このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
とんでもないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2017/04/28
Vol.399「いよいよはじまる(第四回湘南vividアート展)」
彼らが集まってくる。
土でできた言葉や紙の言葉、布の言葉、木の言葉
いろいろな言葉を持った作品たちが集まってくる。
海辺を歩き、草の原を抜け、河原を走り、
夕餉の台所を横目に
古い商家の土間や上がり框(かまち)、薄暗い土蔵に
集まってくる。
ひっそり、おっとり、あるいは騒々しく
ぽつんぽつんと姿を現してくる。
いつのまにか、波打つ古い硝子戸を抜け古畳に腰を下ろして足元を見ている。
古い台所やお手洗い辺りを歩いている。
おお、みんな変わりはないか?
思わず声をかけたくなる。
先ずは一献。
野菜の煮つけや煮魚の一皿も出してやりたいが、私たちの食べ物は君たちの口には合わない。
今宵は月夜。
静かに一夜を過ごそうではないか。
年に一度の祭りの始まりなのだ。
ご案内申し上げます。
いつも、いつも今年でおしまいと思いながら続いてきた祝祭空間です。
おしまいにならなかったのは作品たちの想いが暗夜の灯のように、私たちの心から消えないからです。
灯は私たちの影法師を映してくれます。
いまのままの君でいいんだよ。
灯はそんな風に語ってくれたりもします。
どうか、そんな灯をともすためにあなたさまもおいで下さい。
5月1日から8日、
どうぞおいでください。
まねきねこも待っております。
湘南vividアート展のCMをYouTubeに流しています。
https://youtu.be/.XRmcd7CqcgQ
2017/04/21
Vol.399「美しい手」
春さきになると人の座らない椅子がある。
椅子は窓辺に置かれ、仲間たちは黙々と絵を描いている。
陽の当たる椅子を見ると、ボクは旅だった君を思い出す。
この季節になると君は大きな時の呼び声に誘われるように、ボクらには見えない羽を広げ、はばたき始める。
それから、ここではないどこかにいって、しばらく帰ってこない。
君の座らない椅子の上には葉を茂らせた桜の影が揺れている。
部屋には仲間たちの手が紙の上を走り、小さな歌声が生まれている。
ボクは椅子の上に、君が描いた青い手をそっと置いてみる。
君の手をなでるように、桜の木陰が優しく揺れている。
気持ちがふさぐ時、ボクはクレーの画集を開く。
クレーの色彩は美しい。
でも彼は天使を線で描いた。
細い針金を組み合わせるように、いくつものちょっとぎこちない天使を描いた。
死の前年には、テーブルの上に紙を積みあげ、1235人もの天使を描いたという。
もしかしたら病床のクレーを映したガラス窓には、透明な天使の羽が見えていたかもしれない。
ボクの好きな天使は『忘れっぽい天使』(1939年)だ。
少し微笑んで、指遊びをする手元をみている天使だ。
人間っぽい武骨な指を見ているとなんだかほっとする。
つらいくて、美しい手もある。
16歳の時にアウシュビッツに強制収容され、ガス室で母と妹を失ったマグダという女性が30年という長い時を経て、記憶のかさぶたを剥ぎ取るように書き綴った手だ。
それはこんな風に描かれている。
「アウシュビッツで、風が鳥の小さな羽を送ってきたことがあった。わたしはそれを別世界からの贈り物のように手のひらのくぼみで受けた。」(『空の記憶』、マグダ・オランデール=ラフォン『四つの小さなパン切れ』より)
時々、映像で流れる難民の子どもたちの感情を剥ぎ取られたような表情を見るたびに、ボクはマグダの手を思い出す。
