このホームページを一緒に作ってくれるCURIOUSのみなさんから、こんな部屋をいただいた。
「なにをかいてもいい」って言われ、「ホントにいいの!」ってもう一度聞いたら、
「もちろん!」と嬉しいお言葉。
とんでもないことを書くかもしれないけれど、ぜひお友達を誘って遊びに来てくださいね。
2017/06/09
Vol.405「酔談、賞は必要か?」
6月の夜、第四回湘南Vividアート展の実行委員の人たちと打ち上げを行った。
誰かが持ち込んだ大吟醸「獺祭(だっさい)」とシャンパンを傾けながら、
「この獺祭、プーチンが山口に来た時に安倍が出した酒だろう?うまいのかねえ?」
「獺祭って日本各地にあるよね?藤沢の奥にもあるし、彼ら愛嬌があるよねえ」
「ああ、人間と獺が一緒に生きてたよき時代の酒というわけか、いいねえ・・・」
ま、辛口も甘口も、それぞれの思いを口にしながら杯を開けていく。
昭和初期の米屋を改造した蔵まえギャラリーの窓を開け放した和室の中を心地よい風が流れていく。
酒の香に誘われ、蚊どもも酔人の頬にとまり会話を楽しんでいる。
そんな中、盛り上がったのは、Vividアート展に賞は必要なのかという事。
「Vividアートというのは、表現技術とかテーマに関係なく、身体の奥から現われてきたものを形や色彩にして、そのままぶつけるアートをイメージしているんだから、何でもあり。そこに賞を持ち込むのはおかしい。」
「賞というのはどうしても評価につながっていく。もう評価なんてどうでもいいじゃない、作ること、表現することをみんなで楽しめればそれで十分よ」
そんな声の一方で、
「賞があると作家たちが喜ぶんだよ、描いていく励みになるんだよねえ」
「絵の評価というよりも、がんばったねとか感動したという私たちの思いが伝えられる賞になるといいわよね」
「自分の作品を認めてほしいという想いはみんな持っているもの」
そんな声もある。
ああでもないこうでもないと息まいたところで
「ま、いろんな意見があるのがここのいいところ。作品も人もそれぞれ言いたいことを主張する。それがいいんだよ」
「賞という言葉が問題なんですよね。賞というイメージを持たない言葉があればいいんですけれど」
と賢人風の意見も出る。
「無理やりまとめる必要はないよ。でも賞の評価が作品の良し悪しじゃないってことはみんな同じでしょう?そこで提案。あの市長賞、あれはやめようよ。あれはやっぱり権威臭い。いかにも授けてやってる風でよくない!」
だんだん、智慧が煮詰まってくる。
確かに賞状に押す市長印をもらいに行くと、賞状の形式にこだわったりといったお役所的な対応に出くわす。
そんな権威は必要ないのだという流れが一気に作られる。
帰りの電車の中で、ボクは評価とは関係のない賞のネーミングを考える。
Vividな風(賞)
海辺の貝殻(賞)
優しい気持ち(賞)
んん・・・ぴったりこない。
多くの作品の中から一つだけ拾い出すのは、やはりなんだか違う気がするのだ。
ボクらは権威でも何でもないのだ。
2017/06/02
Vol.404「あなたはだれだあ?」
気持ちよく晴れた五月の夕方、成城学園の支援施設で時々、作品を見せてもらっている平山さんが相模大野のフェースに見学に来た。
平山さんは車いすを使用していて、一人生活をしているので24時間介助を必要としている。
ヘルパーさんと一緒にスペースに登場すると、あれ?っていう小さな驚きが仲間たちの間に広がった。
いろいろな人がスペース見学に来るので初めての人にも慣れっこの仲間たちだけれど、今回登場したのは野球帽をかぶりちょび髭を生やした宮藤官九郎に似ている面白そうなおじさん。車いすを押しているヘルパーの荒川さんもひげを生やし、こちらはなかなかカッコいい。
一見するだけで、なんだか妙に存在感のあるコンビなのだ。
自己紹介では、首を傾げ、口を開け閉めしながら、腕と身体を使って話す平山さんの傍らで荒川さんは、一文字一文字、平山さんの言葉を確認しながら伝えていく。
例えばこんな風、
「ワ」「ダ?ちがう?タ?そう?タ!」「シ」「ワ」・・・「ワタシハ!」
「ヒ」「ラ」「ア?チガウ?ヤ?ヤ!」「マ」「テ?デ?デ!」「ス」・・・「ヒラヤマデス!」
「イ?チガウ?イ?キ?キ!」「イ?ミ?ミ?ミ!」「タ」「イ?チ?チ!」「オ?チガウ?ヨ?ヨ!」「リ!」「ヨ」「リ」「オ?チガウ?モ?モ!」・・・「キミタチヨリモ!」
「オ」「イ?キ?チガウ?チ?チガウ?ジ?ジ!ジ!」「サ」「ン」「テ?デ?ソウ?デ!」「ス」
「ア?カ?ガ?ソウ?ガ!」・・・「オジサンデスガ!」
「ヨ」「オ?ロ?ロ?ソウ?ロ!」「シ」「ク」・・・「ヨロシク!」
