このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
ヤッター! つまんないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2017/01/13
Vol.385 「アート始めは超うまい!」
何日もフェースの仲間たちに会わないと、どうも調子がおかしくなる。
心身がかさかさになって生きている人間であることを忘れるのだ。
そんな想いを抱えながら、1月3日、久しぶりに町田フェースの仲間たち7人と銀座ギャラリーにしんか展を観に行った。
人混みにごったがえす駅前のフローリストに集まった仲間たち、ガイドヘルパーさんや保護者と離れた解放感からか、テンションもやや高め、目も泳ぎがちである。
Y君はみんなから離れ、時々声をあげてジャンプしては人込みの中に消えたり、現われたり、I君はぶつぶつ独り言、空き缶は落ちていないかと行きかう人々の足元をしきりと点検中、最年長のSさんはきれいなお姉さんを探して、少し色のついた視線?を漂わせている。
ま、それぞれのスタイルで外出を楽しんでいるのであるが、そんな彼らを見ていると、寒さに凍えていたボクの心も和んでくるのである。
銀座ギャラリーは地下鉄日比谷駅と銀座駅を結ぶ地下通路の両サイドに作られた展示コーナーの名称で、日比谷駅から歩いて、ゆっくり絵を観ながら銀座に向かう。
途中、自分の作品があると立ち止まり記念撮影、そして得意そうにピースサイン。
見終わると、いよいよお昼である。
先ほどから、R君は鋲が一杯ついたパンクロック風の帽子で、
「久しぶりの銀座やな、みっちゃん、なに食おう?ねえ、なに食う?」
東京出身のくせして、奇妙な関西弁でボクに迫ってくるのである。
「ん、なにがええやろ?ラーメンか?ハンバーグか?カレーもええなあ」
ボクも負けじと関西弁で返すのである。
しゃれたぴかぴかの東急プラザレストラン街やガード下の居酒屋をウロウロした挙句、入ったのは、三田製麺所という、ちょっとしぶい小さなつけ麺専門の店。
みんなラーメンが好きなのである。
しかし、せまい!
初めての場所は隅々まで点検せずにはいられないY君、壁とカウンターの狭い空間に身体を押し込むように何度も移動しては「お、お客さん、お座りください!」と店の人から注意される始末。困った感の空気が流れる。
しかし、ボクはことさらに取り成しはしない。
で、何を食べたかというと、つけ麺専門店だからもちろんつけ麺である。
しかし、ここの麺はうどん並みの太さ、濃い目の和風つけ汁が売りである。
みんなですすると、パンクロックのR君が思わず声をあげた。
「超うまい!」「今までの中で一番や!」
するとI君も「うまい!うまい!」ずるずる特盛の麺を流し込む。
みんな、器に首を突っ込むように、うまそうに音を立てて食べていく。
すると、お店のお姉さんも店長風のお兄さんもウンウン嬉しそうにうなずいているではないか。
「お水、どう?」「ゆっくり召し上がってくださいね」
カウンター越しに差し出されたコップの水も声も嬉しそうである。
ああ、いいなあ、あったかいなあ・・・それは今年の感動はじめである。
2017/01/06
Vol.384 「紫禁城太廟藝術館の片隅で」
今年も年が明けた。
いつもと同じ時間を超えるだけなのに、なんだか新鮮な気持ちになる。
今年はどんな出会いがあるのだろうとワクワクする。
昨年末にボクは、とても勇気をもらう時間を持つことができた。
日本で、ではない。
中国で、だ。
書家というよりも書の領域を超えた表現者として世界的に評価されている井上有一の紀念生誕百年展と中国の現代作家13人による対話井上有一展をジョイントさせた『書法的解放』展が紫禁城内の太廟藝術館で12月20日より開かれ、ひょんなことからその作品展にボクの作品が飾られることになり、急きょ一週間ほど北京―南京に滞在することになったのだ。
北京はPM2.5が危険レベルに達する最悪の状態で、ボクが乗った後の飛行機は北京空港に着陸できなかったほど。