荒涼とした難民のテント村の空とアウシュビッツの空が重なる。
時は止まったままだ。
「ながいながい絶望の道をやってきてはまた発っていく何台ものトラック/すでに向こう側を見ている命をぎっしり積みこんで/いのちをつかもうとして、むやみに叫びながらさし出す肉の落ちた手/炉がはぜる/空は低く、灰色と黄色に染まっている/風に舞い散る彼らの灰をわたしたちは吸う」(『まなざし』同書より)
マグダの手は、半世紀上の時を越えて、ボクらが住むユーラシア大陸の海辺の町まで差し出されている。
クレーの手も、アウシュビッツや難民村の手も、フェースの仲間の手も、同じ一つの美しい手なのだ。
2017/04/14
Vol.398「一緒に線を描く午後」
「絵は苦手」という人と絵を描く機会が増えている。
「どうして苦手なの?」と聞くと、「下手だから」という。
「誰かに言われたの?」
「うーん、先生かな?親かな?忘れちゃった」
「そんな昔?」
「いい思い出じゃないからね、忘れちゃうよ。いつも下手だと思って、図工の時間はつらかった」
「いまもつらい?」と聞くと、さびしそうに「たぶんね」
「絵具の匂いなんて、もう何十年ぶりかな。なつかしいけれど、やっぱり緊張する。」
絵具のチューブに鼻を近づけ、やっぱりダメだと両肩をあげる。
描くことは解放のはずなのに閉じ込められている。
不思議と「アートは嫌い」という人とは会ったことがない。
でも「自分で描くのは嫌い」という人はいっぱいいる。
誰かが描いた人物スケッチに自分を重ね合わせようと、小さなころから手足を縮めて懸命に生きてきたのだろうか?
午後の時間、
そんな人と一緒に線を描いて過ごす。
少し開けた窓からは、春風が入ってくる。
紙の上に一本の草色の線を引くのにも時間がかかる。
ボクは声かけはしない。
隣りの机では、障がいがあるというその人の子どもが一心に色鉛筆を走らせている。
きれいさや可愛さやうまさから解放された線と色彩が子どもの手から勢いよく生まれている。
描かれるものよりも、描こうとして動く手の動きにボクは魅かれる。
身体からあふれてくるものを手から解き放っている喜びが少年を包んでいる。
「アートっていいですよね?」
ボクは、その人に少年の様子を見せながらたずねる。
その人は嬉しそうにうなずく。
それだけを感じてくれればいいんだとボクは思う。
こんな午後を一緒に積み重ねていくと、
いつかその人の紙の上にも自由な線群が風を受けた草原のように揺らめくに違いない。
2017/04/07
Vol.397「夢のワークショップ」
どうにも困ったものだ。
春の薄日の射す窓際でうつらうつらしていると、何もやりたくなくなるのだ。
陽のぬくもりに、辻堂の防砂林に住む猫の師匠も短い手足を砂の上にひろげ、たるんだお腹を陽にさらし、バターのとろけるような夢をむさぼっているにちがいない。
ならば、ワタシももう少しいいだろうとうつらうつらを繰り返し、いつの間にか陽は西に傾き始めているのである。
いかん、いかん・・・ワタシはうなだれる。
師匠のように悟りを開いているわけではないので、ワタシの心はこんなことでいいのかとちくちく痛むのである。
「まあ、やりたいことをやりなさいよ。あまり先はないよ」
師匠はそんな分かり切った苦言をワタシに呈する。
反論はできない。
で、考えてみるのだが、いまやりたいのは、仲間たちとアートで遊ぶことだ。
いや、もう少し正確に言うと、遊ぶのではなく、自分らしくいられる時間をもつことだ。
しかし、これはちょっと厄介な問題だ。
仲間たちと自分らしくいられるアートの時間?・・・何をすればそんな時間は訪れてくるのだろう?