「ワタシハヒラヤマデス/キミタチヨリモ/オジサンデスガ/ヨロシクオネガイシマス」
結構な時間がかかって、テロップ風の言葉が生まれてくる。
平山さんと荒川さんの息の合った身振り手振りのやりとりは、不思議なパーフォーマンスみたい。
仲間たちは絵を描いていた手を止め、何が起こっているんだろう?と見つめている。
尚矢さんなんか口を開けて、固まっている。
お母さんたちも、二人の言葉に聞きほれ、凝視している。
それは、ワタシが今まで見た最高の自己紹介だった。
見学だけでは面白くないので平山さんにも絵を描いてもらうことにした。
「荒川さんを描いてよ」というと嬉しそうに描き始めた。
荒川さんも描いてもらうのは初めて、腕を組んでモデルのポーズ。
平山さんの両手はマヒのために使えないので、野球帽をかぶった頭で描く。
絵筆を固定するための針金で作った輪っかを野球帽に取り付け、机にかぶさるように、頭を右左に移動させながら、絵を描いていく。
みんなが注目しているので、心なしかいつもより真剣。
描き終わって、赤い字で「平山」と漢字で署名。
「平山さんが文字を書くのをはじめてみました」と荒川さんも感激した様子。
みんなに見せると、拍手。
いつか、平山さんが頭で描く大道似顔絵かきとして、人の行きかう駅前にデビューしたら面白いだろうなあとワタシは思ったのでした。
2017/05/26
Vol.403「現代の浮世絵師になりたい」
湘南vividアート展の最終日に都民版幻坊さんに会った。
都民版?幻坊?
不思議な名前である。
風貌もそうだ。
野球帽を目深にかぶり、髪は肩まで伸びて、おまけにひげも生やしている。
眼鏡の奥に表情が隠れている。
幻坊さんは、人が出入りする会場の隅で掌サイズの紙に何かを描いていた。
「何を描かれているのですか?」
声をかけると黙って描いたものを見せてくれた。
五つの目が横に並び、大きな口には12本の歯が並んでいる。
その目と口で一つの顔が構成されているのだが、それは一人の人物の顔ではなさそうだ。
少なくとも四人の人物がその顔の中に棲んでいる。
言葉を失う。
何か言おうとしたのだけれど、絵に吸い込まれていく。
それから、和室の掘りごたつに座り、少し話をした。
幻坊さんの言葉は、水滴のようにぽつりぽつりと落ちてくる。
19歳の時に統合失調症を発症した。
3年前まで言葉が出なかった。
いまも24時間幻聴が聴こえる。
仕事を終え、部屋に帰っても幻聴はやまない。
疲れる。
眠りたいので、絵を描いてる。
酒を飲み、紙を前にすると模様のようなものが浮かんでくるので、それを描く。
何も考えていない。
手が自然に動く。
その時だけ幻聴から離れていられる・・・
そんなことをゆっくり話した。
後日、彼の小さなアトリエに行き、いくつかの絵を見せてもらった。
身体の輪郭を失った目や口が溶け出し、濁流の中を流れているような絵だ。
息苦しさを覚えるが、絵は文様のように丁寧に描き込まれている。
思わず「絵を描くのは楽しいですか?」と聞いた。
「楽しくはないです。幻聴から逃れるのはこれしかないから」と絞り出すように答えが返ってきた。
それから珍しく、彼の方か話しかけてきた。
「俺、浮世絵が好きで浮世絵師になりたかったんです」
発症前に彼が描いていた浮世絵をコラージュした瓦版を見せてくれた。
「もうこんな絵は描けないですけれど・・・」
うなだれタバコを吸い続ける彼の姿を見ていると、彼の絵は、あふれる情報の洪水に自分を見失い、状況に流されていく私たちの世相を映した、現代の浮世絵のようにも思えてきた。
2017/05/19
Vol.402「似顔絵描きの時間」
5月8日に幕を閉じた第4回湘南vividアート展。
今年もTVKやFMヨコハマ、朝日新聞などに紹介され、多くの観客の方々でにぎわった。毎年、作家さんやお客さんが和室でお茶を飲みながらのんびり時間を過ごす独特な展示スタイルで好評なのだが、今年のイベントで人気だったのが、出展作家たちによる似顔絵描き。
普段はなかなか出会うことのできない作家さんたちとおしゃべりをしながら似顔絵を描いてもらおうというのが趣旨で、昨年から始めたもののだが、これが作家さんたちや観客の方々に好評。
作家さんたちは多彩。プロもいれば、障がいのある仲間たちもいて、作品展の開館と同時に絵具や色鉛筆を携え、それぞれが土蔵や和室に自分たちの小さな作品を並べて、お客さんを待つ。机の上に並んだ作家さんたちの作品ファイルを見て、お客さんは描いてもらいたい作家を選ぶことができる。
