このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
とんでもないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2017/03/24
Vol.395 「特別なことば」
長い間一緒に絵を描いていると、フェースの仲間たちとの間に特別なことばが生まれる。
それはボクらが日常生活で使う言葉とは違う特別なもの。
何かを理解しあうのではなく、感じあうものだ。
現われてきたものをそのまま受け取り、あるがままに返していくしかないものだ。
余分な忖度(そんたく)や憶測は、いつも不安や苛立ちの空気を醸し出す。
汗ばんだ手や浅い息づかい、傾いていく身体・・・
落ち着きなく行きかう視線、走り去っていく素早い手の動き・・・
塗りつぶされていく色彩、細かく震える線群・・・
紙の上に拡がる過剰な力、静止したままの空白・・・
そんな風にあらわれてくるものをそのまま受け取るのだ。
何かをそこに見ようと、構えてみても大切なものはするりと逃れていく。
最初、それは姿を現さない。
じっと待ち続ける。すると、何かがあらわれ、ゆっくり消えていく。
その繰り返し。
言葉ではとらえることのできない、あえかなに行き交うものこそ、仲間たちとボクの特別なことばなのだ。
ある日、
淡々と絵を描いていた君は突然、声を荒らげ、机をたたき始める。
炸裂音、宙を飛ぶとんがった視線、
君を掻きまわすものが、君の表情を不安と怒りに染めている。
君の絵には激しく茶色の線がひかれ、破かれている。
君は持っていた色鉛筆を床に叩きつけ、走り出す。
それから窓辺に行って、霞んだような多摩丘陵を眺めている。
君を走らせたものが少しずつ遠ざかっていく。
それが何なのかボクにはわからない。
ボクは君の側にいて、それが現われ去っていくのを待ち続けるだけだ。
それが君とボクの大切なことばなのだ。
ある日、
君は鼻歌を歌い、流れるような線で何枚もの絵を描いていく。
単純な線のなかに君のことばが見え隠れする。
ボクはその歌に合わせて、絵具やサインペンやいろいろな画材を用意して君に差し出す。
君は草花でも摘むように、つまみ上げ色を付けていく。
紙の上を黄緑やオレンジ、形にならない文字が走っていく。
机の上に降り積もっていくそれらは、君だけの音楽を奏で始める。
それを読み取ることはしない。
そのまま包まれているだけだ。
それが君とボクの大切なことばなのだ。
仲間たちのことばは深くて、美しい。
2017/03/17
Vol.394 「春のことば」
2月から、アート屋わんどの仲間たちとぷかぷか村にあるカフェの壁に飾る『春の詩』を描き始めた。
まずは3m60cmくらいの横長の紙に、冬の冷たい地面から顔を出した草たちを描く。
墨汁をたっぷり含ませた筆で、空に向かって自由な茎を描いていく。
もちろん途中で曲がってもいいし、グニャグニャ踊りだしてもいい。
春の訪れを感じた草の芽たちは、仲間たちの腕の動きにのりながらぐんぐん伸びていく。
絵は一週間ごとに成長していく。
小さな草の芽が色づき、ふくらんでいく。
かすかな春の匂い、
地面から立ち上ってくる柔らかな草の香り、
緩んでいく陽ざしの中を流れる暖かな時間、
そんなものが綿棒や指でぐるぐる線やのんびり線になって草たちの間を流れる。
そして四週目、突然、花が一斉に咲く。
色とりどりの花々がつぎつぎと春の声をあげる。
それは春の色や線になって空を流れていく。
そんな風にしてぷかぷかカフェの壁画『春の詩』は完成したのだ。
寒戻りの冷たい雨が降りそうな朝、
出来上がった壁画を見ながら、わんどの仲間たちと「春のことば」を見つける活動に取り組んだ。
「この絵見ててさ、頭に浮かんでくる言葉はなに?」
「うーん、分かんなあい、春?はる?分かりませーん」
「いや、それでいいんだよ!今の言葉、忘れないうちに紙に書いちゃおう!」