紫禁城の真上の太陽は落日のように赤く、暗く、PM2.5の霧の中をマスクをした数万の観光客が行きかっている。
まるで『風の谷のナウシカ』の腐海のようだ。
紫禁城太廟藝術館、それはとんでもない建物だった。
1420年明時代に皇帝が祖先を祭祀する場所として建てられたもので東殿に有一作品、西殿に有一に触発された中国作家の作品が展示されている。
建物自体が長い歴史の時間を胎内に持っていて、そこに作品が展示されると表面的な技法や飾りは剥ぎとられ、表現そのものを問われることになる。そんな厳しさのある威圧的な建物なのだ。
ボクの作品は西殿の中国作家の作品たちの片隅に飾られていた。ボク以外はすべて中国作家で、作品もボクも心細さと恥ずかしさに震えていた。
しかし有一の作品は、そんな建物の中でも、いつものように凛と背筋を伸ばし、力強く泳いでいる。
改めて有一の凄さを思った。
表現はどんな権威も越えるのである。
作品とボクが紫禁城に呼ばれたのは、そのことを心に刻むためだったのだと思った。
偶然かもしれないけれど、ボクは作品のタイトルを『業の花びら』とした。
宮沢賢治の5行詩(作品第314番)から採ったものだ。
それはこんな詩だ。
夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには業の花びらがいっぱいで
わたしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるえてゐる
PM2.5の降り積もる紫禁城太廟芸術館の一角、有一作品の前で、ボクもはげしく寒くふるえていたのだ。
2016/12/23
Vol.383 「冬のゴーシュ」
北風の吹く日が続く。
地面を覆った落ち葉も土に還りつつある。
鋭い描線のような木枝の間からは、硬い青空が広がる。
ぷかぷか村に向かう恩田川沿いの桜並木を自転車で走っていると、
水の音や陽ざしや朽ち葉の匂いが、子どものころの時間にボクを連れ戻す。
冬色を編み込んだセーターがあったらいいなあと思う。
そんなセーターやマフラーを着こんで北風の中を歩くと、会ったことのない生きものや物語りに出会うような気がする。
いま、ボクが会ってみたいのはゴーシュだ。
もちろん宮沢賢治の『セロひきのゴーシュ』だけれど、市販されている絵本に出てくるゴーシュじゃないゴーシュ、会ったことのないゴーシュだ。
で、いろいろなところで仲間たちにゴーシュを描いてもらっている。
仲間たちのほとんどはゴーシュを知らない。
で、ボクは絵本のゴーシュを持ち歩いて、「この人を描いてみてくれない?」ってお願いする。
断る人はいない。
仲間たちはみんなやさしい。
(だから、ボクが会いたいゴーシュを描いてくれる人は仲間達しかいないと思ってしまう。)
ゴーシュを描いている仲間の耳元で、ボクは「この人はセロ(チェロ)をネコやかっこうや病気の仔ネズミにひいてあげてる人なんだよ。」とか「ゴーシュのセロで、ネコは火花を散らして走り回ったり、かっこうはガラス窓を突き破って逃げて行ったり、とにかくすごいセロ弾きらしいよ」なんてごちゃごちゃ、勝手なことをささやく。
聞いているのか聞いていないのか、仲間たちは黙ったまま、新聞紙や黒い紙にどんどん描いていく。
仲間達の手から生まれて来るゴーシュはやっぱり絵本とは違う。
樹々と一体化して、ごうごうと山肌を下る風のような音でセロを弾いていたリ、
ガラス窓の向こうに広がる荒れ野を走っていたリ、
憑かれた狐のように、げっそりと頬がこけた深夜のゴーシュだったり・・、
そんなゴーシュたちを見ていると
ボクのなかにも聴いたことのないセロが響き渡りはじめるのだ。
2016/12/16
Vol.382 「落ち葉の時間」
12月に入ると、地面を覆いつくす落ち葉は枯れ葉色に変わる。
よく晴れた日には、そんな道を歩く。
さらんさらん、さららさらん、・・・乾いた落ち葉の音が手編みの靴下のように足首を包む。
どんどん歩いていると、Kenji(宮沢賢治)さんが木立ちの向こうにいるような気がしてくる。
Kenjiさんだったらどんな落ち葉の声をきくのだろう?