考えはじめると、またまたうつらうつらの波がワタシを包み始める。
それでも、あるイメージが浮かんでくる。
仲間たちと好きなことをしながら、何かが生まれてくるようなアート・・・頭を絞って考えると、それはアートワークショップなのかもしれないと思い至る。
しかし、ワークショップたって世間で流布されているような、みんなで目的のあるものを作る普通のワークショップじゃなくて、何かが生まれてくるワークショップなのだ。
生まれてくるものが何なのか、それは誰にもわからない。
ただ、みんなが自分たちであるような活動を通して、はじめて生まれてくる、そんなワークショップだ。
暖かな砂浜に仲間たちが一人ひとり集まり、それぞれの好きな格好で寝転がり、空を見上げている。
そんな風にのんびり流れていく午後の時間を共有するワークショップ。
そんな風にみんながみんなであるワークショップ。
そんな夢のワークショップをやってみたいのだ。
で、ワタシはワークショップの見取り図を描くために机の前に座る。
春の午後である。
開いたパソコンの上を鳥の影がよぎる。
GYO!ワタシは突然、すっかり忘れていた宿題を思い出す。
前号のまねきねこ(vol.396)で、青と黄色に分割された絵が何なのかを説明しなければいけなかったのだ。
それは海辺の俯瞰図。
青は海、黄色は砂浜、そこにぽつんと置かれた茶色の小さな四角は海辺のベンチなのです。
それは朝の海辺の上空を飛ぶトンビが見ている海辺なのです。
どうか鳥になって想像してみてください。
鳥になるワークショップ・・・それは、もしかしたらワタシの夢のワークショップなのかもしれない。
2017/03/31
Vol.396「うみはひろいな、しがしずむ」
藤沢『太陽の家』で月一回制作している『海辺のワークショップ』の巨大絵本がいよいよ、その姿を現してきた。
とんでもない絵本になりそうである。
例えばこの上の絵、絵本に出て来る絵だけれど、何だかわかる?
むむむ、見ているとバスが走っている。
右上にはドラえもんらしき顔。
「うみ」って文字が目立つ。
「しがしずむ」なんて書いてる。
しが沈んでいく/死が沈んでいく/詩が沈んでいく
沈んでいく師、市、紙、私・・・シュールなイメージが浮かんでくる。
なんだか「SHIGAシズム」っていう新しいイズム、思想のようでもある。
さらに細かく文字をたどっていくと、
そ・ば・の・が・き・お・な・お・お・な・い・ひ・る・み・う・・・
謎は深まるばかりなのである。
しかし、ワトソン君、必ずどこかに解決の糸口はあるはずだ。
そう、その糸口はドラえもんもどきの周りにあった。
そこには別の人物の筆跡で「うみはひろいなおおきいな」と書かれているではないか。
とすると、「しがしずむ」は「陽がしずむ」なのであろうか。
なあんだと思うなかれ。
さらに見ていくと、青いバスは「うみばす」という名前で(左上辺に書かれている)、きっと海岸線(国道135号線?)をどこまでもどこまでも走っている路線バスなのだろうと推測できる。
しかし気になるのはバス後部の黒く塗りつぶされた四角である。もしかしたら、これは『どこでもドア』で、バスはここから仲間たちの描く絵に現れてきたのかもしれない。
ぜひ一度は乗ってみたいと、ボクは危険な妄想にかきたてられるのである。
さらに右辺に描かれた二つの三角形、これはヨットなのかもしれない。
沈む夕日を追って、疾走しているのかもしれない。
そう思うと、絵に点在する青い点々は海の光のようにも思える。
さらに、さらに、である。
この青い絵の周り、藍色の回路を廻っている色鮮やかな線や文字は何なのか?
文字をたどっても理解不能、彼らの創りだす音やリズムに身を浸すしかない。
すると、なぜかイプシロンや素粒子が飛び交う宇宙空間が浮かんできた。
ボクはうみバスにのって宇宙にまで運ばれたのだろうか・・・際限のない妄想が拡がっていくのである。
ま、ストーリーはあってないようなもの。わけのわからない絵本が『海辺のワークショップ』から生まれようとしているのである。
巨大絵本は、6月4日の『太陽の家まつり』で発表する予定、興味のある方はいまから予定表に書いておいてくださいね。
最後にもう一つ、絵本に登場する不思議な絵を紹介しておきます。
これは何でしょう?・・・答えは次号