「似顔絵を楽しみに今年も観に来ました」という方、「こんなことができるアート展はVividだけですね」という方、「Vividの作家さんたちの似顔絵をコレクションしようと思って」なんて嬉しいことを言ってくれるなじみの客さんも現われ、何度も作品展に顔を出してくれたりする。
気に入った作家さんを選ぶと、お客さんは「描いてもらえますか?」と声をかける。
「ああ、いいよ!」と愛想よく応える作家さんもいれば、まったく視線を合わせず、アシスタントの方(保護者や支援員さん)が「どうぞ、どうぞ」と席を勧めたり、中には「選んでくれてありがとうございます」と丁寧に頭を下げ、じっとお客さんの顔を見続けている作家さんもいて・・・その対応は千差万別。
その時々の作家さんの気分によるけれど、使う画材や紙の大きさだって注文できるのだ。そんな作家さんたちの対応にドギマギしたり恐縮したりするお客さんの表情もまた楽しい。
似顔絵を描く時間は、およそ10分ほど。
小さな机を挟んで、お客さんと作家さんは対峙することになるのだが、そこにもなんとも言えない人間味のある空間が生まれる。
まずはポーズ。
真正面から描いてもらうお客さんが多いけれど、お勧めは頬づえスタイル。それもちょっと横向き。なぜかというと、正面からだとパターン化された顔になりやすく、どうしても作家の個性が薄まるからだ。両耳を引っ張るポーズや口をとがらせるポーズなんかすると、作家は何度も顔を見てくれる(笑)。
ポーズが決まるといよいよ描き始めるのだが、お客さんをチラッと見ただけで、あとは見向きもせずぐいぐい描いていく作家さん、目ばかりをやたら丁寧に描き込んでいく作家さん、青や緑でせっかく描いた顔のラインを塗りつぶしていく作家さん、独り言が多くて手の動きはのろのろの作家さん、一筆書きのようによどみなく手を動かし、手が止まると「終わり!」と宣言する作家さん・・・お客さんは生唾を飲み込むように、そんな作家さんたちの表現にくぎ付けである。
描き終わったら、「300円!」と作家さんの手がお客さんの顔の前に突き出される。
あわてて財布を覗き込み、100円玉3枚を渡すお客さん。
そこにはVividアート展でしか生まれない一期一会の特別な時間がある。
お客さんは、似顔絵と一緒にそんな時間も大切な思い出として持って帰るのだろう。
2017/05/12
Vol.401「仲間たちと作品たちの最高にワンダーな世界」
第四回湘南vividアート展が終わった。
今年も144点の作品たちが集まってくれた。
彼らが作る祭りの空間は相変わらず楽しさに満ちている。
でもそこに入りこむのは結構難しい。
がちがちに塗り固められた常識や権威からボクら自身がどこまで自由になれるかどうかが鍵なのだ。
何度も彼らの前に立ち、色の匂いや線のダンス、甘い声・・・そんなものに触れていると、
「あれ?こんなところにホクロがあったっけ?」とか、「閉じてたはずの目が開いているぞ!」とか、に気づくことがある。
作品たちは生きているのだ。表情の変化だって不思議なことじゃない。
そんなことが当たり前に思えるようになってくるとしめたもの。
そこが彼らの世界の入り口なのだ。
「ほらほら、ついておいでよ。」
彼らはそんな風にボクらを誘ってくれる。
今年はこんなことがあった!
大きなワニの絵を描いた里穂さんが、突然、「ナミ!ナミ!」と言いながら自分の作品を指さし始めた。それから似顔絵を描いている人から色鉛筆を借りると、そのワニ作品にどんどん色を塗り始めたのだ。
ワニはどんどん変化していく。
ワニは虹色の水の中に少しずつ沈み込んでいく。
ワニは短い手足を動かしながら、水の中を泳ぎ出そうとしている。
里穂さんにとって絵は完成じゃなかったのだ。
一心に描き続ける里穂さんを見ながら、お客さんもボクらも何だか楽しい気分に浸っていた。
こんなこともあった。
リトルピープルの画家KOUKIさん。たくさんの作品が漂うギャラリーに来たら、両耳を抑え、「ウッ、ウッ」って言いながら跳びはね始めた。それから、目線を宙に泳がせ、土間や土蔵の中を泳ぐように移動し始める。柔和で楽しそうな表情。
やがてKOUKIさん、和室に座り込み、いくつも丸を描いた。それを「さあ、飾れ!」というようにボクに差し出した。
これがKOUKIさんと作品たちの祭りの形なのだ。
印象的だったのは、おばあさんが出展した子どもの等身大の忍者人形。
作品の前に立っているその後ろ姿は妙にリアルで、入ってきたお客さんを何人も驚かせた。
それが楽しかったのだろうか?
展示が終わり、引き取りにきたおばあさんが風呂敷で包み、ガラガラ車に入れて持ち帰ったのだけれど、忍者人形は両足を突き出し、「帰るのはいやだあ!」と最後まで駄々をこねていた。そのやり取りは、vividアート展、最高のアートシーンだった(笑)。