何のことかわからないまま、仲間は墨汁で「ううん・・・わかりません・・・はるですか?」
と言葉をもう一度口にしながら紙に書く。
「うわあ、いい言葉だなあ、これ、もらっちゃおう!」
するとそのやり取りを聞いていたもう一人の仲間が
「花が咲いてます。おなかが空いてます」
「おお、すごい!それももらっちゃおう!」
そんな風にして、仲間の言葉がつぎつぎと生まれてくる。
1時間半ほどの活動、机の上に春のことばが降り積もる。
彼らの文字があまりにもステキなので、活字よりも画像で紹介しよう。
ボクには相田みつおの書よりも、仲間たちの書の方が心に浸み込んでくるのである。
2017/03/10
Vol.393 「研悟さんの世界」
この一ヶ月ほど週一度、藤沢にある『gineta』というギャラリーに通っている。
そこで一人のコレクターの所蔵作品を5週かけてテーマごとに展示していく作品展が開かれているからだ。
題して『The五島研悟』、ワタシが敬愛する藤沢の詩人?表現者?いや仙人か?ま、知る人ぞ知る五島研悟さんのコレクション展である。
研悟さんは今年80才になられる。その半生をかけて集めてこられた所蔵品を眠らせたままにしておくのはもったいないと、ginetaのオーナー大田さんのがんばりで開催にこぎつけた作品展なのだ。
第一章のテーマは、「『自我偈』の花々に寄せて・・・」。
ギャラリーを入った直ぐ左脇下に、昨年末、紫禁城の太廟藝術館で表現について言葉を超えた会話をした一了さんの『開花見仏』が飾られていた。(『きょうのまねきねこvol.386,387』参照)
草木と同化したような一了さんの文字が踊る小さな角皿なのだが、膝を折りかがみこむようにそれを見ていると、そこが利休の茶室『待庵』の躙(にじ)り口のように、もう一つの世界につながる回路のように思われてくるのだった。
ギャラリーの壁面全体を漂う小さな作品群は作品名や作家名もはぎ取られ、一つの星雲のようなものを全体として構成している。それは確かに研悟さんの世界であり、少年の遊び心や生きている悲しみが透明感のあるベールのようになって漂っている。
しかしそれは、したたかな美意識と計算によって構成されている世界でもある。
宙を漂う作品群の中に身を置いていると、ワタシ自身も果てない世界(表現界)に放りだされた孤独な星の欠けらであることを思い知らされずにはいられない。
そんなわけで、ワタシは一気に『The五島研悟』に魅せられたのだ。
第二章は「詩画集『水のことなど』に寄せて・・・・」
常々、研悟さんから聞かされている市野裕子さんの『ブルージャズ』という青い絵画から、夜の青と水の青とが共鳴し合っているような音が聴こえてくる。宇宙のせせらぎ?無辺の彼方を作品群が流れ消えていく。
第三章は、「星・月・船(ときに海)・・・」
なんとなく研悟さんらしいロマンチックなテーマである。フーンと思いながら回っていると、一つの作品に目が留まった。研悟さんの亡くなったお連れ合い、平松敬子さんのコラージュ作品だ。ワタシの目に入ってきたのはその素材、徹底的につぶして紙のように折りたたんだ空き缶が貼り付けられている。制作時からずいぶん経ち、錆びついたコカ・コーラやバヤリースの文字も消えかかっている。その風化のさまが時間の流れを表現していて美しい。この作品は、きっとこれからも時間とともに生き続けていくに違いない。
第四章は「私の好きな書」、第五章は「鳥よ猫よ(ときにネズミ)(ときに猿)(ときに兎)また会おう」と続く。
どんな時間、空間と出合えるのか楽しみである。
とにかく、ワタシはあと二週間、時間を見つけて相模原から藤沢のginetaまで川沿いの道を自転車を走らせるだろう。
そしてこれから先、何年経とうと研悟さんの世界を、その時々の風や陽ざし、境川の水面の光の中に見ることになるだろう。
『The五島研悟』展/2017.2/4(土)~3/8(水)/gineta/藤沢市藤沢1055/0466-55-6833
