしょうか。
ムンクのようであり、シャガールでもあり、ある時期のステラでもあり、ジャスパージョーンズであり、しかしそのどれでもない。
ここから導き出されるものについて、今後ゆっくりと付き合ってまいりたいと思います。
私のバンドに音楽療法を大学で教え、あるいはワークショップを開いて障害のある子どもたちと過ごしている仲間がいますが、その様子を聞きつつ、大変感銘を受けておりました。
まさに学ぶのは私たちのほうかもしれませんね。
9月25日、庭が古希の祝いに、中上健二ゆかりのRIKIHOUSEで演奏をします。Oさんも来ていただくようになりました。イギリスの支配に苦しめられてきたアイルランドの音楽です。喜びと悲哀のブレンドされた民族の響き、どれだけ近づけるでしょうか・・・?
27日からは金子光晴をたどって、マレー方面です。個人的に思い入れのある詩人なのです。少しマニアックな話になりますが、政治的な意味でエズラパウンド同様、問題を起こした詩人でもあります。
この先、たくさんは残っていないので、できるかぎりの好きなことに明け暮れたいと願っております。
我が行く道(そんなもんあるのか知らん?)においても、単調、単純でありたいと願いつつ、先ずはお礼まで。
過分な絵本の感想に私は励まされる。
ゆっくりとした語り口調にYさんの生きる姿勢が伝わってくる。
九月の風はそれぞれの人生に深い陰影をつけて吹きすぎる。
2016/09/23
Vol.371 「フェースの海辺に現れるワンダーな生きものたち」
フェースに不思議な海辺が現れた。
それも二カ所。
内緒だけれど、湘南海岸近くの太陽の家と横浜の長津田近く。
個性のある波が寄せたり、引いたり、
ひねもすのたりのたりだったり、
満天の星月夜だったり、
ボクには居心地のいい海辺だ。
そこにワンダーな生きものたちが現れている。
奇妙な鳴き声、
奇妙な動き、
とてもファンタジーな生きものだ。
少し紹介しよう。
湘南海岸と言えば防砂林に棲むわが猫の師匠だが、
最近はますます夢うつつの境界を漂い始めている。
そんな師匠のポートレイトがこれ。
寝転がった前足なんかはもう透明になっている。
夢に現れた背後霊のような赤ねこ、青ねこにパンチされても目を覚ましそうにない。
次に紹介したいのは、海中で友達を探している青い象。
泣いているのだろうか?
夜になると海辺に不思議な音が流れる。
潮にのってアフリカ沖まで流れていく。
次に紹介するのは昼寝をしているゴジラ君。
海面につきでた三角形の島影は、彼の膝小僧である。
時々アザラシが来てひなたぼっこをするらしい。
アザラシくんとゴジラ君はいびきの二重奏を奏でながら、
同じ夢を見ているのだろうか?
最後に紹介するのは、カモメさん。
朝イチで海辺のベンチに現れ、
歯ブラシ片手に朝の歌をうたう。
その歌声は、
カモメさんには言えないけれど、
実は少し魚くさい。