落ち葉のトンネルを行進するどんぐり達にオッチニ、キクキク・・・号令をかけているかもしれない。
フェースの仲間たちはどんな声をきくのだろう?
ボクは、地面にしゃがみこんだHさんのまわりを音を立てて歩く。
「落ち葉の声が聞こえますか?なんて言ってますか?」
「んんん・・・」
Hさんの困った顔。
ボクは調子にのって、落ち葉を蹴散らして歩きまわる。
「こらあ、やめろお・・・」
Hさんは小さく声をあげる。
「怒ってますよ。やめろお!って言ってますよお」
遠慮がちにボクをたしなめる。
風が吹くと木枝ばかりの空から、残り葉が降ってくる。
マジックのように風のマントから突然あらわれ、陽ざしに不思議な軌跡をつけていく。
中年になってまるくなったHさんの黒いジャンパーの背にも降ってくる。
Hさんと落ち葉は二色の絵具のように、バター色の午後の陽だまりに溶け合っている。
夕方、朱鷺色の光に林は包まれる。
枯れ葉色の落ち葉も朱く染まる。
ボクは家路をたどる。
静かにしずかに流れていく落ち葉の時間。
人生も、そんな風に過ぎていく・・・のだろうか?
2016/12/02
Vol.381 「冬の朝あらわれる物語」
冷えこんだ冬の朝、フェースではこんな場面に遭遇する。
例えば、白い紙の上に色鉛筆で一本の線がひかれる現場。
最初はほとんどまっすぐにゆっくり伸びていく。
しばらくすると、それがすこしゆらゆらしてくる。
線に凸凹が生まれ、斜めに上がっていったり、下にすべり落ちていったりし始める。
息づかいがわずかにあらくなりになり、突然、線が止まる。
よく見ると、線の端には虫くい痕のような色鉛筆の点々がついている。
いつつけたのか、ちょっと苛立たしそうな穴がそこに穿たれている。
まっすぐな線だけじゃない。ある時は、なぐり描きされた短くはげしい線が火花を散らしてショートしていたり、ぐるぐるぐるぐる執拗にからみあった曲線や花もようがバウンドしていたりする。
そこに仲間の言葉が刻み込まれている気がする。
それは声を使った言葉や文字によって書かれた言葉ではない。
線や色彩でしか語られることのない、その時だけの言葉だ。
それを読めればどんなにいいだろう?
それはどんな物語を語るのだろう?
ボクはそれをききたくて、もう何十年もフェースの世界を旅している気がする。
そんな物語は確かに存在するのだ。
先日もこんなことがあった。
「こんな風になりましたよ」月に一度、行っている作業所のアートの現場で、『嵐』へのラブレターを書き綴っているYさんの巻紙を見せられた。
息をのむ。
カラーペンでぎっしり描きこまれた文字の線群。そこには、まだ誰も読んだことのない愛の物語が書かれている。
橋本のフェースでは、突然、K君のオリジナルキャラクター『リトルピープル』の足元に焼き団子のような丸がいっぱいあらわれた。
普段ならそこは何も描かれることのない空白地帯なのだ。まったく突然、そんなものが現れボクらはあたふたする。
これは何を意味するのだろう?ついいろいろと想像してしまう。
村上春樹の『海辺のカフカ』に現れたリトルピープルはK君の手をとおって新しい物語の世界に入っていったのかもしれない。
ボクはそれを読みたくて仕方なくなる。村上春樹にも読ませてみたくなる。
とにかく、そんな風にして線や色彩でしか語られることのない物語は冬の朝にあらわれるのだ。