2017/03/03
Vol.392 「海辺のベンチにあつまるもの」
ボクの頭の中に海辺の古びたベンチが現れたのは昨年の春だった。
それは日がな一日、波の音を聴き、照ったり曇ったり、雨にぬれたり、風に誘われたりしながら、消えることなくボクの中にあった。
そして梅雨を迎える頃、突然「ここにおいでよ」とボクに呼びかけてきた。
で、ボクはそこに行くことにした。
仲間たちにも呼びかけ、せっせと海辺のベンチに行く道をつけ、
蒸し暑い7月の午後海辺のベンチに出会った。
藤沢・太陽の家の会議室、
そこに海辺のベンチはいたのだ。
鵠沼海岸の側なのに、その窓から海は見えない。
でも風はいつも潮の匂いを運んでいた。
集まってきたのは太陽の家を利用している就学前の子どもたちやそこで生活を楽しんでいる大人の仲間たち、それから地域で絵画教室をやっているアーティストや身の回りのものと対話する造形作家などいろいろなアートにかかわっている人たちだ。
「ここから、みんなで歩いていこう!」
「波打ち際を歩いて、行ける処まで行こうよ」
「地図なんていらないよ。風や星や陽ざしが道を教えてくれるからね」
ベンチはそんな風に集まってきたボクらに語りかけた。
もちろん、ボクらが日常使っている言葉ではない言葉でね。
それに誘われ、ボクらは海辺のベンチと一緒に歩き始めたのだ。
月一回、金曜日の午後。
カモメの調子はずれの朝のゴスペルを聴いたり、
トンビの背にのり、真っ青な空を滑空したり、
世捨て犬のマラソンにつき合ったり、
猫詩人の摩訶不思議な詩に頭をひねったり、
カニの床屋に頭を刈ってもらったり、
どんぐりの行列、タップダンス、
海藻のフラダンス、
水平線から顔をだした両手いっぱいの満月もほおばったり、
そんな風に、ボクらは海辺のベンチに集まってくるものたちと一緒に、心とからだがとける時間を過ごしたのだ。
で、ボクらは少し自由になった。
世界は少し軽くなった。
君に呼びかけたい、
「君も海辺のベンチにおいでよ」と。
金曜日の午後、
太陽の家の会議室、
そこには古びたベンチが一つ、
君を待っている。
2017/02/24
Vol.391 「宇宙にいたる想い」
春さきは心が穏やかじゃない。
何かに誘われてふらふらする。
強い風のはざまに忘れていた呼び声や風景が見えたりする。
仲間たちもそうなのだろうか?
曇天、土曜日の午後、
多摩川近く、人の行きかう駅ビルの一室、
U君は運動帽を深くかぶり、表情を見せないように身体を前傾させ、うつむいたまま全紙大の黒紙に鉄塔を描き続けている。
もう幾つの鉄塔を描いたのだろう?
手の中の修正ペンのインクは残り少なくなって、描線はかすれ始めている。
そのかすれが鉄塔をゆらゆら揺らし、風景を不安にさせている。
ペン先から流れ出る細かなドットは、花粉や夢の断片のように宙に拡がっている。
赤い丸は君を乗せた気球なのか?
空は崩れ始めている。
やまは大きく波打っている。
地面に縛り付けられた鉄塔は、三角形の影を引きずり、山に向かっている。
頭のどこかで、宮沢賢治の『月夜のでんしんばしら』の「ドツテテドツテテ、ドツテテド」という掛け声が聴こえるような・・・
小さな気球はみるみる空に昇り、
それを追うように鉄塔たちは宇宙に向かっている。
冬寒の戻った日曜日の午前、
昭和の古民家の一室、
M君は海の上に外房線の路線図を貼り付けている。
ハサミで切り取った5mmほどの線を暗い海面にまっすぐ立てる。
空に向かう朱鷺色と駱駝色の線路。
それから水平線と平行に青やピンクやチェック模様の線路を伸ばし、緩やかに空に昇っていくカーブを貼り付けていく。
淡々と動く指先。
君の頭の中の外房線が海の上に拡がっていく。
懐かしい不思議な薄明の時間、
積み木のような電車がその上を走っていく。
昔、
そんな電車に乗って、暗い車窓の向こうに、宙にのぼる列車の汽笛を聴いたような気がする。
U君も
M君も
春さき、宇宙に誘われるのだろうか?